2 十字の盟約

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2 十字の盟約

 深夜零時。町の外れにある荒廃した公園で、一人の男が苦悶の表情を浮かべてうずくまっていた。右腕の怪我は見た目より深く、回復にはそれなりの時間を要するだろう。 「酷い有様ね」  そこに足音も立てず、細身の女が近づいた。射干玉のような髪は長く重く、揺れる無地のワンピースは、青白い光に照らされて死に装束のようにさえ見える。 「笑い者にするだけなら消えろ。気が立ってるんだ」 「そう言わないで。一体何があったの」  女はそう言って、赤い液体の入った瓶を差し出す。男はそれを無事な左手で受け取ると、コルクの栓を貪るように口で引き抜いた。液体を直に半分ほど呷る。生き返ったと言わんばかりに吐いた息は、鉄の匂いを漂わせていた。 「上物を見つけた。こんなのとは比べ物にならない奴さ」 「まあ、どんな人だったの?」 「日暮れ高校の生徒だ。小柄で髪が黒い。あとは自分で探せ」  自分が見つけた獲物だ。そう易々と情報をくれてやる義理はない。乱暴な口調に籠った悪意を気にも留めず、女は不敵な笑みを浮かべた。  思いがけない出来事から一夜が明けた。 「昨日は本当にびっくりした!」  ちあきがいつものように登校していると、隣を歩く沙月が大袈裟なくらいに言った。  彼女との電話を終えて高校に辿り着いた時、ちあきは顔面蒼白だったらしい。あれだけ血を奪われたのだから無理もないが、本人は言われるまで気づきもしなかった。歩いて来たのが奇跡だと言われたくらいだ。 「もう体調は大丈夫なの?」 「うん、心配かけてごめんね」  もとの顔色に戻ったちあきを見て、沙月は胸を撫で下ろしている。  ちあきと合流するまで、沙月は翌日も探索をする気満々だったらしい。しかし、彼女の体調を考慮して、さすがに中止することを決めたようだ。  何はともあれ、ちあきは今日一番にやらなければいけないことがある。  教室に入ると、昨日ほどではないが、また人だかりが出来ていた。その中心には、いつも通りの宙がいる。ちあきは少女たちに断りを入れて間を潜り抜けると、宙の前に立った。 「おはよう、宙くん。ちょっといい?」 「え? うん、どうしたの?」  ちあきは挨拶もそこそこに、神妙な面持ちで問いかける。宙は見るからに戸惑いの色を浮かべているが、彼女は全くお構いなしに口を開いた。 「宙くんの誕生日は?」 「一月三十日」 「血液型は?」 「O型」 「好きな食べ物は?」 「辛いもの」 「ちょっと、ちあきってばどうしたの?」  沙月が訝し気な顔をして輪に入って来る。しかし、ちあきは質問をするのを止めない。 「中学校のときの部活は?」 「サッカー部」 「小学校三年生の時の遠足の場所は?」 「裏山の自然公園」 「五歳の時、保育園の池でやらかした事件は?」 「ちょ、本当にどうしたの!?」  宙は顔を真っ赤にして慌てふためいている。この反応は間違いない。彼が五歳の頃保育園の池に落ち、そのままお漏らししてしまったというエピソードを知っていることに他ならないだろう。 「ごめん、もうわかったからいいよ」 「わかったって何が?」 「こっちの話。ごめんね、邪魔しちゃって」  幼馴染三人だけの秘密により確信を得たちあきは、不思議そうな顔で見つめてくる宙を置いて自分の席に向かった。 「ちあき、突然どうしたの? あんなの聞かなくても知ってることでしょ」  沙月の問いに、ちあきは少し考えてから答える。 「もし沙月の言うドッペルゲンガーに出会ったら、本人か確認できるようにおさらいしておいただけ」 「あぁ、そういうこと? 急に何をやりだすのかと思ったわ」  沙月は納得したような素振りを見せつつも、「変なの」と物珍しそうな視線を向けている。普段、ちあきがオカルト話に興味を示さないことを知っているので尚更だ。 「今日は雨でも降るんじゃない?」 「梅雨はもう明けたでしょ」 「そうじゃなくて」  そこでチャイムが鳴り、沙月は慌てて席へ戻って行った。ちあきは机に頬杖を突きながら、斜め前の席の宙をちらりと見る。  あの様子なら、昨日出くわした別人ということはなさそうだ。  安心と度重なる気苦労に、ちあきは溜息を落とす。  一晩考えてみても信じられない。本当に吸血鬼なんてものが存在するなんて。  