1 歪みゆく日常

1/1

14人が本棚に入れています
本棚に追加
/50ページ

1 歪みゆく日常

 秋も終わりだというのに、やけに暑い日だった。  枯れた声の烏が喚き、雨に降られた緑は深く首を垂れ、ぬるい風が重く地面を這う。人気のない密林は、まるで昼間と思えない空気に包まれ、その奥に建つ小さな荒ら屋を隠すようにざわめいていた。 「しっかりと息を吐いて! あと少しだ!」  いつになく頼もしい伴侶の声を聞き、女は梁から下がる綱に力を込めた。質素な土間は酷く蒸しており、肌という肌から汗が滲んでいく。痛みと不快感に喘ぐたび、家鳴りは大きくなる一方だが、気にしてなどいられない。熱で朦朧とする頭の中を占めているのは、十月十日の間待ち焦がれた、尊い存在の安否だけだった。  次の瞬間、体が一気に軽くなるのを感じた。同時に、疲れが津波のように押し寄せる。けたたましい産声、狭い土間を右往左往する狼狽した様子の伴侶。それらは揺れる水面のような意識の中で瞬く間に流れていき、気が付けば、女は小上がりに敷かれた薄い布団に寝かされていた。大した時間は経っていないらしい。つっかえ棒で開け放たれている木窓からは、柔らかな夕日が差し込んでいた。 「あっ、起きた!」  体調はどう? 男が心配そうな様子で覗き込んでくる。その腕には、誕生したばかりの小さな命が、白く清潔な布にくるんで抱かれていた。 「平気よ」  ゆっくり体を起こすと、女は襟元を整えて彼に向き直った。 「ねえ、私も抱いてみたいわ」  両腕を差し出すと、男は震える手で慎重に赤子を乗せた。緊張していることが、ありありと伝わってくる。その姿に、女の張り詰めていた心は徐々に緩んでいった。 「とても元気ね」  名の通り真っ赤な顔で泣き喚く我が子を抱き、優しく微笑む。  生まれたての子どもって、本当に猿みたいなのね。  くしゃくしゃな顔はとても可笑しいのに、愛おしさは泉のように溢れていく。  自分の細腕に収まる小さい体に、女はその脆さを実感した。その途端、守りたいという気持ちが一層強くなっていく。 「ねえ、名前は何にしようか?」  男の問いに、女はゆらゆらと腕を動かし、赤子をあやしながら考えた。その間も、赤子の泣き声は家中に響き渡る。生命力に溢れる良い声だと思った。 「きょうすけ、なんてどうかしら」 「どんな字を書くんだい?」  男は薄い木の板の上に、紙と鉛筆を乗せて差し出す。片腕で赤子を抱きながら、女は器用に文字を書きつけた。 「なるほど。僕たちと揃いになるようにしたのか」 「えぇ」  男が紙を持ち上げ、木窓から差し込む光に透かす。浮かび上がる二文字を、彼は満足そうな顔で見つめた。 「うーん、良い名前だ! これにしよう!」 「貴方も少しは考えてよ」 「いいや、これ以上良いものは思いつかないよ」  全く困ったものだ。  溜息を吐きながらも、慈愛に満ちた目で、はしゃぐ彼を見つめる。 「響介! これがお前の名前だぞ!」  男は満面の笑みで赤子の名を呼んだ。 * * *  空と地面の両方から放たれる熱が、容赦なく体力を奪っていく。  何の変哲もない平日の朝。コンクリート塀の続く住宅街を、緋寄(ひより)ちあきは気怠そうに歩いていた。  スカートが肌に張り付いて鬱陶しい。  不貞腐れたように裾を摘まむと、ちあきは涼を求めてパタパタとスカートを揺らした。残念ながら、暑さは気持ちほどしか変わらない。肩まで伸ばした黒髪も、光を吸収するばかりだ。  げんなりしながら高校に向かっていると、背後から突然爽やかな風が吹き抜けた。 「ちあき、おっはよー!」  明るい声とともに、背中に重い何かが伸し掛かる。正体は振り返らずとも分かった。 「沙月、おはよう。今日も元気だね」  朝からフルスロットルなこの少女は栖原(すはら)沙月(さつき)。三歳からの付き合いである幼馴染だ。 「えへへっ!」  沙月は憎めない笑顔を浮かべると、ちあきの背からパッと離れて隣に並んだ。長くて艶やかな茶髪は、その楽しそうな足取りに合わせて軽くはためいている。 