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26 軋む回路
山奥にある屋敷の一室―――日当たりの悪い角部屋から、小さな生活音が漏れている。
わずかな光を取り込む窓に枕を向け、壁際に並べられたおそろいのアンティーク調ベッド。その間に置かれたテーブルセットに座り、紫織は一人の少女と向き合っていた。
細く長いまつ毛に、すっと通った小さい鼻。色白な肌に彩りを添える桜色の唇。ウェーブがかった黒髪はふんわりと長く伸び、精巧な人形のような容姿である。
「花織、おいしい?」
お粥をすくう少女に問いかける。しかし、その美しさに反して彼女の目は酷く虚ろで、紫織に対する返事はない。まるで心がそこに無いような雰囲気をまとっており、淡々と食事を取り続けている。いつものことだとわかっていても、落胆せずにいられなかった。
お粥を食べ終えた少女をベッドに戻し、白衣を羽織る。格好だけ仕事モードに切り替えても、紫織の関心はずっと少女の方を向いていた。
この子が次に目を覚ましてくれるのはいつだろう。
静かな眠りについている少女の顔を見つめ、苦い表情を浮かべる。紫織は後ろ髪を引かれる思いで部屋を後にした。
「よぉ、もう出勤すんのか?」
部屋を出てすぐ、厨房の方から歩いて来た衛利彦と鉢合わせた。
「えぇ、少し仕事が溜まっていて」
「そうか」
「そっちはこれからご飯?」
彼が右手に持つトレーを見て問いかける。中にはトースト二枚にオムレツとベーコン、それから野菜たっぷりのコンソメスープというメニューが載っている。
「俺がこれっぽっちで足りるかよ。これは鷹司の。あいつ今日も寝起きが悪くて」
「あの子も大変ね」
鷹司はかなりの低血圧で、起きてすぐに動くということが出来ない。調子が悪い時は、決まって衛利彦が世話を焼いているのだ。
「……鷹司と比べると、お前は人に頼らねぇよなあ」
「えっ?」
突然の言葉に驚きの声を上げる。彼の顔を見ると、どことなく寂しげな表情だった。
「お前、昔から頑張りすぎるところがある気がしてさ。まあ、どうしてもそうなっちまうんだろうけど。一人で抱え込んで良いことなんてねえんだから、俺らがやれる仕事なら遠慮なく言えよ?」
「……ありがとう」
紫織が弱く微笑むと、衛利彦は満足したような表情で歩き始めた。それを見て、彼女も再び歩を進める。
目的の執務室に近づくと、部屋の前に誰かが立ち尽くしているのが見えた。
「あっ、紫織さん……」
「おはようございます」
住処を出て暮らす吸血鬼の女だった。穏健派の彼女は物腰が柔らかく、言い方を変えれば常におどおどした調子の人物だ。
「要様にご用事でしたか?」
「はい。それが、またいらっしゃらなくて……」
女は困った様子で言う。
何事もなければ、要は執務室にいる時間帯だ。
用事があれば自分に一言伝えていくのに。急用でも出来たのだろうか。
紫織が考えていると、女はおずおずと口を開いた。
「あの、要様は最近外出してばかりのようですが、一体何をしていらっしゃるのでしょうか? 私、どうも不安で……」
ここしばらく、一族の問題のことで要のもとを訪れる人は多い。彼女もその口なのだろう。直接話をしたいのに、会うことが出来なくて痺れを切らしているような感じだった。
「私も詳しくは分かりません。ですが、要様にもお考えがあるのだと思います。きっと、今に何とかして下さるでしょう」
紫織が微笑むと、女は少しだけ安心したように頷いた。
「この問題は、公式を使えば簡単ですよ」
「あっ、本当だ! リュウさん、ありがとう!」
要が教科書の一部を指して言うと、沙月はパッと表情を明るくした。
コウモリたちと巻き込まれた事件から数週間。佳哉に言われたバーに足しげく通った要は、ちあきや響介たちとの距離を縮めていた。
今日は朝からバーの二階を借りて勉強会をしている。頃は十一月下旬の日曜日。目前に迫った期末テストの範囲が難しかったらしく、勉強を教えて欲しいと頼まれたのだ。
