3 忍び寄る影

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3 忍び寄る影

「おーい、ちあき?」 「えっ! あぁ、ごめん。どうしたの?」  下校途中、周囲を警戒していたちあきは、沙月の声に驚いて飛び上がった。  響介と名乗る男と約束を交わしてから、約一週間。次はどんな敵が現れるのだろうかと気を張っていたのだが、驚くほど何も起こらないまま一学期の終業式を迎えた。  嵐の前の静けさと言う奴だろうか。願ったり叶ったりの状況であるにも関わらず、妙な胸騒ぎが止むことは無かった。 「だから、夏休みにみんなで何するかって話! 全くもう、話聞いててよね!」 「まあまあ」  不満げに口を尖らせる沙月を、反対隣にいる宙が宥める。今日は顧問の都合で部活が無くなり、珍しく一緒に帰ることになっていたのだ。彼は首を傾げると、心配そうな表情で口を開いた。 「それにしても、何かあったの? ここ最近ずっと様子が変だよ?」 「べ、別に何も!」  大量の冷や汗を掻きながら、顔の前で手をぶんぶんと振る。そのあからさまな態度に、二人は納得のいかない表情を浮かべた。けれど、真実を話す訳にはいかない。疑惑の念を孕んだ視線に耐え、彼女はだんまりを決め込んだ。  打ち明けたら、二人を危険に巻き込むことになってしまう。それに吸血鬼だなんてさすがに信じてもらえないだろう。自分でも未だに受け入れられない程なのだから。  ふと、例の貧血事件を思い出す。心当たりの有無を問われた少女たちは、全員が首を横に振ったらしい。けれど、誰一人として持病は無く至極健康体で、前日まで平凡な学校生活を送っていた。つまり、理由がわからなかったのではなく、言えなかったのだ。  少女たちが口を噤んだ理由も、今なら痛いほどわかる。きっと彼女たちは、誰にも真実を明かすことの出来ないまま一人で怯えているに違いない。相手の目的を考えれば、彼女たちが襲われることはもう無いだろう。ただ、この先ずっと不安が付き纏うことだけが気がかりだった。 「なあに、難しい顔しちゃって。怪しいなあ」 「だから何でもないって! あっ、ほら、夏休みの話をしてたんでしょ!」  追及されそうな雰囲気になり、ちあきは無理やり話題を戻す。 「私は花火がしたいな! 宙くんは何かやりたいこととかある?」 「えっ、そうだなあ。海とか行きたいかも。小さい頃に行ったきりだし」 「それ良いねーっ!」  戸惑った様子で答えた宙に、ちあきは大袈裟なあいづちをする。そうこうしているうちに、三人は駅前通りの入り口に差し掛かった。 「あれっ?」  訝しげな顔をしていた沙月が、駅に続く歩道の中心を見て突然声を上げた。つられて視線を追いかける。そこには、飴に群がる蟻のような人だかりが出来ていた。普段から賑わいのある場所だが、今日は一段と騒がしい。 「何かやってるのかな?」  宙が呟いた後、誰が言うでもなく人だかりに近づく。その向こうをつま先立ちになって覗くと、首の長いマイクやレフ板、そして大型のカメラといった、物々しい機材に囲まれる人たちがいた。どうやら、ドラマか映画の撮影らしい。 「カットカット!」  ディレクターズチェアにふんぞり返る老齢の男が、メガホン片手に怒り声を上げる。 「もっと切ない表情で! ここ、大事な場面だよ!」 「すみません、もう一度お願いします!」  役者だろうか。指摘された美しい女が、顔に似合わず熱い返事をして立ち上がる。それを皮切りに、スタッフらしき人たちがバタバタと動き始め、周囲はとても忙しない雰囲気だった。 「あの人、確か去年映画賞取ってた監督だよね?」 「すっごーい! まさかこんな所に来るなんて!」  浮かれ切った周囲の会話を遮るように、小気味良いカチンコの音が鳴り響く。その瞬間辺りはしんとなり、撮影現場の中心に注目が集まった。  