「元気にもなるわよ! 昨日ね、新しい噂を聞いたの!」 「また? 今度はどんな話?」  半ば辟易しながら尋ねる。沙月は昔から面白い噂話に目がない。高校では新聞部に所属しており、校内だけでは飽き足らず、様々な場所からネタを仕入れてくる本格派だ。ちあきにもいち早く情報を届けてくれるので、彼女は近隣の噂話を自然と網羅していた。正直言って満腹だが、聞いても聞かなくても勝手に話してくるので仕方ない。 「それがね」  沙月は秘密の宝物を見せてあげるかのように、少し勿体ぶった様子で話し始める。 「なんと! 最近この町の近辺で、行方不明者が続出してるんだって!」 「えっ、それ結構な事件じゃない!」 「そう。それも、ただの事件じゃなさそうなのよ。この辺の警察は検挙率が高いらしいんだけど、今回は捜査が難航してるらしいの。ふふっ、何だかスクープの匂いがするわ!」  沙月は期待に満ちた笑顔を浮かべる。人様が困っているというのに不謹慎極まりないが、こうなった沙月は誰にも止められない。話を耳にしてしまった以上、沙月が暴走しないように見守るしかないだろう。その行為は、最早ちあきの習慣になってしまっている。 「くれぐれも、警察のお世話になっちゃダメよ」 「やだなあ、上手いことやるから大丈夫だって!」  全くもって不安で仕方ない。  胃に穴が開くような感覚が襲い、ちあきは肩を落として苦笑した。  二人の通う日暮(ひぐ)れ高校は平凡な公立高校だ。どちらかと言えば部活や行事に力を入れており、勉強はそれなりといった具合である。  入学して三か月と少し。だいぶ見慣れてきた教室に入ると、すでにほとんどの生徒が登校していた。各々がお喋りに興じているが、何だかいつにも増して騒がしい。その原因の九割を占めているのは、中央の人だかりから飛ぶ少女たちの黄色い声だ。ちあきは人だかりを見ながら首を傾げた。 「何かあったのかな?」 「あ、やっと来た!」  輪の中心にいた少年が、少女たちに断りを入れて二人のもとにやって来る。彼はもう一人の幼馴染である藍井(あおい)(ひろ)。さらさらの黒いショートヘアに甘いマスクを持つ美少年だが、それを鼻に掛けない優しい言動で、周囲から王子様と持てはやされる人気者だ。おまけにスポーツも万能で、一年にしてサッカー部のレギュラー入りを果たしている。 「おはよう。随分賑やかだね」  ちあきの言葉に、宙はにへらっと人の好い笑みを浮かべる。 「俺が街頭インタビューを受けた所が、今朝テレビで流れてたんだって」 「えーっ、凄いじゃん!」  沙月はちあきの隣で大興奮している。どこにでもいる普通の高校生の彼らからしたら、テレビに映るだけでもトップニュースだ。喜んで当然なのだろうが、当の本人は少し困った顔をしているように見えた。  またか、とちあきは呆れる。宙は昔からお人好しで、誰かの頼みを断ることが苦手だった。社交的な印象を受ける顔とは裏腹に、引っ込み思案で派手なことを好まない。大方強引にインタビューを迫られて断れなかったのだろう。それは彼の長所でもあり短所でもある。ちあきは、いつか彼が詐欺の被害に遭うんじゃないかと心配しているほどだった。 「何テレビだったの?」 「おはテレらしいよ」 「ふーん。っていうか、何でそんな他人事みたいな言い方するのよ。自分がインタビューを受けたんでしょ?」  不思議そうな様子の沙月に、宙の表情は思い詰めたものに変わった。 「それが、全く身に覚えがないんだ」  彼の妙な答えに、ちあきと沙月は顔を見合わせる。 「皆が見間違えたんじゃないの?」 「それがさ」  宙は自分のスマホを取り出し、二人に画面を向ける。 「偶然テレビを見た子が写真を撮ってて、それを送ってくれたんだけど……」  二人が画像を覗き込むと、そこには紛れもなく宙本人が映っていた。保育園の頃から一緒の友人を見間違えるはずがない。二人は首を捻った。 「本当だ。宙くんだね」 「宙、あんたやっぱり忘れただけじゃないの?」 「こんな印象的なこと、忘れるわけないだろ!」  宙が声を荒立てる。