上座から三人の様子を窺う。向かい側にいるちあきと沙月も、隣に座る宙も、とても真剣な顔つきだ。教科書や問題集を見つめ、それぞれノートに筆を走らせている。
「リュウさん、ここ分かりますか?」
「えーっと……」
宙が頭を掻きながら問題集を見せてくる。要にとって、彼らの授業範囲は至極簡単なものだった。彼ら自身も基本は理解しているようなので、要の役割は応用問題などで行き詰った時にアドバイスをする程度である。
ヒントを出してやり、宙が礼を言って問題に取り組み始めた時。出入り口の扉が開く音がして、要はふっと顔を上げた。
「お疲れ様です」
「あぁ」
入って来たのは、カッターシャツに黒のカフェエプロンという出で立ちの響介だった。彼は前の仕事を辞めてから、不定期にこの店の手伝いをしていたらしいが、ついに先週から厨房スタッフとして雇われることになったのだ。
彼は三人のまばらな労いの言葉を聞きながら、カフェエプロンを外し、壁際のベッドに腰かけた。
「響介さん、お疲れ様です!」
「そこにいたのか」
出遅れたコウモリたちが、入口脇のタンスから大喜びでベッドの柵に飛び移って来る。彼らがどうして喋ることが出来るのか。それは未だに不明だが、何やら響介に恩義があるとのことで、三匹は端から見ても分かりやすく彼のことを慕っている。
もちろん三匹だけではない。この店の主である薫子や、幼馴染だと言う佳哉。ちあきたちや、たまに顔を合わせる常連客の女も同じだ。強いて言うなら宙だけ心を許していないような気がするが、その理由は色恋に疎い要でも何となく察しがついた。
「その本、好きなのか?」
「えっ?」
響介と三匹のやりとりをボーっと眺めていた要は、突然声をかけられて肩を震わせた。響介の視線は、要が膝に乗せていた古本に注がれている。
「あぁ、これですか」
開いたままになっているページを、指で優しくなぞる。それは三人の指導の傍らで呼んでいた本だった。
「そうですね。お気に入りの本なんです」
厳しい両親のもとに生まれ、幼少期の大半を家の中で過ごした彼は、屋敷にある本が友だちだった。取り分けこの本は大好きで、幾度となく読み返している。この部屋に案内された時、タンスの上に置かれていたのを偶然見つけ、懐かしく思って読んでいたのだ。
「俺も昔よく読んだ。良い話だよな、それ」
「えぇ」
ほんのわずかだが彼の表情が緩み、要も顔を綻ばせた。彼自身も愛想はないが、根本的には優しい人物であるということがよく分かる。
ここしばらくの交流で、彼への疑いは完全になくなっていた。彼の人柄に触れ、友人になれたらとさえ思っていた。
しかし、それは屋敷で待つ協力者とは正反対の考えである。
ちあきのことに関してもそうだ。一族の問題を大きくする可能性のある危険因子として捕縛を考えていたが、知れば知るほど気が引けてきてしまう。
一族の当主として、自分はどうすべきなのだろうか?
彼が穏やかなひと時に包まれながら悩んでいると、階段をバタバタと登って来る足音が聞こえた。
「響介ちゃん、休憩中ごめん! ちょっと買い物頼まれてくれない?」
顔を出したのは薫子だった。申し訳なさそうな顔で両手を合わせる彼を見て、響介は少しも嫌そうな顔をせずに立ち上がる。
「わかった。何を買って来ればいい?」
タンスに置いてあった黒のダウンジャケットを手に取り、薫子に尋ねる。
「それがねえ、すごくたくさんあって……」
彼がメモと財布を渡しながら「一人じゃ無理かも」と溢すと、ちあきが声を上げた。
「薫子さん、それなら私も手伝います!」
「私も! 勉強ばっかりで疲れたから動きたい!」
「本音が出てるよ」
沙月の言葉に呆れた様子を見せながら、宙も問題集を閉じる。ついて行く気のようだ。
「では私も。薫子さんにはお世話になっていますから」
ここに一人で残ってもすることは無い。要が名乗りを上げると、薫子は感激したように胸の前で手を組み合わせた。
「皆ありがと~っ! じゃ、悪いけどお願いね!」
薫子が上機嫌で去ると、彼らはバーの裏口から繁華街の中心地へと向かった。
