4 水底の幽霊

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4 水底の幽霊

 八月上旬。ちあきは幼馴染二人と海へ向かっていた。  晴れ渡る空、穏やかな青い海、白い砂浜。電車は窓いっぱいに絶景を写し、海岸沿いに伸びた線路の上をのんびりと走っていく。 「わぁっ! 綺麗な海!」  長旅の疲れも吹き飛ぶほどの美しさに、ちあきは思わず見入ってしまう。 「すっごーい! もう人でいっぱいだね!」  向かいの席に座る沙月が、小さな子どものように目を輝かせる。海水浴場は浜が覆い尽くされるほどの賑わいだ。 「本当だ。前に来たときはここまでじゃなかった気がするけど……」  宙が言っているのは、家族ぐるみで海に行った幼少期の事だろう。改めて海岸を見たちあきは、確かにそうだなと思った。景色は昔と変わらず綺麗だが、片田舎の海岸のため人入りはもっと少なかったと記憶している。 「この辺りも結構開発が進んだらしいよ。確か海の家も新しくなったって」 「それでか……」  沙月の言葉を聞き、宙は納得した様子で窓の外に目をやった。ちょうど良く海の家が目の前を通過して行く。所々が錆びついたトタン壁だった建物は、開放感のある洒落たログハウスに変わっていた。 「まあ、このくらいなら余裕で遊べるでしょ! 今日は楽しむわよ~!」 「ちょっと沙月、声が大きい」 「えへっ、ごめんごめん」  待ちきれない様子で浮き輪を手に取る沙月に、ちあきは呆れ返ってしまう。 「全く、落ち着きがないんだから」 「ちあきの言う通りだよ。この前だってさぁ……」  宙が説教を始めた所で、ちあきは再び窓の外に目を向けた。  この所立て続いている出来事が、ふいに頭を掠める。彼女の血を狙うおぞましい存在、吸血鬼。それは平凡な日常を搔き乱し、絶え間ない不安を生み出していた。 「大丈夫かな……」  心配は否応なしに付きまとう。気心の知れた二人と出かけていると言うのに、ちあきは何処か浮かない気持ちだった。 「宙―っ! お待たせーっ!」  到着後。休む間もなく着替えを済ませた二人は、海の家の出入り口で宙と合流した。彼は青の縦グラデーションというシンプルなトランクスタイプの水着姿だが、さすが王子様の異名を持つだけある。日頃からサッカーで鍛えられた体は適度に引き締まっており、通りがかった少女は軒並み彼に見惚れていた。 「あんた、さすがだね」 「何が?」  ぴんと来ていない宙に、沙月は罪作りな奴だと溜息を吐く。  そういう彼女は上が黄色のビキニで、下にデニムのショートパンツという出で立ち。対するちあきは、赤いギンガムチェック柄が鮮やかなワンピースタイプの水着である。元々露出の多い恰好は苦手だが、今回は首元の跡を隠すことに苦心した。肩ひもが幅広のデザインで本当に良かったと思う。 「まあそれもそっか。お姫様に悪い虫が寄り付かないかで頭がいっぱいだもんね」 「沙月!」  謎の言葉に、宙は顔を赤くして声を荒げる。しかし、沙月は聞く耳を持たない。 「さっ、ちあき! 遊びに行こーっ!」 「あっ、こら!」  沙月に引っ張られて、ちあきは砂浜へ駆け出した。後ろから宙の心配そうな声が飛ぶ。 「何の話してたの?」 「ちあきは気にしなくていいよ! それよりほら!」  沙月は波打ち際に立つと、水を掬い上げてちあきに引っ掛けた。 「こらっ! びっくりするでしょ!」 「えっへへ~!」  いたずらっぽく笑うと、沙月は捕まえてみろと言わんばかりに深い方へ跳ねて行く。 「待ちなさいっ!」  挑発に乗ったちあきが後を追いかけ、鬼ごっこが始まった。ひょいひょいと逃れていく沙月に、ちあきは必死になって食らついている。そのうち、きっかけなんてどうでも良くなってしまった。二人が楽しそうな声を上げて無邪気に追いかけ合っていると、そこに宙も合流し、水飛沫はさらに激しくなっていく。  