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22 疑心暗鬼
「ちあき、どうしたのー?」
戻って来るなり、難しい顔で黙り込んだ彼女を、沙月はそっと覗き込んだ。けれど、ちあきは返事をせず、二人の間に収まったまま器用に早歩きで進んでいる。
彼女は皆の不思議そうな視線を浴びながら、頭の中でぐるぐると考えていた。
決して危ない目に遭いたい訳じゃない。今すぐにでも、平穏な日々が戻ってきて欲しいと思う。それでも、一族の問題に巻き込まれてから、逃げようだなんて考えたことはなかった。それは偏に、響介という仲間が困難をともにしてくれているからだ。
彼が頑張っているのなら、自分も現実から目を背けていられないと思った。守ってもらってばかりな気もするけれど、苦難を一緒に乗り越えるたび、ただの協力関係から距離が縮まっているような気がしていた。けれど―――
お前には関係ない、か。
自分との間にわかりやすい線を引かれ、ちあきは自分でも驚くほどに傷ついていた。彼女を苛んだのは、距離があったことの悲しみだけではない。
もしかして、私に特別な価値が無ければ、彼も私を襲っていた?
私は、本当にただの食糧としてしか見られていない?
ぱっくりと開いた傷口から、抑え込んできた疑念が次々とこぼれ出していく。
自分から信頼しなければ何も始まらない。そう思って、あえて疑わないようにしてきた可能性が、嫌に現実味を帯びて彼女の周りを取り囲んだ。
きっと、そんなことはない。そう何度自分に言い聞かせても、一度浮上した思いが完全に消えることは無かった。
「あの言い方はまずいんじゃないの?」
ちあきが去った後、佳哉は咎めるような視線を響介に向けた。
「何が」
「きっと勘違いしてるわよ。あんたが怒ったんじゃないかって」
「そんなことは……」
去り際に見せた彼女の表情を思い出し、響介は言葉を止めた。
一族の問題に巻き込まれたことは、あいつにとって不本意でしかないはず。だから、少しでも余計なことを考えなくて済むように、と思っただけなのに。何故、あんなに悲しそうな表情をするのだろうか。
自分が何を言っても、不満があれば物怖じせずに言い返してくる。そういう女だと思っていた響介は、初めて見せたちあきの一面に戸惑っていた。こういう時、一体どうすればいいのだろう。
「全く、あんたはいつも一言足りないんだから。誤解は早く解いておきなさいよ?」
佳哉に言われて、響介は重い溜息を吐いた。
翌日の放課後。ちあきはいつもの通り、沙月と学校を後にした。浮かない気持ちとは裏腹に、外は見事な秋晴れが広がっている。何だかなと思いながら歩いていると、校門を出て一分もしない所で、向かいから歩いて来る男の姿を目に捉えた。
「あっ、響介さんだ」
シンプルながら目立つ格好をしているので、沙月はいち早く気がつき声を上げた。
昨日の今日で、正直顔を合わせづらい。避けるほどのことではない気もするが、会ったところで落ち着いて話せる自信は無かった。
しかし、彼女の気持ちなんてお構いなしに、彼はもう目の前までやって来ている。
「こんにちは!」
「あぁ、学校は終わったのか?」
沙月の明るい挨拶に、響介は何食わぬ顔で言った。
「はい! 今日はどうしたんですか?」
「そいつに用があって来たんだ」
動揺を隠せず、口を噤んだまま棒立ちになっているちあきに、視線が向けられる。
「少し歩かないか?」
柄でもない誘いに、ちあきはより居心地の悪さを感じた。
沙月にニヤついた顔で見送られて、響介とともにいつもの通学路を逸れていく。彼は以前佳哉に助けられた場所である土手の橋を渡り、南東に向かっていた。
澄んだ風が吹き抜ける川沿いの道を、彼の半歩後ろについて歩いて行く。その途中で、ジョギングや犬の散歩をしている人と何度かすれ違った。美しい川を臨むこの通りは、住民から愛されている場所らしい。家と逆方向のため、この辺りに馴染みが無いちあきは、その何気ない光景も新鮮に感じた。
ふと、以前訪れた川岸に目を落とす。夏場は鮮やかな緑だった草原は、所々枯草色に変わっており、時の移ろいを物語っていた。
響介との出会いから四か月。人を知るには充分な時間が経っているのに、ちあきは未だに彼のことを掴めないでいた。
先行く彼の背中をちらりと見つめる。今だって、自分で呼び出しておきながら、何も言わず黙々と歩いているだけだ。元々お喋りなタイプではないようだが、口を閉じてしまえば余計に真意が分からないと言うのに。本当に困ったものだ。
昨日のことを怒っているのかと思ったが、どうやら機嫌が悪いという雰囲気でもない。ちあきは彼の用件がどんなものなのか、まるで見当がつかなかった。