脇に捌けていた俳優と思しき男が、先ほどの美しい女に駆け寄る。はっきりと台詞は聞こえないが、泣きそうな表情で抱き合っており、話の盛り上がり部分だと推測出来た。  少しだけ言葉を交わした後、男は名残惜しそうに女の手を振りほどく。彼が未練を断ち切るように画面外へ走り出したところで、再びカットの掛け声が入った。 「今の良かったよ! これで行こう!」  監督の言葉に、関係者たちから歓声が上がる。そのまま次のシーンまで休憩の指示が入り、辺りにリラックスした雰囲気が戻った。 「か、監督! 大変です!」  素朴な恰好をした男性スタッフが、困った表情で監督のもとにやってくる。彼が耳打ちをすると、監督は目を見開いた。 「何だってぇ!」  談笑していた他のスタッフたちが、何事かと二人を振り返る。 「そんなの困るよ! この後の撮影、彼女の出番じゃないか!」 「俺にそう言われましても~っ!」  恐らく新人なのだろう。男性スタッフは泣き笑いの表情を浮かべている。 「監督、どうかしましたか?」 「ああ、山本くん。それがねえ……」  駆け寄ってきたポニーテールの女性スタッフに、監督は顔をしかめて話を始めた。監督の安心した様子を見るに、信頼されているリーダー的立場のスタッフなのだろう。  ちあきがそのやり取りを眺めていると、ふいに女性スタッフと目が合った。驚きの滲む視線に、一体何だろうと身を竦める。すると、彼女は監督に耳打ちをして、ちあきの方を示してみせた。 「おぉ、本当だ!」  そう言うや否や、監督は人込みをかき分けて、ちあきの前にやって来た。 「君、ちょっと映画に出てみないか?」 「……はっ!?」  予想もしていなかった出来事に、ちあきの声は裏返った。隣にいる沙月たちも呆気に取られている。 「実は、役者が一人怪我で出られなくなってしまってね。今、代役を探していたんだよ。君は彼女と雰囲気がそっくりだ。どうだい、少し頼まれてはくれないかな?」  言い切ると同時に、監督は手の平にぽんとメガホンを打ち付ける。 「あの、私演技とか出来ませんけど……」 「それなら大丈夫! 短い台詞が二言三言あるだけだから! 個人情報が気になるならクレジットに名前も載せないし!」  困窮するちあきをよそに、周囲の人々は羨望の眼差しを向けている。この状況で断るのは至難の業だ。彼女は、最後の砦とばかりに沙月と宙を振り返る。 「せっかくならやっちゃいなよ! 映画に出られることなんて滅多にないじゃん!」 「ちあきさえ良ければ、やってみたら?」  いつもは察しが良い方なのに、こういう時に限って何故伝わらないのだろう。せめて二人が止めてくれれば、やんわりと断れたのに。  困っている人を見捨てる訳にも行かず。彼女は渋々と口を開いた。 「わかりました。お引き受けします……」  「ありがとう、とっても助かるよ!」  彼女の返事を聞いた監督は、爛々とした目で説明を始めた。  何でも、近くの時間貸し駐車場にトレーラーハウスが停めてあるらしい。そこに衣装があるから、まずは着替えてきて欲しいとのことだった。  トレーラーハウスだなんて、ハリウッドスターが所有するような代物じゃないか。  それだけこの監督が売れっ子である証拠なのだろうが、同時に途轍もない重圧が押し寄せて、ちあきは大きく溜息を吐いた。 「じゃあ山本くん、案内は頼んだよ!」 「はい! ではこちらへお願いします」  監督に言われると、先ほどの女性スタッフがちあきを先導して歩き始めた。 「突然すみませんでした。監督はとてもこだわりの強い方でして……」 「あ、いえ、大丈夫です」  申し訳なさそうにする女性スタッフに、繁華街の路地裏を進みながら答える。 「私は、今回助監督を務めている山本と申します」 「あ、私は緋寄って言います」  お辞儀をすると、山本は「素敵なお名前ですね」と人の好さそうな笑顔を浮かべた。  