休日ということもあって、繁華街は大勢の人でごった返している。
「はぐれるんじゃないぞ」
「小さな子どもじゃないんだから平気よ!」
響介の言葉に、ちあきが口を尖らせる。
二人を先頭に歩道を進んでいると、彼らの横をシュッと誰かが通り過ぎた。軽い衝突音とともに、響介が前方によろめく。
「わっ、今の何!?」
戸惑いを見せるちあきたちの隣で、響介が少し青い顔をしてポケットを叩いた。
「まずい、財布を盗まれた……」
「えぇーっ!?」
全員が慌てて進行方向を見やる。犯人と思しき人物は、人混みを掻き分け、その姿が手の平サイズに見えるほど遠ざかっていた。
「やばいよ! 早く追いかけなきゃ!」
「僕たちが行きましょうか!?」
沙月の取り乱した声を聞いて、朝日が鞄から顔を出す。
「ちょっ、ややこしくなるから! 今回は大丈夫!」
周囲の人にコウモリたちの姿を見られたら大騒ぎだ。
彼らの気持ちだけを受け取り、人混みの間を縫って、犯人の向かった方向へ急いだ。しかし―――
「に、逃げ足が速すぎる……っ!」
恐らく常習犯なのだろう。必死に追いかけたものの、彼らは犯人を見失ってしまった。
「一体どっちに行ったんだろう……?」
上がった息を整えながら周囲を見渡す。犯人を追いかけて入ったのは、旧商業地帯の路地裏だった。立ち並ぶビルは、使われているのか怪しいほどに荒れており、日も遮られて薄暗い。道が入り組んでいるため、犯人を見つけるのは至難の業だろう。
「手分けして探す!?」
「いや、バラバラになるのは良くないんじゃ……」
そわそわとした様子で言葉を交わしていると、突然頭上から声が降って来た。
「財布を持った奴なら、北の方に行ったよ」
全員が驚いて顔を上げる。
「あっ、あんた! この前の!」
目を見張ったちあきが叫ぶ。三階建てビルの上には、以前要とコウモリたちを誘拐した男―――兎見と狐坂がいた。兎見が屋上の縁に座り、その傍らに澄ました様子の狐坂が立っている。余裕そうな表情で五人を見下ろす姿は、何とも癪に障った。
「聞いたことある声だと思ったらお前らかーっ!」
「何の用だ、この野郎―っ!」
コウモリたちが鞄から顔を出し、威勢よく男たちに吠えかかる。すると、狐坂は心外だとでも言うように口を曲げた。
「人聞きが悪いですねぇ。親切にアドバイスしてあげたというのに……」
「何をぬけぬけと!」
「大河、落ち着いて! とりあえずここは行こう!」
こちらに敵意が無いと判断したのか、ちあきはコウモリたちを宥めて、先に進もうと皆に促した。助言通り北に向かいながら、困惑した表情で沙月がちあきに問いかける。
「もしかして、さっきの奴が神社で襲ってきた奴!?」
「そう、それで大河たちを誘拐した犯人!」
ちあきは顔にじんわりと汗を滲ませ、肩を上下させながら答える。
「一体何のつもりなんだろう……?」
「あっ、あそこ!」
ちあきが男たちの不可解な言動に眉を顰めたところで、踏切を越えた向こう側に、先ほどの財布泥棒の姿を捉えた。
「こら、待てーっ!」
運よく踏切は開いており、そのまま怒涛の勢いで追い上げる。犯人は財布を握りしめながら、近くの小さい橋を渡り始めていた。
「くっ……!」
要が思い切って犯人に飛びかかる。すると、犯人は捕まえられたものの、そのまま体勢を崩して真下の浅い川に落ちてしまった。
「あっ!」
激しい飛沫が上がる中、空に舞い上がった財布を、ちあきが橋から身を乗り出してキャッチする。
「おーっ、ナイス!」
「くそっ、離せ!」
拍手が沸き上がる傍らで、要に取り押さえられた犯人はじたばたと暴れていた。
「ってか、リュウさんは大丈夫!?」
晴れているとは言え、冬も間近の水中だ。その冷たさに心臓が止まるかと思ったが、びしょ濡れになっただけで大きな怪我はなかった。
「えぇ、何とか」
「良かったぁ~!」
要が笑顔で答えると、宙が「俺、警察呼んでくるよ!」と来た道を折り返して行った。
駅裏で交番が近かったこともあり、警察官は三分もしないうちにパトカーで駆け付けた。宙は犯人と要が川に落ちたことを説明していたらしい。パトカーの中にはタオルと着替えが用意してあり、要はすぐに寒さから解放された。
