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24 白羽の矢
彼に抱きしめられてから、どうやって家に戻ったのだろう。
神社での一件の後、ちあきは自室に入るなり、扉の前に座り込んでしまった。自分の足で歩いて来たのは確かだ。けれど、道中の記憶は白昼夢のようにぼんやりとしていて、しっかり思い出すことが出来ない。
あれは本当に現実の出来事だったのだろうか。思わず自分の頭を疑ったが、それもほんの一瞬のことだった。
低い声を掠めた耳朶が、彼に触れられた場所すべてが、発火したように熱い。十字傷に落とされた唇の柔らかさでさえ、この身体が刻明に覚えている。
彼が初めて名前を呼んでくれた。それは自分との間にあった心の隔たりが、多少なりともなくなったのだと思っていいのだろう。ちあきは嬉しく思うと同時に、心の奥をくすぐられたような感覚にも襲われていた。おかげで心臓はおかしなくらいに波打ち、頭は風邪を引いた時のように覚束ない。
彼の中で何があったのか。そして、どうしてこんなに落ち着かないのか。
膝の上に置いた鞄を抱きしめながら考え込んでいると、彼女の部屋に小さな羽ばたきの音が近づいて来た。
「ちあきさーん!」
名前を呼ばれて顔を上げる。窓の向こうには大河がいた。
「おかえり! ありがとね、沙月を送ってくれて!」
慌てて立ち上がり、窓を開けて大河を招き入れる。彼は「いえいえ、とんでもない!」と、謙虚な姿勢でローテーブルに降り立った。
「それより、どうしたんですか? 随分ボーっとしてたみたいですけど」
予期せぬ質問に、ちあきはびくりと肩を震わせる。
「だっ、大丈夫! 何でもないよ!」
「ちあき、ご飯出来たよーっ!」
彼女が取り乱して答えたところで、下階にいる母の小春から声がかかった。
「じゃ、私行ってくるね!」
逃げるように部屋を出た彼女を見て、大河は首を傾げていた。
夕飯とシャワーを済ませたちあきは、大河のために柿の皮を剥き、皿に盛りつけて部屋に持って行った。小春が近所の人から貰ったらしい。夜食だと言ったら、彼女はあっさり信じていた。
相棒が旬の味覚に舌鼓を打っている横で、ちあきはローテーブルの上に自分のスマホを立てた。パパっと画面を操作して、沙月に電話をかける。
「もしもーし」
タイミングが良かったらしい。電話は三コール目で繋がった。
「あっ、沙月! さっきはごめんね」
「いや、あんたが無事ならそれで良いのよ」
時間が空いて頭が冷えたのだろう。電話越しの声は落ち着きを取り戻していた。
「それで、さっきのこと詳しく話してくれる?」
ちあきは唾を飲んで神妙な返事をすると、神社での出来事を説明した。
「……って訳なの」
「ふーん。その男、一体何が目的だったのかしら」
「それがよく分からないんだよね」
沙月の反応を聞き改めて考えてみたものの、自らが持つ特殊な血以外に、狙われる理由など思い当たらない。手の込んだことをしておきながら撤退するのは早く、まるで目的が見えなかった。
「まあ、もう来なければそれでいいけど」
心配疲れなのか、沙月が力無い溜息を落とす。ちあきは「そうだね」と返事をしながら、あの男が再び現れないことを祈った。
それから、土日を挟んで翌週のことだった。
ちあきたちが学校へ向かっていると、隣を歩く沙月のスマホがピコンとなった。誰かからメッセージが届いたらしい。
「げっ、最悪」
「どうしたの?」
内容に目を通した彼女が、ちあきに画面を向ける。メッセージの送り主は宙だった。
何でも、校門前で抜き打ちの持ち物検査が行われているらしい。校内で煙草を吸っている生徒を見た、という近隣住民からの苦情が発端だそうだ。
「やばい、今日に限ってお菓子持って来ちゃった」
「まあ、お菓子は没収されちゃうかもしれないけどさ」
頭を掻いている沙月に、ちあきは困り顔を向ける。
「大河たちを見られたら、もっと問題になるよね?」
「あっ、そうだ!」
自分たちの名前を耳にして、大河と朝日が鞄のポケットから顔を出した。
「俺たち、鞄の中にいるとまずいですか?」
「先生に見られたら一発アウトだね」
大河の問いに、沙月が苦笑いをしながら答える。
「じゃあ、今日は校門近くで別れましょう! 僕たち、授業が終わるまで裏庭で待ってますから!」
「そうだね、それが良いかな」
校舎が見える辺りまでくれば、他の生徒もいるから危険もないだろう。そう思ったちあきは、元気よく提案した朝日に頷いた。
「じゃあ、宙に連絡して万里にも伝えておくよ。授業中、ずっと鞄の中だったもんね。たまには三人で遊んで来たら?」
「わーい、ありがとうございます!」
朝日の屈託のない笑みを見て、沙月は満足そうに彼の頭を撫でた。
「ところで、宙くんはどうやって回避したんだろう」
不思議に思って言うと、沙月はスマホを操作しながら答えた。
「朝練の子が来た後で始まったらしいよ。だから、宙は検査自体受けてないってさ」
