23 歯車

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23 歯車

 そろそろ学校が終わる頃合いだろう。  赤く染まり始めた空を見て、響介は日暮れ高校に足を向けた。駅前の大通りから住宅街に入り、町の東端に進んでいく。通行人から遠巻きに注がれる視線や、黄色い声を無視して歩いていると、前方から聞き覚えのある声が投げかけられた。 「あれっ、響介さん?」  声の主は沙月だった。彼女は心底驚いた様子で、通学路の真ん中に立ち尽くしている。 「えっ、響介さんですか?」  沙月の声を聞いて、肩掛け鞄のポケットから朝日が顔を覗かせる。何故か彼までもが、くりくりの目を一層丸くしていた。 「丁度良かった。あいつは―――」 「ちあきはどうしたんですか?」  自分の問いを遮った言葉に異変を覚え、響介は眉根を寄せる。 「一緒じゃないのか?」 「いやいや、響介さんこそ。ついさっき、ちあきを連れて行ったじゃないですか」  嚙み合わない会話に胸騒ぎを感じた彼は、神経を研ぎ澄ませてちあきの居所を探った。彼女の気配は南東の方から感じ取れる。 「まさかあの人って……」  同じように事態を察したのだろう。沙月は青ざめた顔で何かを言いかけたが、響介はそれを聞き終える前に駆け出した。  人目があるせいで、跳んで行けないことがもどかしい。いつもならすぐに辿り着けるような距離なのに、ちあきのいる場所までが果てしない道程に感じられる。  あの悲しそうな顔を見た時も同じだった。  目の前にいるのに何処か遠くに感じて、彼女が何を思っているのか理解が出来ない。それが苛立たしいような怖いような、そんな心のざらつきを感じていた。  間に立ちはだかる物すべてを消し去って、あの表情に隠された思いを知りたい。  突如として湧きあがった欲求に、響介は困惑した。  どうしてそんなことを思うのか。誰よりも理解しているはずの自分が、霧の向こう側にいるようにさえ見える。ここ最近ずっとそうだ。  悶々とした気持ちを振り払うように走っていくと、彼はいつの間にか町の外れに辿り着いていた。以前ちあきを助けた場所である、丘の麓の神社が目に入る。その参道の中腹で、自分によく似た男とちあきが対峙していた。男の姿が蜃気楼のように揺らぎ、若く中性的な人間に変わっていく。漂っている雰囲気は間違いなく吸血鬼だった。  神社に続く石段を駆け上がるたびに、響介の心臓は警鐘を鳴らすかの如く激しさを増していく。これほど時が止まればいいと思ったことは無いだろう。 最後の石段を上がった直後、足音を耳にして彼女が振り返った。顔には不安が滲み、その目は助けを求めるように潤んでいた。  頭にカッと血が上り、沸騰したように熱くなる。それは敵に対する憤りだけでなく、自分に感じた不甲斐なさが混ざり合っていたのかもしれない。複雑な衝動のままに細腕を引くと、響介は彼女を自分の背後に匿った。 「響介さんっ!」  彼の登場に、近くを飛んでいた大河がホッとした様子で目を輝かせる。 「すまない、遅くなった」 「えーっ、もうバレちゃったの? つまんないなぁ」  響介が心苦しさを感じていると、正面に立つ吸血鬼が冷やかすように言った。パーマのかかったショートヘアに、くりっとした瞳。遠目から見れば女と見紛う容姿をしているが、声や体格は間違いなく男のものだ。 「そんなにその子が大事なの? まあ、僕たちにとっては栄養源だもんね」 「違う!」  響介は男の言葉を力いっぱい否定した。 「こいつは巻き込まれただけだ。本当は、こんな危ない世界にいるべきじゃない。だから……っ!」  焦りと不安が綯い交ぜになり、言葉がつっかえる。  歯がゆさに拳を握りしめる響介を見て、男は一瞬だけ目を丸くした。しかし、すぐさま退屈そうな表情に戻っていく。 「ふぅん、僕にはよくわかんないわ」  男はそう言いながら、軽く地面を蹴り、神社の屋根に飛び移った。 「あっ、こら逃げる気ですか!」 「気が済まないなら追いかけてきてもいいよ? でも安心して。僕、その子の血には興味がないから」  男は彼らの返事を待たず、颯爽と神社を後にした。  彼女の血に興味がないとは、一体どういうことだろう。  三人が呆気に取られて立ち尽くしていると、静かになった境内にちあきのスマホの着信音が響いた。 「あっ、沙月からだ!」  空には冴えた月が登り、夜の帳が下り始めている。ちあきは慌てて電話を取った。 「もしも―――」 「あんた今何処にいんのよぉぉっ!」  スピーカーホンでないにも関わらず、耳を劈くような大声が漏れてくる。微かに声が震えているところから、彼女の心配が感じ取れた。 「ごめんごめん。うん、今神社にいるの。これからそっちに帰るから」  流石にばつが悪いのか、ちあきは申し訳なさそうに眉を八の字にしている。 