まだ二十代前半ほどに見えるのに、助監督を任されるだなんて大した人だなあ。  ちあきが感心していると、曲がり角の突き当りにある広い駐車場が目に入った。両端のビルとは距離があり、何だか寒々とした場所だ。ちらほらと停めてある自動車の中でも、端っこにある白を基調とした小さい家は取り分け異彩を放っていた。 「あちらになります」  彼女の後ろについて、トレーラーハウスの中に入る。室内は撮影に使うであろう道具類や段ボール箱が置かれ、雑然とした印象だった。南窓になっているためか、むっとした空気が充満している。 「今回緋寄さんにやって頂くのは、カフェの高校生バイトという役柄です」  空気を入れ替えるために窓を開けると、山本はハンガーラックに掛けてある衣装を物色しながら説明を始めた。  恋人と離れ離れになり、傷心の女性が訪れたカフェ。そこで、その高校生バイトがオーナーに内緒で可愛いラテアートを出す、というシーンらしい。  とても心温まる場面だが、物語の本筋には関係ないので、悪目立ちしない平凡な少女を想定していたらしい。 「衣装はこれで。申し訳ないですが、ここで着替えてもらっていいですか?」  渡されたのは、ベーシックな白の半袖カッターシャツに、黒で統一されたエプロンと膝丈スカート、それに短い赤のネクタイだった。ほとんど学校の制服と変わらないようなデザインでほっとする。 「わかりました」  先に衣装のスカートを着用してから制服を脱ぎ、キャミソールだけになった上にカッターシャツを羽織る。彼女がちまちまとボタンを留めていると、突然山本が背後から両肩を掴んだ。 「わっ、急にどうしたんですか?」  正面にある姿見で、後ろの様子を窺う。困惑するちあきをよそに、山本は薄気味悪い笑い声を溢した。 「やっぱり私の見立ては正しかったみたいですね」 「えっ……?」 「まさかこんな所で出会えるとは思いませんでした。噂に聞く、特別な血を持つ少女に」  その言葉に、背中を怖気が駆け巡る。油断していた。彼女は吸血鬼だ。 「嫌っ、離して!」 「そんなに動いたら、余計に痛くなりますよ」  到底女とは思えない力で体を引っ張る山本に、ちあきは必死に首元を押さえて抵抗する。このままでは、血を吸い尽くされて死ぬかもしれない。内に広がる恐怖が最高潮に達したその時、ちあきの脳裏にあの男の存在が過った。 「響介!」  声の限りにその名を呼ぶ。すると、突如として室内に荒い風が吹き込んだ。部屋のカーテンがバタバタと小刻みに巻き上がる。反射的に閉じた目は、次に信じられない光景を映し出した。 「貴方は……っ!」  淡いカーテンの隙間から、古いフィルムの如く断続的に男の姿が覗く。突然現れた男の存在に、山本は強く目を見開いていた。まるで信じられないと言った表情だ。 「この……っ!」  放たれた拳が、男の顔を目がけて伸びていく。 「隙だらけだな」  男はさっと身を屈めると、山本の足を払って体勢を崩させた。近くにあった段ボールの山に投げ出され、大きな音が立つ。 「こいつは俺のお手付きだ。諦めてもらおうか」 「くっ……!」  山本は身を起こしながら、悔しそうに顔をしかめる。分が悪いと悟ったのだろうか。彼女は開け放たれている窓から、俊敏な動きで飛び去って行った。 「あの……」  体の緊張を解きながら、ちあきは彼の背中を呆然と見つめる。振り返ったのは間違いなく響介だった。 「無事か?」  幸いにも怪我は全くない。彼女は安堵感に包まれながら頷いた。その拍子に、先ほどの鮮やかな立ち回りの記憶が甦る。  本当に、助けに来てくれた。  響介が約束を守ってくれたことに、言い表せないほどの感動が押し寄せる。颯爽と救い出してくれた様は、かなり格好良かったのではないだろうか。  まだ暴れている心臓を押さえながら、ちあきは彼に見直した視線を向ける。