あまりの展開に、昨日の出来事は夢だったのではないかとさえ思えてくる。けれど、鏡に映った首元の跡は、容赦なく否定してきた。  もしかして、沙月から聞いた行方不明事件も、彼らが関わっているのだろうか。そう思ったところで、黒服の男の言葉が脳を過る。  ――――世の中、知らないほうがいいこともある。  その通りだとわかっていても、そう易々と忘れるなんて出来っこない。  もう二度と、あんなことが起きませんように。  今の彼女に出来るのは、切に祈ることだけだった。  それから一週間後。無情にも、再び彼女の周囲で不穏な気配が漂い始めた。 「ねえ、今度は一組の木下さんだって!」 「また貧血?」  同じクラスの少女たちがする噂話に、ちあきはびくりと肩を震わせる。 「ダイエットのし過ぎじゃない? もうすぐ夏だしさ」 「みんな頑張るねー。ご飯抜きとか、私は絶対無理だわ」  少女たちは、何でもないような顔で笑い飛ばしながら、教室を後にした。  ここ数日の間、日暮れ高校の女子生徒が、貧血で倒れるという事件が続いていた。最初はちあきも気に留めていなかったが、似た症状を訴える生徒はこれで六人目。こうも度重なれば、偶然ではなく必然だと言うほかないだろう。  ともすれば、あの恐ろしい存在を思い出さずにはいられない。 「ちあき、どうかした?」  向かいで弁当をつついていた沙月が、ちあきの顔を覗き込む。自分の手が止まっていたことに気づき、ちあきは慌てて首を振った。 「ううん、何でもない!」  噂話大好きな沙月が、この件にさほど興味を持っていないことは幸いだ。一人で調査に飛び出そうものなら、こちらの胃が限界を迎えてしまう。  それに、自分の思い過ごしかもしれない。  ちあきは希望的観測にすがり、膨らむばかりの不安にどうにか耐えていた。  そんなある日のこと。沙月が部会に参加するため、ちあきは一人で下校していた。  まだ日も高く、人通りも多い時間帯だ。彼女が安心して歩いていると、駅前通りに差し掛かる頃、道の脇の草むらから黒猫が姿を現した。 「わあっ!」  しなやかな体に、くりっとした瞳。動物に縁の無いちあきは、その可愛さに思わず駆け寄った。驚かせてしまったかと思ったが、黒猫は彼女が近づいても全く自然な様子で待っていた。どうやら人懐こい性格らしい。 「良い子だね。ちょっとだけ撮らせてね」  デレデレした声で言いながら、落ち着かない様子でスマホを取り出す。そしてカメラに切り替えようと手早く操作をしていたその時、黒猫が突然飛び上がり、スマホを加えて走り去って行ってしまった。あまりにも無駄のない犯行に、一拍遅れて事態に気づく。 「えっ、ちょっと待って!」  ちあきは肩からずり落ちる鞄を引っ掴むと、慌てて後を追い始めた。  まばらにいる通行人は、何事だと振り向きつつも、黒猫を捕まえてはくれない。そうしている間にも、黒猫は駅前の大通りを逸れ、路地裏を駆け回り、どんどんと人気のない方へと向かっていく。文系のちあきは、見失わないようにするのがやっとだった。 「私のスマホ返してーっ!」  無我夢中で追いかけ、辿り着いたのは廃ビルが点在する町の外れだった。この辺は以前商業地帯として栄えていたエリアだが、駅前周辺に店が集中し始めてから、徐々に衰退していったと聞いている。  ちあきが追っていた黒猫は、そのうちの一つ―――どこよりも趣のある、損壊が激しい灰色の五階建てビルに入っていった。 「うっ、何か出そう……」  沙月のオカルト話は適当にあしらっている彼女だが、幽霊やおばけが怖くないという訳じゃない。如何にもな雰囲気を漂わせる外観に、思わず尻込みしてしまった。  けれど、あんな個人情報の詰まったものを奪われたままではいられない。  ちあきは仕方なく、薄暗いビルの中へ足を踏み入れた。 「おーい、出ておいで!」  周囲を確認しながら、少しずつ進んでいく。外観も酷かったが、内装も負けてはいない。以前は柔らかい色の壁紙が貼ってあったのだろうが、今はコンクリート壁が剝き出しになっている。物と呼べるようなものはほとんど撤去されているが、解体中に出たガラスや木片などは、無造作に打ち捨てられていた。  一体どこまで行ったんだろう。まさかと思いながら最上階に続く階段を見ると、折り返しの所から黒猫のしっぽがはみ出ていた。  息を切らしながらついて行く。黒猫は、現れた吹き抜けのフロアの真ん中に向かって走って行った。  