「なるほど」
ちあきが納得して頷いたところで、宙宛てのメッセージを送り終えたらしい。沙月はスマホを鞄にしまった途端、干からびた花の如く項垂れた。
「残るはお菓子だなぁ」
「まだ諦めてなかったの?」
「だって秋季限定の味なんだもん!」
沙月はブーブーと子どもっぽく口を尖らせながら、何とかお菓子を回収されない方法はないものかと頭を抱え始めた。小さなことに一喜一憂して、表情がコロコロと変わる様が面白い。
そうこうしているうちに学校付近へ到着した二人は、人目を盗んで大河たちと別れ、教師の待つ校門へ向かった。
持ち物検査を行っていたのは、生徒たちが恐れる体育担当の鬼教師だった。彼は厳めしい顔で沙月の鞄を覗き、真っ先にお菓子の袋へ手を伸ばした。
「栖原、これは」
「お昼ご飯です!」
「……それは無理があるだろう」
堂々とした沙月の態度に、般若のようだと言われる強面が呆れた様子で緩んでいく。彼女の徒労も虚しく、お菓子は没収されてしまった。
ちあきたちと別れた後、大河と朝日は裏庭にある木の枝に止まって待っていた。久しぶりに平日の昼間から外に出たからなのか、朝日はどことなく浮足立った様子だ。
「こうやってゆっくり集まれるのって、久しぶりだよね!」
「そうだな。万里とは会えても昼休みの数十分程度だし」
恩人の響介に任されている大役であるため、ちあきたちの警護にやりがいは感じているのだろう。しかし、寂しいと思うこともあるはずだ。何十年もの間、片時も離れず過ごしてきた彼らにとっては、こういった場面も貴重なものである。
二人がそんな風に話をしていると、彼らのもとに小さな一つの影が接近した。それが万里だとわかった瞬間、朝日はパッと笑顔になり片方の羽を上げた。
「おーい、万里! こっちこっち!」
「しっ、声がでかい!」
眉間に皺を寄せた万里が、小さな声で朝日を叱責する。彼は周囲を警戒しながら朝日の隣に止まると、安心したように羽を閉じた。
「全く、無闇に大きな声を出すなよ。他の人に見られたら困るだろ」
「大丈夫だって! さっき二回目のチャイムが鳴ったから、近くに人なんていないよ!」
万里の言葉を早々に押し退けると、朝日は「それより、これから何する?」と食い気味に目を輝かせた。
「あのなぁ、お前人の話はちゃんと……」
彼の能天気具合に、万里は一瞬だけ呆れたような表情を見せる。しかし、うれしさを抑えきれていない姿を見て、毒気を抜かれたように溜息を落とした。
「わかったよ、何して遊ぶ?」
「わーい、そう来なくっちゃ!」
朝日は懲りもせずに大きな喜びの声を上げた。隣で額を押さえる万里を、大河は微笑ましく見つめている。
「朝日は何がやりたいんだ?」
「えっとね、学校の近くを探検してみたい!」
「そう言えば、じっくり見たことはなかったもんな」
何気なく頷いている大河に、万里はムッと口を尖らせる。
「いや、学校の外に出るのはダメだろ!」
「えーっ、すぐに戻ってくれば平気だよ!」
「うーん、見つからないように気を付ければ良いんじゃないか?」
十分だけ、と駄々をこねる朝日に根負けしたらしい。万里は文句を言いながら、朝日たちについて校外へ飛び出した。
「本当に少しだけだからな!」
「もーっ、万里は心配しすぎ! 僕たちが狙われることなんて無いってば!」
朝日が笑い飛ばしながら、人気ない穏やかな住宅街を低空飛行していたその時だった。
「そうとも限らないんだよねぇ、これが」
どこからともなく不穏な言葉を投げかけられる。三人が振り返るや否や、彼らに向かって網のようなものが振り下ろされた。
「わっ、何!?」
「誰だ!?」
彼らを襲ったものは虫取り網だったらしい。まとめて捕らえられた三人は、網の根元を縛り、犯人の眼前に摘まみ上げられた。彼らを繁々と見つめるその顔を見て、大河はハッとなる。
「あんた、この前の!」
「覚えてくれてたのー? うれしいなあ」
くりっとした瞳に、パーマのかかったショートヘア。虫も殺せなさそうな可愛い容姿をしたその男は、以前ちあきと神社で対峙した人物だった。
「俺たちに何をする気なんだ!」
「そんな怖がらないでよ。痛いこととかしないからさ、ちょっと静かにしててくれる? もちろん、助けを呼んじゃあダメだよ」
男は人畜無害そうな、あどけない笑顔で言う。すると、彼の後ろに黒のセダンが近づき、わずかに運転席の窓が開いた。隙間から涼やかな狐目が覗く。その人物は、落ち着いた低い声で彼に告げた。
「兎見くん、行きますよ」
「はーい!」
兎見と呼ばれた男がセダンに乗り込もうとした時、彼らの背後に見える曲がり角から、こつんと小石が跳ねた。
「誰かいるのー?」
兎見は楽しげな足取りで近づき、小石の出てきた曲がり角を覗き込む。そこに潜んでいた人影に、彼はにっこりと笑いかけた。
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