確かに全国放送されるテレビのインタビューなんて、そう簡単に忘れるものではない。それに彼は特別忘れっぽい人でもないし、嘘を言っているようにも見えない。 「じゃあ、これは誰なの?」  ちあきは不安そうに呟いた。奇怪な現象に薄気味悪さを感じたのか、宙は顔を青くして黙り込んでいる。 「ふっふっふっふっ……!」  そんな中、沙月が突然妙な笑い声を上げた。 「さ、沙月……?」 「わかったわ、その人の正体!」  動揺する二人をよそに、沙月は確信めいた様子で宙をまっすぐ指さす。 「それは、きっと宙のドッペルゲンガーよ!」 「は? ドンペリ?」  何を言い出すかと思えば。宙はそう言いたげな顔で、顔をしかめている。 「違う! ドッ・ペ・ル・ゲ・ン・ガー!」 「何それ?」  よくぞ聞いてくれました! ちあきが尋ねると、沙月は得意げに腕を組んだ。 「ドッペルゲンガーっていうのはね、自分と同じ姿をした不思議な存在のことよ。幻覚や生霊なんじゃないかって言われることもあるわ。自分と同じ顔の人は世の中に三人いる、なんてよく言うでしょう? あれはきっとドッペルゲンガーのことだと思うのよ」 「ふーん」 「ちあき、興味を失わないで!」  大仰な素振りで手の平を向けられ、ちあきは若干身をのけ反らせる。 「問題はここからよ! このドッペルゲンガーにはある逸話があってね。自分のドッペルゲンガーに会うと死んでしまうって言われているの」 「えっ、俺見ちゃった」  宙の顔から、さらに血の気が引いていく。 「大丈夫よ宙くん。本当に死ぬ訳ないじゃない」 「もう、ちあきってば本当に頭が固いんだから!」  沙月はぷうっと頬を膨らませて、ちあきの淡白な反応に抗議する。しかし、彼女の一ミリも興味がなさそうな顔を見て諦めたらしい。腰に手を当てたまま溜息を落とすと、沙月はすぐにけろっとした表情で顔を上げた。 「まあでも、直接会った訳じゃないし大丈夫だと思うわ!」 「そ、そっか……」  自分で話題を振っておきながら、随分と雑なフォローである。 沙月に呆れながら、ちあきはそっと宙の様子を窺う。一応頷いてはいたが、彼の顔から不安の色は消えていなかった。 「ただ、少し気になることがあってね」  沙月が唇を尖らせて唸り始める。 「さっきも言った通り、ドッペルゲンガーって言うのはその人の生霊とも言われているの。その人の体が生きている状態で、魂だけが一部抜け出て行動してるってわけ。これは死の前兆と言われているわ。ドッペルゲンガーを見ると死ぬっていう噂は、ここから来ているところもあるのよ」 「えっと、つまり?」  先の見えない話し方に、ちあきは痺れを切らして問う。その途端、沙月の表情に気迫が籠った。 「テレビに映っていたのが宙の魂の一部なら、帰ってこないと宙が死んじゃうかもしれないってことよ!」  話が非現実的な方向に飛躍しすぎではないだろうか。先ほどまでは真面目に聞いていた二人も、思わず唖然とした表情になってしまった。  しかし、彼女の奇行は今に始まったことでもない。二人とも慣れたもので、「また言ってら」と話半分で聞き流している。そんな二対の白けた視線に気が付かぬまま、沙月は興奮した様子で続けた。 「こうしちゃいられないわ! ちあき、放課後出掛けるわよ!」 「出かけるってどこに?」 「宙のドッペルゲンガーを探しによ!」 「はあっ!?」  ちあきが声を荒げたその時、ちょうどホームルーム開始のチャイムが鳴った。 「じゃあ、そういうことだから! 放課後待っててね!」 「あっ、ちょっと!」  止めようとするも、沙月はさっさと自分の席へ行ってしまう。呆気に取られながら見送るちあきを見て、宙は申し訳なさそうに肩を竦めた。 「ちあき、何かごめんね」 「宙くんが悪い訳じゃないよ。それにもう慣れっこだし」  ちあきは半ば諦め気味に溜息を落とす。 「そっか。あまり危険な場所には行かないようにね」 「善処します」  ちあきの脳裏に、沙月とのこれまでの思い出がよみがえる。