数歩だけ近づき、黒猫の足取りを目で追う。そこには小さな人影があった。背格好からして女だろう。白いワンピースを纏ったその痩せっぽちな腕に、黒猫はひょいと飛び乗った。 「あら、お帰りなさい」  か細い声で言うと、女は慈しむように黒猫を撫でた。そして、黒猫が咥えていたスマホを取ると、ふっとちあきに視線を寄越した。 「これは、貴女の?」 「はい、そうです」  ちあきがおどおどと答えると、くすくすという笑い声が返ってくる。 「ごめんなさいね。この子、欲しいものがあると我慢出来ないのよ」  まるで他人事のように言いながら、女はヒールの音を響かせる。 「どうぞ」  訝しみながらも、差し出されたスマホを掴む。しかし、女は力を込めたまま離そうとしない。 「あの……?」  ちあきが様子を窺うと、女は変わらず、気味が悪いほどの上品な笑顔を浮かべていた。 「動物は飼い主に似るっていうじゃない? 私もね」  上がった口の端から、鋭い八重歯が覗く。 「欲しいものは我慢できないの」  その瞬間、ちあきの背筋に氷のような悪寒が駆け巡った。スマホから手を離し、一目散に階段へ走り出す。しかし、女は軽々とちあきの上を飛び超えて、行く手を塞いでしまった。 「そんなに警戒しないで。大丈夫、少しだけ血をくれたら帰してあげるから」  女が獣のような目で、ちあきに詰め寄る。  彼女が逃げ場のない恐怖に震えたその時だった。 「そこまでだ」  聞いたことのある凛とした声が、女の動きを制する。 「貴方は……」  女が振り返るや否や、その細腕は容赦なく捩じり上げられる。背後に立つのは、例の黒服の男だった。 「これ以上痛い目に遭いたく無ければ、今すぐ消えろ」  ギリギリという痛ましい音が、徐々に強くなっていく。女は悔しそうに顔を歪めると、乱暴に腕を払い、崩れた壁の隙間から外へ飛び出していった。  訪れた静寂に、危機が去ったことを実感する。  ちあきは呆気に取られた様子で、目の前の男に問いかけた。 「どうしてここが……?」 「お前が、路地裏に入っていくところを見たんだ」  この周囲に学生が立ち寄る場所なんて無い。異変に気付いて追ってきてくれたということだろうか。  淡々とした物言いの中に彼の優しさを感じ、ちあきの心は温かくなった。 「それより、いつまでそこにいるつもりだ」 「え?」 「早く帰れ。また襲われたいのか」  冷徹な物言いに顔をしかめる。そうしたいのは山々なのだが、身体が全く言うことを聞いてくれないのだ。  無言を貫くちあきに、男は呆れた様子で言い放った。 「もしかして、足が竦んだのか」  肯定するのが悔しく、ちあきは男から目を逸らした。こんな状況に置かれて平気な人がいるなら教えて欲しい。  胸中で言い訳がましい悪態をつく彼女の耳に、追い打ちのような溜息が届く。文句でもあるのかと睨もうとした時、その身体は無遠慮な手つきで男の肩に担ぎ上げられた。 「わっ、ちょっと!」 「死にたくなかったら大人しくしてろよ」  男はあろうことか、朽ち果てて剥き出しになっている壁の隙間から外に飛び降りた。 「きゃあ!」 「うるさい。耳元で騒ぐな」 「だ、だって!」  男はちあきの悲鳴を一蹴すると、辺りに点在する廃ビルの屋根を伝い、軽々と移動して行く。ちあきの身体は、地面から遠く離れた場所で浮き沈みしている状態だ。先ほどまで明るかった周囲は、厚い雨雲のせいで面影も無い。それが彼女の恐怖心を一層搔き立てた。振り落とされたら堪ったものじゃない。不遜な態度の男にしがみ付いてしまったのも仕方ないことだと、彼女は心の中で言い聞かせた。  五分ほどすると、男は日暮れ高校の裏手にある森に降り立った。肩から降ろされると、ちあきはひとまず礼を言おうと男に向き直る。 「えっと」 「何であんな所にいたんだ。もう関わるなって言っただろ」  ちあきは思わず、口を開けたまま制止した。男の酷く鬱陶しそうな顔に怒りが込み上げ、礼を言おうという気が一瞬で消え失せる。口も悪ければ態度も悪い。いくら逃げるためとはいえ、人の身体を平気で担ぎ上げるなんてマナーもなっていない。 「私だって関わりたくなかったわよ!」  男に敬語を使うことが馬鹿らしく感じられ、ちあきは鼻息荒く抗議する。彼は面食らっていたものの、一瞬でいつもの表情に戻った。 「まあ、狙われてもおかしい話じゃないか」 「それどういうこと?」  男は淡々とした調子で説明する。 