そんな彼らに、遠くから注がれる視線があった。  「あれは……」 「どうしたの? 行こうよ響介~っ!」 「………あぁ」  サングラスを掛けた男は、猫撫で声で擦り寄る女に腕を引かれて消えて行った。 「あーっ! 遊んだ遊んだっ!」 「お腹空いたね」  泳いで競争したり、ゴーグルを掛けて海の中を観察したり、砂浜で小さな城を作ったり、貝殻を集めたり。子どもの頃のように遊び回った三人は、昼頃になるとヘトヘトになっていた。 「二人とも、何食べたい? 俺買ってくるよ」 「えっ、いいの? じゃあ私焼きそば~!」 「私は、たこ焼きかな」 「おっけー!」  近くで場所取りをしておいてと付け加えると、宙は爽やかな笑顔で走り出した。 「よーし、どこで食べよっか?」 「あの辺がいいんじゃない? ちょうど日影が出来てるし」  二人が相談していると、そこに数人の足音が近づいて来た。 「ねえねえ、お姉さんたち!」  振り返ると、ロン毛に剃り込みのある坊主という、如何にも軽薄そうな容姿の男二人が立っていた。無駄に背が高く筋肉質で、真正面に立たれると圧がすごい。 「な、何でしょう」 「えっ、近くで見るとめっちゃ可愛い! さっきから超気になってたんだよね!」 「良かったら俺たちと遊ばない?」  ニコニコと畳みかけてくる彼らに断りを入れようとするも、ちあきは言葉が詰まってしまった。 「いや、間に合ってますんで」 「そんなこと言わずにさあ!」  沙月が当たり障りない感じで告げるも、男たちは引き下がらない。二人が困っていると、そこにビニール袋を下げた宙が戻って来た。 「すみません、どうかしたんですか?」  彼の登場に、男たちは目に見えて残念そうな顔に変わる。 「何だ、男連れだったのー?」 「ねっ、俺らの方が楽しませるからさ! 一緒に行こうよ!」  諦めの悪い奴らだ。しつこいやり口に呆れていると、宙が二人と男たちの間に入って行った。 「あの、俺たち親と来てるんで」 「あー、そうなの?」 「もういいよ、行こーぜ!」  声を掛けてきた時とは打って変わり、彼らは機嫌悪そうにその場を去って行った。ほっと胸を撫で下ろしていると、宙が心配そうな顔で振り返った。 「二人とも、大丈夫だった?」 「うん、平気。ありがとうね」  ちあきの言葉に、宙は顔を赤らめる。 「宙ってばやるじゃん! ふーっ!」 「ちょっ、真面目に心配してるのに!」  肘で小突いてくる沙月に、宙は眉根を寄せた。  一安心して歩き始めた彼らを、先ほどの男たちが遠くから見やる。 「あーあ、どうすんだよ」  責めるようなロン毛の物言いに、いかつい坊主の男はニヤリと笑った。 「あんな上物、逃がす訳ねえだろ」  昼ご飯を食べて少し休憩すると、三人は浜辺の空いている所でビーチバレーを始めた。運動音痴のちあきは、授業で必ず足手まといになってしまう。けれど、今回は沙月と宙のおかげでラリーが続いている。まともにプレイ出来て楽しさを感じ始めた頃だった。 「あっ!」  ちあきの受け止めたボールが変な方向に跳ね、海の深い方まで飛んで行ってしまった。 「ちょっと取って来るね!」 「はーい!」  ボールは波にさらわれて、どんどん遠くへ流されている。浮き輪を付けて慌てて追いかけると、足のつかないような場所でようやく回収出来た。 「もー、ノーコンで本当に嫌になるわ……」  安心して帰ろうとした時、足首に何かが絡みついたのを感じた。  次の瞬間、ちあきの身体は有無を言わさず海の中に引きずり込まれた。辺り一帯が泡立ち、状況を理解出来ぬまま水面が遠ざかっていく。  混沌とする視界の中、ちあきは自分の足首を掴んでいるものの影を捕らえた。海藻やゴミなどではない。それは確かに意思を持って自分を引っ張る、人間の腕だった。  すぐに吸血鬼だと思い至り、ちあきの恐怖はいや増していく。懸命に暴れ藻掻くも、腕は一向に外れない。