「ねえ、用事って何?」
痺れを切らして問うと、彼は柔らかく微笑んだ。
「お前に見せたいものがあるんだ」
彼女はその優しい声色に驚き、鞄の外ポケットに収まる相棒に小声で話しかけた。
「大河、あの人頭でも打ったのかな?」
「まあそう言わず。良い傾向じゃないですか」
普段は安心感を覚える糸目なのに、今は何故だか納得がいかなかった。受け答えがハキハキしている上、愛想も良い。響介の言動は、ちあきの不満を都合よく払拭したみたいですごく不自然だ。
突然の変化に戸惑いながらも、ちあきは彼の背中を追って足を動かした。どうやら町の端に向かっているらしい。
「着いたぞ」
そう言われて顔を上げると、短い石段の先にある小さな神社が目に入った。以前沙月と訪れた、夏祭り会場の拠点となっていた場所だった。
彼に続いて石段を上っていく。堂々とした面構えの石鳥居が彼らを出迎え、長閑な空気の満ちる境内へと誘った。参道の周りに植わった木々はすっかり紅葉し、落ちた葉っぱが地面に赤い絨毯を作っている。
「わっ、すごい……!」
道中で見かけた木々も秋めいていたが、ここの景色は比べ物にならないほど美しい。
一面燃えるように色づいた境内は、降り注ぐ金色の光に照らされて眩しく輝いており、あっという間に彼女の心を惹きつけた。
「この景色を、私に?」
「あぁ」
ちあきが振り返ると、響介は穏やかに頷いた。
「ここ最近、ずっと大変な目に遭っていただろ。気晴らしになればいいと思って」
その言葉を聞いた彼女は、こんな気遣いが出来る人だったのかと驚いてしまった。
「気に入ったか?」
「うん、ありがとう……」
日頃は棘のある態度を取ってばかりの彼女だが、この混じりけない好意には、自然とうれしい気持ちを口に出来た。
どんな心境の変化か知らないけれど、いつもこうなら良いのに。
そんなことを考えていると、響介がふと彼女の背後に立った。
「なあ、こんな人気の無い所についてくるってことは、期待してもいいんだよな?」
「えっ?」
突然のことに理解が追いつかず、反射的に振り返る。すると、彼の右手が伸びてきて、ちあきの顎を慣れた様子で掬い上げた。
「何すんのよ!」
先の展開を瞬間的に察したちあきは、思わず右手を振りかぶった。しかし、反対の手でいとも簡単に受け止められてしまう。
「それはこっちの台詞だろ。叩こうとするなんてあんまりじゃないか?」
文句ありげな表情を浮かべた響介が、また一段と距離を詰めてくる。彼女は間近に迫った端正な顔を、残った左手で必死に突っぱねた。
「嫌だってば!」
「ちあきさん!」
彼女が拒絶の声を上げたその時。大河が鞄のポケットから飛び出して、響介の顔に体当たりをかました。不意打ちの攻撃に、ちあきを捕えていた手の力が緩む。その一瞬の隙に、ちあきは彼から距離を取った。
「響介さん、無理強いはいけませんよっ!」
大河はちあきの前に飛んで戻ってくると、珍しく険しい顔で叫んだ。響介はぶつかられた頬を押さえて、ちあきたちをじろりと睨んでいる。
彼は一体どうしたと言うのだろうか。人を元気づけようとしたと思えば、こんな風に迫って来るなんて。
急展開に戸惑う中、もしかしたら彼は初めからこういう人間だったのかもしれない、という考えが過った。
いつも無愛想で、大事なことは言わないくせに一言余計で、デリカシーもない。助けるときは何処か面倒くさそうだった気もするし、佳哉さんが「血をあげなくてもいい」と言ったときは、露骨に嫌そうな顔をしていた。きっと、私に価値が無ければ見向きもしなかったのだろう。
そこまで考えて、ちあきはハッとなった。最後に血をあげたのはいつだっけ。
―――彼は、本当にそんな人間だった?
「おい、どうしたんだ」
わずかに怒気を孕んだ彼の声にハッとなる。
「暗くなってきたから、私もう帰る!」
「まだ五時だろ?」
腕時計を見て答えたその姿に確信を得る。
私が見てきた彼の優しさは、偽物なんかじゃなかった。
辛辣な言葉に隠れて遥か彼方にしか感じられないが、いつも彼の根底にはやわらかい光が見えていた。そんな彼だから協力関係を続けてきた。もっと彼に近づきたいと思った。
だから、彼が自分の嫌がるようなことをするはずない。
願望とも思える答えに背中を押され、ちあきは震える唇を開いた。
「ねえ、貴方は一体誰なの?」
境内の地面を撫でるように、弱く冷たい風が吹き抜ける。彼の顔にふっと影が落ち、ちあきは固い唾を飲み込んだ。
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