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17 決意
暮れかけの空に、少女たちの明るい声が響く。
「あの新しいお店、また行きたいなぁ」
「じゃあ、今度はモンブランも頼みなよ! すっごく美味しかったから!」
黒髪と茶髪の少女二人は、人気無い住宅街を歩いていた。無邪気な笑顔を浮かべながら、右手に見える、暗然と落ち窪んだ分かれ道を通り過ぎて行く。そこに潜む黒いバンの中では、三対の鋭い視線が光っていた。
「女の子たちだけで歩くなんて、ちょっと不用心じゃねぇか?」
リアガラス越しの景色から二人が消え去ると、体躯の良い男は呆れたように呟いた。後部座席の背もたれに顎を乗せたまま、重く短い溜息を吐く。彼の言動に対し、隣の小柄な男は静かに頷いた。前髪で目が隠れていてわかりづらいが、顔に薄っすらと戸惑いの色を浮かべている。
「何だか、心配になってくるね」
「まだ現実味がないんでしょ。突然一族の問題に巻き込まれた訳だし」
至極冷静に切り返したのは、運転席に座る巻き髪の女だ。
彼女の言葉を最後に会話が途切れ、辺りの空気は思い出したように冷気を増していく。静まり返った住宅街には、少女二人の話し声以外何も聞こえない。
「衛利彦くん、そろそろ」
好機を悟ったのだろう。小柄な男が名前を呼ぶと、体躯の良い男―――衛利彦は、仕方なさそうにその身を起こした。
「本当は、こんなことやりたくねぇんだけどな」
「それは私たちだって同じよ」
巻き髪の女の言葉に、衛利彦は再度大きな溜息を落とした。
「紫織、鷹司。準備はいいな?」
衛利彦の顔つきは、打って変わって真剣そのものになる。二人が覚悟を決めた様子で頷くと、彼は単身バンの外へ飛び出して行った。程なくして、バンは逆方向へと滑り始める。遠ざかるエンジン音を聞きながら、彼は少女たちの追跡を始めた。
「そう言えばさあ、ついこの間、南に彼氏が出来たらしいよ」
「えっ、そうなの!? どんな人か知ってる?」
「うーんとね、確か……」
少女たちは相も変わらず、他愛ない話に花を咲かせている。
電信柱に身を隠しながら、忍び足で尾行を続けること数分。見つかるかもしれないという緊張感が頂点に達した時、行く手に見える右側の曲がり角から、バンの先端がぬるりと顔を出した。
衛利彦は固い唾を飲み込んでから、二人との距離を慎重に詰めて行く。そして、曲がり角まであと数メートルとなった所で、その無骨な手を黒髪の少女に伸ばした。
「うわっ!」
直後、斜め上から吹いた疾風が、彼の手をバチンと弾き落とした。足元の影が濃くなったことに気づいて、反射的に顔を上げる。
「何でここに!?」
目前には、彼らが追い払ったはずの男―――響介が立っていた。
廃工場の中を、耳障りな高い音が突き抜ける。先ほどまで余裕綽々だった男の右頬には、細い一筋の傷が走っていた。じわりと滲み出る赤い液体が、音も無く頬を伝っていく。呆気に取られた様子のまま、彼は背後に視線を投げた。木の板を打ち付けられた壁には、鋭い短刀が突き刺さっていた。
「急に動かない方が良いわよ。それ、毒が塗ってあるから」
男の視線が階下に移る。一階中央に立つ黒服の男は、不敵な笑みとともにその身体を変形させた。現れたのは、小綺麗な長髪の男だった。
「可哀そうに。今頃、貴方のお仲間は返り討ちに遭ってるんじゃない?」
「あの、佳哉さん。ありがとうございました」
「いいのよ、当然でしょ!」
ご機嫌な様子でウインクをしてくる彼に、宙はホッと胸を撫で下ろした。
彼は以前の忠告を守り、響介と佳哉に相談していたのだ。例の男に声を掛けられたことを伝えると、二人は相手の思惑を予想し、それを利用して追い返そうと綿密な計画を立ててくれた。しばらくの間、彼らに足を向けては寝られない。
「手前、俺を嵌めやがったな」
男はわなわなと身を震わせており、怒り心頭といった様子だ。煮えたぎるような感情を向けられ、宙はごくりと唾を飲む。
「あの人がいなくなれば良いって思ったことも、彼女が俺のものになればいいと思ったことも嘘じゃない。だけど」
宙の脳裏に、自室で万里と交わした言葉がよみがえる。意固地になって響介を呼ばず、怪我を負ったあの日の会話が―――。
「一族のことになると俺は無力だ。そう、わかってるのにね」
割り切れない複雑な思いを打ち明けると、万里はそっと口を開いた。
「僕は恋とか難しいことはわかりません。でも何となく、宙さんの寂しい気持ちはわかります。僕たち三匹も、ずっと一緒だったから」
思いがけない言葉に顔を上げる。万里は、澄ました顔で話を続けた。
「朝日って、昔は僕らがいなきゃ何も出来なかったんです。それが最近は全然頼らなくなってきて。それはすごく良いことだけど、僕らの手を離れて行くことはすごく寂しいって思いました。だから、宙さんの寂しい気持ちも悪いことじゃないと思います」
「万里……」
その言葉に胸が温かくなり、宙は感慨深そうに万里を見つめた。
「でも、それとこれとは話が別です! 佳哉さんが言っていたみたいに、命に係わる問題なんですから、助けはちゃんと呼びましょう!」
強気な言葉は、再びちあきを彷彿とさせた。あまり意見をはっきりと言えない宙にとって、彼女の態度は憧れでもあったのだ。宙は思わず喉を鳴らした。
「万里って、本当にちあきに似てるね」