次第に息が苦しくなり、ちあきは思わず海水を飲み込んでしまった。鼻も耳も頭も痛い。手足も疲れてしまった。  ちあきが死を覚悟したとき、水面から何かが飛び込んできた。揺蕩う影は、ちあきに向かって真っすぐ伸びてくる。それを確認したところで、彼女の意識は途切れていった。 「……あき! ちあき!」  聞き慣れた声に、ちあきは目を開けた。横たわっている彼女を、沙月と宙が心配そうな顔をして覗き込んでいた。 「あれ、私……」  「もう、びっくりした! 急に溺れたからどうなるかと……」  意識がはっきりしてきたちあきは、身体を勢いよく起こした。どうやら浜辺近くのベンチに寝かされていたようだ。 「本当に無事でよかった……」  ちあきの座るベンチに手を掛けて、宙はその場に屈み込む。 「具合は? どこか変わったところはない?」 「あ、うん。大丈夫」  ちあきは、海水でべた付く自分の身体に手を当てて答えた。 「そう言えば助けてくれた人は? お礼言わなきゃ」 「それが……」  彼女の言葉に、沙月と宙は困惑した様子で顔を見合わせている。 「ちあきの無事を確認したら、すぐに帰っちゃったのよ。一応引き留めたんだけどね」 「そうなんだ」  肩を落とすちあきを見て、沙月は興奮気味に口を開いた。 「何かね、すっごく美形な人だったの。ちあきが溺れた少し後に、颯爽と海に飛び込んで行って。まるで映画を観てるみたいだったわ」  ちあきは目をぱちくりさせた。一瞬あの男の顔が浮かんだが、すぐにその考えを打ち消す。いくら身体能力の凄い奴だと言っても、町から遠く離れたこの場所まですぐに来られる訳がない。それに今回は名前も呼んでいないのだ。 「ちあき、どうかした?」 「ううん、何でもない」   沙月に名前を呼ばれてハッとなる。頭を振ると、ちあきはベンチから立ち上がった。辺りはもうすっかり日が傾いている。 「あれっ、今何時!?」 「六時だよ」  宙の言葉に、ちあきの動きは止まった。ここから三人の住む日暮れ町までは、電車で一時間ほどかかる。それを踏まえると、もう帰らなくてはいけない時間だ。自分のせいで予定を無駄にしてしまったことに、大きな罪悪感が押し寄せる。 「そろっと帰ろっか」  名残惜しそうに言う沙月を見て、ちあきは悲しそうに顔を伏せた。 「ごめんね」 「何でちあきが謝るのよ! 大丈夫、海は午前中に満喫したでしょ!」  沙月はちあきの肩を抱き寄せて笑った。 「それに夏休みはまだまだ残ってるじゃん! 今度は何する?」  彼女の屈託のない言動が、ちあきの胸に染みていく。 「何しよっか」  目尻に浮かぶ小さな涙は、夕日に照らされて光り弾けた。  怪しいネオンが滑り込む繁華街の路地裏で、二人の男女が歩いていた。 「今日はありがとーっ!」 「あぁ」  派手な格好をした女が、猫撫で声を上げる。対する男―――響介は、何でもないかのように淡々と返事をした。 「それじゃあ、はい! お礼!」  立ち止まると、女は突然ワンピースの肩口を下ろした。 「悪いな」  露わになった白い首元に、響介は静かに歯を立てた。女から色っぽい声が漏れる。  しばらくすると、彼は女から離れ、口から滴る赤い雫を手で拭った。 「ごちそうさま」 「いいよーっ! じゃ、私こっちだから!」  またねと言って雑踏に駆け出した女を見送りながら、響介は顔をしかめた。  不味い。以前はそんなことを思わなかったのに、今日は舌が酷く不快感を覚えていた。一体どうしたというのだろう。  ふいに虚空を見つめた時、彼の頭に一人の少女の顔が浮かんだ。  呼ばれない限り、行く必要は無い。それなのに、何故か身体が勝手に動いていた。その理由は自分でもわからない。  煩わしい。自分の知らない自分の存在に苛立ち、彼は拳を握りしめた。
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