しかし彼の方はと言えば、何故かいつも通りの涼しい顔でちあきを凝視していた。 「何よ。言いたいことでもあるの」 「……服、着なくていいのか?」 「わっ!」  事件に気を取られ、自分が着替え途中だということを忘れていた。ちあきは慌てて後ろを向き、小さいボタンに手を掛ける。あんなことがあったからなのか、ボタンを嵌める手が覚束ない。何故こういう時に限って、こんなに面倒な服なんだろう。 「待った」  彼女が不満を感じながらボタンと格闘していると、響介から声が掛かった。 「えっ?」  響介は着替え途中のちあきの肩を掴み、その身体をひょいと反転させた。開いたままの胸元を見られ、彼女の顔は瞬く間に赤らんだ。 「そのままの方が楽だろ」 「何が?」 「血を貰うのに」 「……あっ」  そう言えばそうだった。交換条件の存在を思い出し、ちあきから間抜けな声が零れる。 「まさか、忘れてたとか言わないよな」  口を開けたまま放心している彼女を、響介はじろりと睨みつける。 「わ、忘れてない! 忘れてない!」  ここで怒らせたらどうなるかわかったものではない。ちあきは全力で否定した。 「じゃあ、遠慮なく」  響介がちあきの首元に齧り付く。まるで太い注射針を刺されたみたいだ。痛みから逃れようと小さく身じろぎをすると、響介の手が追いかけるように首元へと滑り込んで来る。襟首を押さえようとして、肌の上をするすると移動していくのがくすぐったい。 「んっ……!」  触れた個所からぞくぞくと甘い痺れが走り、思わず上擦った声が漏れる。響介は首元からゆっくり口を離すと、唇に残った血を親指で拭い取った。 「ごちそうさま」 「……どういたしまして」  うっすらと勝ち誇ったような笑みを浮かべる彼に苛立ちを覚えつつも、ちあきは何とか平静を装った。私は大人だから、無闇にキレたりなんかしない。何事もなく帰ろうとする響介を見送りながら、ちあきは自分の上出来な対応を思い出して満足感に浸った。 「そうだ」  響介が窓枠に足を掛けたまま、ちあきの方を振り返る。  「お前、もっと食った方がいいぞ。体が貧相過ぎる」  ちあきの動きがぴたりと止まる。衝撃的な言葉に対し、脳が理解を拒んだらしい。一拍遅れてから、凄まじい勢いで頭に血が上っていく。怒りのメーターがはち切れた時、彼女は響介の消えた窓枠に鼻息荒く掴みかかった。 「余計なお世話よーっ!」  既に遠くにある響介の背中に、これでもかという大声を投げつける。しかし、返ってくるのは自分のこだまだけだった。 「この……っ!」  怒りに震えるちあきの耳に、トレーラーハウスに向かってくる足音が飛び込んできた。そして、立て続けに扉がノックされる。 「すみませーん! 入っても大丈夫っすかー?」 「あっ、はい! どうぞ!」  先ほどの新人スタッフの声だった。ちあきは胸元を制服のシャツで隠すと、彼を部屋に招き入れた。 「失礼しまーす。ってあれ? 山本さんはどうしたんですか?」 「えっと……」  山本が飛び出していったことを話すと、新人スタッフは驚いて声を上げた。 「まじっすか! もーっ、困ったなあ……」 「あの、そう言えば何のご用事で?」  ちあきの問いに、新人スタッフはうーんと唸りながら頭を掻く。 「それがっすね。さっき通り雨に降られて、今までのデータがパーになっちゃったんすよ。もう全部撮り直し!」  そんな訳で、件の役者の回復を待つことになったらしく、ちあきはお役御免となった。 「残念だったね。すごい経験だったのに」  帰り際、沙月たちは何の気なくぼやいた。 「そうだね」  上の空で返事をしながら、ちあきは山本の言葉を思い返していた。  自分のことが、確実に吸血鬼の中で噂になりつつある。  確実に忍び寄っている影の存在に、ちあきは身を固くした。
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