よく探検と称して宙とともに引っ張り回されたが、そのどれもが廃屋や、ゴミの山や、切り立った崖だった。碌な場所に連れていかれたことがない。そんな中で三人の身の安全を確保するのは、いつだってちあきの役目だ。つまり、ちあきが沙月を止められなければ危ない。  今回はどんな所に連れて行かれるやら。  ちあきは自分の席に着くと、物憂げに窓の外の景色を眺めた。 「それで探すってどうやって?」  放課後、校門を出た所で二人は立ち止まった。すでに精神的に疲れていたちあきは、力無く問う。対する沙月は、半袖のシャツを肩まで捲り上げ、やる気充分そうだ。 「そりゃあ足で稼ぐしかないでしょ。私は西側で情報を集めてくるから、ちあきは東側をお願いね。何かあったら連絡ちょうだい。それじゃっ!」 「えっ、ちょっと沙月!」  駆け出した沙月の背中に手を伸ばす。まさか別行動になろうとは。ちあきは呆気に取られてその場で脱力した。 「全く、人の話を聞かないんだから」  彼女の自分勝手な行動にどれだけ振り回されてきたかわからないが、何だかんだ面倒を見てしまっている自分がいる。その原因に心当たりはあった。  あれは三歳頃のこと。彼女は親の仕事の都合で、この日暮れ町へ越してきた。新しい環境への戸惑いも大きかったのかもしれない。人見知りの激しかった彼女は、みんなの輪に入りたいと思いつつ、保育園ではいつも一人だった。 「いっしょにあそぼ!」  そんな彼女に声を掛けてくれたのが沙月だった。  生まれた頃からの付き合いである宙を引き連れた姿は、まさしく小さな親分。先生も手を焼く問題児は、屈託のない笑顔で、ちあきを破天荒な人生に巻き込んでいった。  それからは苦労の連続だった。けれど、沙月はちあきが悲しいとき必ずそばにいてくれたし、自分を傷つけようとする意地悪な人間からは絶対に守ってくれた。  普段は呆れた言動ばかりの彼女だが、その芯には損得なしに人を思いやれる勇気がある。それは誰にでも真似できるものではない。彼女の欲目のない優しさが、二人を繋ぎ止めているのだ。 「はあ、探してやりますか」  ちあきは鞄を背負い直すと、町の東側へと向かった。  とは言うものの、情報を得られる場所などわかる訳もない。  ちあきは当てもなく、町の中をぶらぶらと歩いていた。道行く人に声を掛けるというのも一つの手だが、それは流石に気恥ずかしい。ひとまず目に見える範囲でおかしなところがないかを観察していった。  しかし、行けども行けども町に変わった様子は見られない。気が付けば、彼女は人気のない町の外れまで来ていた。 「うーん、収穫ゼロね」  行き止まりのフェンスを見つめ、ちあきは肩を落とす。この辺りは買い手のつかない空き地が広がり、その上を高速道路が走っているだけだ。目ぼしいものは何もない。  図書館で最近の新聞でも見てみるか。そう思い直し、通って来た高架下に足を踏み入れる。すると、反対側からこちらに歩いてくる人影が目に入った。 「……ん?」  何だか見覚えのある顔だ。そのことに気づいたちあきは、不思議に思い立ち尽くした。 「宙くん?」 「ちあき! ようやく見つけた!」  やっぱりそうだった。  彼は名前を呼ばれると、嬉しそうな声を上げて小走りで近づいて来た。 「もう、探したんだよ!」 「えっ、何か用事だった?」  わざわざ自分を探しに来るほどの用事なのだろうか。それならメールや電話の一つも入れてくれればいいのに。手間なことをするなと、ちあきは首を捻った。 「うん、ちょっとね」  宙はずかずかと遠慮ない様子で、ちあきに詰め寄って来る。 「ちあきが一人になるのを待ってたんだ」  肩を強く掴まれ、ちあきは表情を歪めた。 「ちょっと、宙くん。痛いよ」 「ごめん。でもそのくらい、君に会いたくて仕方なかったんだ」  彼の性格上、そんな歯が浮くような台詞を言うことは考えられない。それに宙は、ちあきのことを君などと呼ばない。  何か様子がおかしいと思い、宙の顔を凝視する。彼の双眸から生気は消え、焦点は上手く定まっていなかった。 「ひ、宙くん? どうしたの?」  