「頭が堅いってことですか?」
「違う違う、真っ直ぐで格好いいってことだよ」
機嫌を悪くした様子の万里に、宙は微笑みかける。
「話を聞いてくれて、ありがとう」
「いいえ、どういたしまして」
万里は素っ気ない返事をすると、寝床としているクッションの上に飛んで行った。
彼のおかげで、自分の気持ちが許されたような気がした。そしたら、見失っていた大切なことを思い出せた。彼女を本当に想うということが一体何なのかを―――。
「あの人を消したって、意味がないことがわかったんだ」
震える拳をぎゅっと握り、宙は勢いよく顔を上げた。
「消し去りたいのは、臆病で卑怯者の俺自身だ!」
工場内に彼の大声がびりびりと響き渡る。勇ましく言い切った宙を、佳哉は安心したように見つめた。
「この……っ!」
迷いのない眼差しを向けられ、男は悔しそうに下唇を噛む。抗おうと策を講じていたようだが、それはすぐさま終わりを告げた。
「俺を欺いたこと、絶対後悔させてやるからな!」
怒り任せに言い捨てると、彼は背後に広がる闇の中へ駆け出して行った。何度も転びそうになりながら通路を走り抜け、様変わりした外へと飛び出して行く。
「俺は、間違ってなんかいねぇ……っ!」
絞り出したような小さい声は、冷たい夜の風に掻き消された。
宙たちは、廃工場を後にして住宅街へ向かった。街灯下に佇む探し人たちの姿を捉えた途端、隣の人物はご機嫌な様子で手を振り始める。
「あっ、いたいた! おーい!」
「佳哉、俺の姿でその言動はやめてくれ……」
響介のげんなりした顔に、宙は苦笑いを溢した。佳哉はせっかく解いた変身を戻し、響介の姿で歩いてきたのだ。彼にこんなお茶目な一面があるとは思わなかった。
「あはははっ、佳哉さん最高っ!」
隣にいる沙月とちあきは、滅多に見られない光景に腹を抱えて笑っている。それを見て満足したのか、佳哉は変身を解いた。
「二人とも。大丈夫だった?」
「うん、平気だよ!」
宙の問いに、ちあきは目尻の涙を掬いながら答えた。
「後ろから怪しい人が付いて来てたんだけど、すぐに逃げて行ったから」
彼女たちが言うには、ちあきを襲おうとした男は、仲間と思われる黒いバンに拾われて、目にも止まらぬ速さでその場を後にしたそうだ。
「今までの吸血鬼の中だと、かなりあっさり引いていましたね」
ちあきの肩口に止まっている大河の言葉に、響介が口を開く。
「いや、あれは吸血鬼じゃない」
「えっ?」
その淡々とした物言いに、辺りが一瞬にして静まり返る。
「あれは、一族を生み出した研究者の末裔だ」
響介が言い終えると、沙月は不可解そうに首を傾げた。
「研究者って人間なんですよね? それなのに、どうしてちあきを?」
二人づてに話を聞いてはいたが、宙も全く同じことを考えた。人間である研究者が、ちあきを襲う意味がわからない。
「大方、例の吸血鬼に指示されたと言った所だろう。あいつらは、基本的に一族に付き従う存在だからな」
つまり、今後は対人間でも気を抜いていられないという訳か。
三人が黙りこくっていると、重くなった空気を変えるように、佳哉がポンと両手を合わせた。
「時間も遅いし、とりあえずお家に帰りましょう! 私もお店に戻らないと!」
彼の言葉を聞いて、宙は万里の存在を思い出した。
今回佳哉を借りるため、万里にはバーの仕事を代わってもらっていたのだ。飲食店は今が書き入れ時。きっと今頃、忙しさで目を回していることだろう。
「それじゃ、私は行くわね! 響介、三人を頼んだわよ!」
「あぁ」
こうして、ひとまず難を逃れた彼らは、それぞれの帰路に着いたのだった。
屋敷に戻った研究者たちは、上司である銀縁眼鏡の男―――要に事の次第を報告すると、疲れた様子で彼の執務室を後にした。三者三様の足音が、長く豪奢な廊下に響く。
「ったく、今回でけりが付くと思ったのによぉ!」
頭の後ろで両手を組みながら、衛利彦が盛大な溜息を吐く。彼の残念そうな様子を見て、隣の小柄な男―――鷹司が口を開いた。
「まあ、予想の範疇でしょ。あの人の立てた作戦、すごく雑だったし」
「ちょっと、聞かれてたらどうするの」
さらにその隣にいる巻き髪の女―――紫織は、鷹司の発言に小声で釘を刺した。
吸血鬼は本当に耳が良い。そのことは皆、間近で見て育ったために重々承知している。
「大丈夫だよ、今頃また森で暴れてるでしょ」
作戦の立案者は、怪我を負って帰って来ると、最低限の報告だけして要のもとを去ったらしい。彼が温和な人物だから許される態度だ。
「それにしても、最近は強硬派の動きが一層激しくなって来たわね」
紫織は、手元のバインダーを見ながら言った。そこに挟まれた用紙には、穏健派の吸血鬼から報告された、強硬派の動向が記録されている。
「共食いも近いんじゃねえの」
「馬鹿言わないでよ。そんなことになったら本当に終わりだわ」
咎めるように言う紫織に、鷹司は無表情のまま続ける。
「衛利彦くんの言うことも一理あるんじゃない? さっきの男なんて、その筆頭でしょ。あの子の血を使って、一体何をする気なんだか」
三人は口々に不安を吐露しながら、数ある部屋の一室に入って行く。部屋の斜め前にある廊下の曲がり角では、彼らの会話を聞いた人影が小刻みに震えていた。
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