「中身は盗られていませんか?」
「はい、大丈夫です!」
諸々の確認を済ませると、警察官は窃盗犯を連れて去って行った。橋の上は再び五人だけになる。
「あぁ、びっくりした!」
「すぐに捕まえられて良かったね」
沙月と宙は、事態が収拾して肩を撫で下ろしている。
「あっ、リュウさん。髪に葉っぱが付いてますよ」
そう言って、ちあきが要に向かい手を伸ばした時だった。響介が彼女の肩をふいに掴み、後ろに引いた。
「世話になったな」
「いえ、全然気にしないで下さい」
突然のことに驚きながらも、要はにこやかに対応した。その姿を、響介は何かを見透かすようにじっと見つめている。
「お前は、もうこの町に来ない方が良い」
「えっ」
突然放たれた言葉に、要はドキッとした。
「響介、急にどうしたの……?」
「ここ最近、今日みたいな事件が多発しているんだ。なるべく、自分の家から離れた所へ行くべきじゃない」
そう言いながら、ちあきの肩を掴む手に力が籠る。要はそれだけで、彼の言動の理由を察した。川に落ちたことで、吸血鬼特有の匂いを消す薬が取れ、化けの皮が剥がれてしまったのだろう。
「残念ですが、そうした方が良いみたいですね」
要はそう言うと、濡れた服を抱えて頭を下げた。
「仲良くしてくれて、ありがとうございました。薫子さんたちにも伝えておいて下さい」
「えっ、リュウさん!? 待っ―――」
ちあきの困惑した声が引き止めるも、要はそれを無視して歩き出す。
自分が吸血鬼だと分かったのなら、もっと手酷く突き放すことも出来たはずだ。警戒していただけなのか、傷つけないように気を使ったのか。遠回しに伝えられた優しい拒絶の言葉は、じりじりと心が擦り減らされるような痛みを呼んだ。
冬の訪れを告げる冷たい雨に降られ、散々な思いで屋敷に戻ると、玄関を入ってすぐに紫織が駆け寄って来た。
「要様、一体どうしたんですか!?」
紫織は近くの部屋に駆け込みタオルを取って来ると、要の身体を手早く拭き、彼を私室まで連れて行った。
「今、お湯を張りますから」
紫織は要をソファーに座らせると、バタバタと部屋の中を動き回り始めた。悄然とした要の頭に、忙しない足音が優しく響く。部下の甲斐甲斐しさに涙腺が緩み、要は手で顔を押さえながら言った。
「紫織さん、私はどうしたら良いのでしょうね」
「……何か、あったのですか?」
暖炉に薪をくべながら、紫織が心配そうに尋ねた。
「乱舞くんに言われたんです。例の男は、あの少女で悪巧みをしているという噂が流れている。だから彼から捕まえた方が良いと。それで、ここしばらく身を偽って彼に近づいていたんです。本当に捕まえるべき人物なのか確かめるために」
話しながら、これまでの温かい記憶が頭を流れていく。
「けれど、彼は全くもって優しい人でした。私は彼のことを捕まえたくはない。そう思ってしまったのです」
あれだけの短期間で、彼のすべてを知ることは出来ない。もしかしたら、自分が気づかなかっただけで、彼は噂通りに何かを企んでいるかもしれない。それでも自分の個人的な感情が先走り、周囲の声を受け入れられないのだ。
頭を抱える要に、紫織は「そうだったんですね」と呟く。
「ひとまず、お体を休めてから考えませんか? かなりお疲れのようですし、今考え込んでも良い答えは出ないかと思いますよ」
紫織はそう言って、目の前のテーブルに湯呑を置いた。注がれたお茶からは湯気が立ち、香ばしい匂いが漂っている。
「……それもそうですね」
思いを吐き出して、少しは楽になった気もする。
要はのそのそとした動きで、紫織が出してくれたお茶に口を付けた。温かく素朴な味が、じんわりと緊張を和らげていく。
まるで日向ぼっこをしているような気分だ。
悩みがすべて溶かされていくような感覚が頭を包み、彼はそのまま意識を手放した。
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