「沙月さん、まだ学校の近くにいるんですか?」  電話途中のちあきに大河が問う。 「うん、そうみたい」  彼女の答えを聞くと、大河は前のめりになって言った。 「お二人ともお疲れでしょう? 俺が先に行って、朝日と一緒に沙月さんを送り届けてきますよ」 「えっ、でも大河だって怖い目に遭ったのに……」 「先ほど全く力になれなかったので申し訳ないんです! もっと仕事をさせて下さい!」 「そんなことはないと思うけど、まあそう言うなら……」  詰め寄って来る大河に気圧されたらしく、ちあきは困ったように頷いた。 「沙月、聞こえてた? うん、そういうことだから。私も家に着いたら連絡するよ。じゃあね」 「それじゃ、俺行ってきます!」  ちあきが電話を切ったのを見るや否や、大河はやたらと張り切った様子で飛んで行った。彼の羽音が遠ざかり、境内に静寂が舞い戻る。 「響介、ごめん」  大河の向かった先を見つめながら、ちあきが口を開いた。 「昨日、関係ないって言われてから、あんたのことを疑ってた。価値が無ければ、響介も周りの奴みたいに私を襲ってたのかなって」 「それは……」 「わかってる。きっと、心配してくれてたんだよね」  誤解をされているのかと思い、一瞬だけ心臓が縮んだ。しかし、彼女は訂正するまでもなく笑顔になって振り返った。 「一族の争いに巻き込まれたことは怖いけど、逃げようとは思わないよ。私がこの体である以上、逃げてるだけじゃ解決しないし。だけど、一人だけだったら絶対に挫けてたと思う。私が気持ちを強く持っていられるのは、響介がいるからだよ」  自分を見上げる真っ直ぐな瞳に、鼓動が大きく跳ねる。 「出来ることは少ないかもしれないけど、私は響介の力になりたい。危ないことに巻き込まれる覚悟は、ずっと前から出来てるよ」  晴れやかな顔で言い切った彼女を見て、響介は愕然とした。  少し前まで平凡な生活をしていた戦いとは無縁の少女が、襲いかかる運命に立ち向かうため変わろうとしている。その健気な姿は、自分と対極の場所にあるように見えた。  こうだったら良かったのにと嘆くばかりで、思いを実現させるために努力したことなどほとんど無い。それは、本当に壊れることを恐れて、形見の腕時計を修理に出せなかった時の躊躇いと似ていた。自分の取捨選択によって、今ある物を失うのが怖かったのだ。きっと、彼女のことも。 「とにかく、そういうことだからっ!」  返事を忘れていると、彼女は落ち着きない様子で背を向け、石段に向かってせかせかと歩き始めた。  彼女が、佳哉とは違う大切な存在になっている。  だからこそ近づきたいと思うし、触れることに戸惑いを覚える。抱いていた気持ちの正体を知った時、欠けていた時計の歯車が嵌ったかのような感覚がした。  彼女を守るために、どんな困難にも立ち向かおう。先ほどの言葉を思い出しながら、響介は心に決めた。 「ちあき」  名前を口にした途端、彼女がぴたりと足を止める。 「今、名前―――」  言い切る前に、彼女を自分の腕の中に引き入れる。小さな体が、徐々に熱を帯びていくのがわかった。 「響介、どうしたの?」  腕を緩めると、自分を見上げるちあきと目が合う。困惑の色を浮かべる瞳に突き動かされ、彼はちあきの制服の襟に手を伸ばした。首元が月明りに照らされて、十字の傷跡が露わになる。そこに優しく唇を寄せると、ちあきの身体は水溜まりに落ちた雫のように小さく跳ねた。  いつもと匂いが違う気がする。石鹸でも香水でもない。肌から漂う濃く甘い匂いは、生まれたばかりの柔な思いを熱く焦がした。  神社を後にした男は、高層マンションの一室に向かった。片方の頬を押さえながら、シックな家具で統一された室内に足を踏み入れる。すると、黒いスーツを纏った三十代半ばほどの男がリビングで待っていた。黒髪をかき上げ露になった細面は、ニヤニヤと楽しそうに歪んでいる。 「おや、随分と男前にしてもらいましたね」 「もーっ!」  彼は口を尖らせながら、革張りのソファーに沈み込んだ。 「あの男がご執心の女だっていうから、ちょっと味見してみよーと思っただけなのに! 何か変な喋る鳥が飛び出してきてぶつかられたんだけど!」 「へえ、彼らはそんなものを仲間にしていたんですか」  スーツの男は、気持ちが収まらない様子の彼を見て、小さな子どもを嗜めるように笑っている。 「君の暇つぶしだと思って気にも止めていませんでしたが、私も興味が湧いてきましたね」 「あっ、孤坂(こさか)さんがお金の匂いを嗅ぎ付けた!」 「人を動物みたいに言うんじゃありません」  彼のからかうような口ぶりに、スーツの男は呆れた様子で言い放った。
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