ちあきは身を捩って、彼の腕から逃れようとする。しかし、肩を掴む力は強くなるばかりだ。 「大丈夫、痛くしないから」  彼の顔に重く影が落ち、ちあきとの距離が縮まる。  こんなの宙じゃない。怖い、誰か助けて。ちあきが固く目を瞑ったその時だった。 「行儀がなってないな」  どこからともなく低い男の声が響く。辺りを見回すと、高架下の入り口に立つ長身の男の姿が目に入った。長い前髪から覗く顔は作り物のように整っており、その出で立ちは、さしずめホストのようだ。夏に全身黒い服を着ているというのに、彼は涼しそうな顔で二人を見ていた。 「誰? 邪魔しないでくれる?」  宙は男に向かって苛立たし気に告げる。その威圧するような恐ろしい声は、ちあきが知る彼の声ではなかった。 「俺の勘違いか? その女は嫌がっているように見えるが」  金色の鋭い視線がちあきを捕らえる。宙と同じ得体の知れない空気を感じ、ちあきは身震いした。 「そんなことないよ。ねえ、ちあき?」  宙は張り付いたような笑顔でちあきを見つめる。その時、彼女は今朝の会話を思い出した。彼のドッペルゲンガーの話を。 「あなた、本当に宙くん……?」  ちあきの言葉を聞いて、宙の顔から表情が消える。 「バレてしまったのなら仕方ないね」 「えっ」  宙はちあきの背後に周ると、左腕で彼女の首を抱えた。 「ひっ、ひろくん……やめ……っ!」  その圧迫感に呻き声を上げながら、ちあきは彼の腕を引っ張り必死の抵抗を試みる。しかし、宙の腕はびくともしない。 「あんた同族か!? 心臓を貫かれたくなかったら大人しく帰るんだな!」  気づけば宙は右手に銃を構え、目の前の男に突き付けていた。その口角が上がると同時に顔全体が変形し、まるで知らない人物になっていく。どこにでもいる平凡な顔立ちの男だが、脂汗の浮く顔からは、興奮して荒くなった息が漏れて気色が悪い。ちあきの疑いは確信に変わった。この男は宙じゃない。  そんな緊迫した状況にも関わらず、黒服の男は表情一つ変えずに近づいて来る。 「おっ、おい! 話を聞いてたのか!」  ちあきを掴む男の手が震える。突然けたたましい銃声が鳴り、弾丸が黒服の男の体を掠めた。二発、三発と打ち込まれるも、その足は止まらない。幸い弾は貫通していないようだが、いつ命を落とすか分からない状況だ。それなのに、彼はおかしなくらい冷静な態度で、二人の目の前に立ち塞がった。そして荒々しく銃身を掴むと、あろうことか銃口を自分の胸に突き当てた。 「残念だったな。俺は死なない体なんだ」 「まさかお前、知らずの男か……?」 「さあ? 試したかったら引き金を引いてみな」  男は顔を青白くしながらも、懸命に彼を睨みつける。次の瞬間、鼓膜が破けそうな轟音が響き、ちあきは目を瞑った。  硝煙と混ざり、鉄の匂いが鼻を霞める。知らぬ間に首の圧迫感が消えていた。男の腕が離れたようだ。一体何があったのだろう。  不思議に思い目を開けると、ちあきの足元には先ほどの男が崩れ落ちていた。銃を持っていた右手から二の腕にかけて酷い裂傷を負っている。前屈みになった体の陰に隠れてはっきりと見えないが、欠けた指と地面に出来た血だまりは、その凄惨さを物語っていた。 「ひっ……!」  負傷した右手を押さえながら、苦しそうに呻く姿がおどろおどろしい。血塗れの惨状を目の当たりにしたちあきは、腰が抜けて、その場にへたり込んでしまった。 「な、何で……?」  銃を撃ったのはこの男だ。どうして彼が怪我をしているのだろう。困惑していると、黒服の男がちあきの前に割り込んだ。 「銃身を曲げたから、暴発を起こしたんだ」 「曲げた!? まさか貴方が!?」  黒服の男は何も答えないまま、地面に転がる銃を拾い上げた。よく見ると真っ直ぐだった銃身が、中心から天に向かって不自然に折れ曲がっている。 彼が変形した銃を懐に仕舞うと、負傷した男がフラフラと立ち上がった。あれだけの怪我をして動けるなんて異常だ。 「あっ!」  ちあきが呆然としている間に、負傷した男は足早にその場を去っていった。  