「あいつは、最近立て続けにこの辺りの人間を襲っていた。見た所無作為に襲っている訳ではない。対象者には共通点があった」  ちあきは、固唾を飲んで男の話を聞く。 「日暮れ高校の制服に長い黒髪。恐らく、奴はその少ないヒントをもとに誰かを探していたんだろう」 「じゃあ、目的の人以外は巻き込まれただけってこと?」 「そうなるな。そして、真の目的はお前だ」 「私っ!? 何で……」  ちあきは目を丸くした。自分が狙われる理由など、微塵も心当たりがない。 「俺たちは匂いで血の階級(ランク)がわかるんだよ。俺の知る限り、お前はこの世に二人といない特別な血を持っている」  彼女は怒涛の展開に置いて行かれているが、男は気付くこともなく続ける。 「最初に会った時も感じていたが、実際に取り込んでみてわかった。他の奴らの血ではあり得ない身体の変化があったんだ。あいつらはそれを目聡く嗅ぎ付けたんだろう。心当たりは?」  その問いに、先日の―――宙に成りすましていた男のことを思い出す。  自分の身に未だ危険が迫っていることを理解し、ちあきは自分の体を両手で抱きしめた。同時に、この男が自分の前に現れた理由にも合点がいく。 「まさか、あなたも私を狙って……」  目の前の男を警戒し、一歩後退する。男は心外だと言わんばかりに顔をしかめた。 「俺はあんな汚いやり方はしない。今すぐ取って食おうだなんて考えていないから安心しろ」  半信半疑ではあるが、ちあきは男に向けていた警戒を解いた。何だかんだ自分を助けてくれているし、その言葉に嘘はないだろう。残る不安要素は一つだ。 「ねえ、私殺されるの?」  今まで周りで起こって来た出来事は、全て自分を狙うため。そう考えると、ひと時だって気が休まらない。自分以外に被害が及ぶことも容易に予想出来て、ちあきは泣きそうになった。 「相手が悪ければ死ぬだろうな」  男の素っ気ない言葉に、ちあきの肩はびくりと跳ね上がった。震えを押さえようと、自分を抱きしめる手に力を込める。 「怖いか?」 「当たり前じゃない!」  ちあきの頭の中は、死に対する恐怖で埋め尽くされていた。打開策を考えようにも、思考がまとまらず困惑するばかりだ。 「俺が助けてやろうか?」  男の言葉に、ちあきはパッと顔を上げる。やや上から目線な物言いは気になるが、今頼れるのはこの男だけだ。些細なことで文句を言っている余裕はない。 「助けて、くれるの……?」  ちあきはゆっくり腕を離しながら、藁にもすがる思いで男を見つめる。 「あぁ、ただし条件がある」  男は手慣れた様子で、ちあきの顎を掬い上げた。 「お前の血と交換だ」 「……は?」  思わず耳を疑う。それでは自分を襲ってきた奴らと大差ないじゃないか。そんなちあきの気持ちを察したのか、男は不満そうに言葉を続けた。 「あいつらと一緒にするなよ。俺は血をくれるなら、必ずお前を守ってやる」  男は真っ直ぐにちあきの目を見つめる。 「化け物に食い散らかされるか、血を対価に生活を守るか。どっちが良い?」  ちあきは負けじと男の目を見つめ返す。こいつの言葉を信じていいのだろうか。しかし、ただの人間である自分が一人で太刀打ちできるとは到底思えない。沙月たちを巻き込むつもりはないし、警察に言った所で取り合ってもらえないだろう。背に腹は代えられない。ちあきは汗ばんだ拳を握り、覚悟を決めた。 「わかった。私の血をあげる。だから絶対に他の奴らから守って」 「了解」  男は不敵に笑うと、ちあきの腰を抱き彼女の首元に顔を埋めた。この前と違い、縦に横に、確実に肌を切り裂く痛みが走る。男の腕を掴む手に力を入れ、ちあきは痛みに堪えた。早速血を取られるのかと思ったが、以前のように血流が異常に速くなる感覚はない。ただ噛まれているだけのようだった。  男の舌がゆっくりと(なま)めかしく噛み痕をなぞり、ちあきの身体は痛みに震える。その様子を満足そうに見つめると、男は首元から顔を離した。 「これで何処にいてもお前の場所がわかる。俺たちは聴覚も良いからな。敵が来たら俺の名前を呼べ」 「あなたの名前は……?」  彼女の問いに、男の動きが止まる。 「響介(きょうすけ)」  男は言い捨てるように名乗ると、森の奥へ姿を消した。呆然と見送るちあきの首元には、赤黒い十字の噛み痕が浮かんでいた。
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