自分を襲った人間と言えども怪我人だ。多少心配にはなったものの、男が遠くに行くほど、脅威が消え去ったことの安堵が勝っていった。 「おい、大丈夫か」  呆然としているちあきに男が言う。彼女は、期待を孕んだ目で彼を見つめた。 「あの、助けて下さったんですか」 「偶然だ。勘違いするな」  男はぶっきらぼうに言い放つと、身を翻し歩き出した。 「あ、ちょっと待ってください!」 「何だ」  鬱陶しそうな表情で振り返る男を追って、ちあきは何とか立ち上がる。 「あの男の人って知り合いなんですか!?」 「それを知ってどうする」  男の表情はさらに険しくなる。ちあきは恐怖を押し殺しながら続けた。 「あの人、私の友だちに成りすましてたんです」  だから、と口にした所で言葉が途切れる。狼狽える彼女に、男は気持ちの読めない表情で言った。 「世の中、知らないほうがいいこともある」 「でも、友だちに何かあったら私……」  ちあきは泣きそうな顔で俯いた。その様子を、男は品定めするかのように眺める。しばらくすると、彼はふんと偉そうに鼻を鳴らしてちあきに向き直った。 「わかった。教えてやるよ」 「本当ですか!」  ちあきが喜びの声を上げた瞬間、ぐいっと手首を引っ張られる。近づいた男の顔は、わずかに口角が上がっていた。 「お前の身体にな」  男の空いた手がちあきの腰を掴む。そのまま彼の身体に引き寄せられ、ちあきの背は斜めに反った。思わず男の肩を掴むと、抵抗する間もなく男の顔がちあきの首元に埋まる。刹那、首元に痺れるような痛みが走った。 「痛っ……!」  身じろぎをすればするほど、男の八重歯が首元に刺さっていく。振り解こうにも埒が明かない。じくじく広がる痛みと、身体中に電流が走ったような感覚により思考は停止した。早く解放されたい一心で、男の服を強く握る。殺されることも覚悟したちあきだったが、男は十秒もしないうちに顔を離した。 「わかっただろう。俺たちの正体が」  鋭い眼光に口から覗く八重歯、それらを持った血を好む化け物に聞き覚えはあった。くらくらとする頭を働かせ、ちあきは呟く。 「吸血鬼……?」  恐怖に慄くちあきの顔を見て、男は不敵な笑みを浮かべる。 「正解」  傾いていた身体を起こすと、男はちあきから手を離した。 「吸血鬼は姿形を自由に変えることができる。大方、あいつはお前の近しい人間に化けて、気の緩んだところで襲うつもりだったんだろう」  そんなものが実在するなんて。ちあきは信じられないといった目で男を見つめた。 「これに懲りたら近づくな。一括りには出来ないが、無差別に人間を襲う吸血鬼もたくさんいる。その平和ボケした頭に刻んでおけよ」  男は吐き捨てるように言うと、高架下を後にした。その背中を、ちあきは放心したまま見送る。あまりに突然の出来事で、いつもなら怒りに震えそうな罵りの言葉も、全く耳に入らなかった。  数秒後、彼女はポケットに入れていたスマホの振動で我に返った。画面を見ると、沙月から着信が入っていた。 「もしもし」 「あっ、ちあき! 今どこにいるの?」  覚束ない手で電話を取った途端、沙月の明るい声が耳を劈いた。ちあきの思考は瞬く間にクリアになる。 「えっと、高架下」 「また随分と遠くまで行ったわね」  時間も時間だし帰ろうよ。私、高校の前にいるから。  ちあきはその提案に頷いて電話を切ると、もう一度男の歩いて行った方向を見つめた。そこにはもう誰の姿もなかった。  辺りは静まり返り、建物から漏れる明かりがわずかになった頃。黒服の男はビルの屋上から繁華街を見下ろしていた。  その体内では、普段血を取り込んだ時とは全く違う変化が訪れていた。駆け巡る血液は異様な速さで銃創を治癒し、残っていた疲労も全て消え失せている。  奇妙な感覚に、男はその手に抱いた少女の顔を思い出した。 「あいつは一体……」  男の声は、吹きつける風の音に掻き消されていった。
/50ページ

最初のコメントを投稿しよう!

14人が本棚に入れています
本棚に追加