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祐介は昔から金魚に憧れていた。
家の近くに『榊神社』という由緒ある神社があって、そこでは毎年夏になると町内会主催のお祭りが行われる。榊神社は明治の頃から続いていて、この柳町を守る土地神様がいるんだと、小さな頃から祖父に聞かされていた。夏祭りは、その土地神様に感謝を伝え、一年に一度、めいっぱい楽しんでいただくために行われるのだという。
祐介の家から神社までは歩いて10分ほど。奥まった住宅街から大通りへ出ると、神社へと続く商店街の軒下に、柔らかな光を放つ提灯が等間隔につるされている。それはまるでヘンゼルとグレーテルが落としていったお菓子みたいに、祐介を夏の夜に誘い込む。
はじめはぽつぽつと、取り残されたように置かれた屋台は、神社に近づくにつれてその間隔を詰めてひしめき合い、それに呼応するように人の流れが増えていく。
天井から流れてくる少し割れた祭囃子の音と、浮き立つ人々の声。大人、子供、老人、ひょっとこや天狐のお面をかぶった誰か。
ありとあらゆるものがごちゃ混ぜになって、普段の柳町とは全く違う。
異様な興奮と熱気が満ちているその世界は、誰ともないものが混ざりこんでいるような、そんな幻想を抱かせて、好奇と恐怖で祐介をゾクゾクとさせるのだった。
祐介はいつも、父と祭りに出かけていた。父は忙しく、滅多に家にいない人だった。それでも毎年このお祭りだけは、祐介を連れてきてくれる。父子の唯一といっていい時間だった。その特別さが、一層祐介の心を弾ませていたのかもしれない。
わたあめ、くじ、型抜き菓子……カラフルな暖簾を垂らす屋台の中で、幼い祐介の心をひと際とらえて離さないのが、金魚すくいだった。
提灯の灯りが揺らぐ水の中を悠々と泳ぐ、色とりどりの金魚たち。ぎゅうぎゅうの人ごみを掻き分け喧噪の中を進む祐介に対して――もちろん、これが“ザ・夏祭り”といった醍醐味で、祐介は服の中でだらだらと零れ落ちる汗さえも嫌いじゃなかった――水槽の中で涼し気に、ポイを持つ人間たちをからかうように尾びれを揺らす金魚たちは、とても魅惑的できらめいて見えた。
祐介は、初めて見るそれに釘付けになっていたんだろう。父が「やるか?」と一言声をかけてくれた。それが、祐介が人生で初めて金魚すくいをした瞬間だった。
当時、5歳。
あの時の高揚感は大人になった今でも忘れられない。このきらきらとしたモノが自分のものになる。しかも、ただ買うわけじゃない。自分の力で手に入れるのだ。
幼い心に、狩猟魂ともいえる本能が、めらめらと燃えるのを感じていた。
けれど、祐介はそのすべてを手に入れたいわけではなかった。
――たった一匹でいい。僕のもとに来てくれる子を。
祐介にとって金魚は、憧憬の対象だった。
楚々とした可憐な姿を纏いながらも、人々を翻弄する、小悪魔的ともいえる艶っぽさを持ち合わせるそのギャップに魅了された祐介は、なんとかしてこのきらきらしたものとつながりたいと、切に願っていた。
だがあまりに憧れすぎたのか、もともと祐介が不器用だったのか。祐介は一向に金魚をすくえなかった。
祐介がどんなに慎重にポイをいれても、まるでその動きが最初からわかっていたみたいに、スーッと金魚は逃げていってしまう。
「もう少し、角度をつけて。なるべく水面を揺らさないようにしてごらん」
いつもは無口な父が、珍しく饒舌にアドバイスをしてくれた。
それでもうまくいかない祐介を見て、「もう一回、やるか?」と諦めずに声をかけてくれる。
二人は、あっちも、こっちも、と転々と金魚すくいの屋台を巡った。だが、父のサポートもむなしく、そのどの屋台の金魚も、祐介のもとに来てくれることはなかった。
屋台を巡るたび、近くにしゃがむ少年たちにくすくすと笑われる始末で、まったく己の不器用さが情けないと、祐介は自らの悲惨なすくいっぷりに肩を落とした。
父は「買ってやろうか?」と言ってくれたけれど、祐介は頑なに拒んだ。
それから毎年、時に隣町まで足を延ばしながら金魚を求めたけれど、祐介は一度もそれをすくうことができなかった。
やがて祐介は、認めざるを得なくなった。
悲しいことに、自分には金魚すくいの才能がないのだ、ということを。
だから祐介は、今まで一度も金魚を飼ったことがない。
「パパ、早く!」
「そんな引っ張るなよ。大丈夫だよ、わたあめは逃げたりしないから」
あれから30年近く。祐介も親になり、あの頃と同じように、5歳の息子・研太を連れて柳町の夏祭りに来ていた。
結局毎年祭りに出かけていたのは小学生の頃までで、成長するにつれて自然と足は遠のいていった。それでも父は毎年、「今年は金魚すくいにいかないのか?」と尋ねてくる。いつしかそれもうっとおしくなって、父とは滅多に話さなくなった。
18歳で柳町を出て、28歳で結婚した。翌年には息子が生まれたが、父と同じように忙しい職に就いた祐介は、柳町に帰ることも少なく、今日は盆に合わせて久々の帰省だった。
都会での暮らしは、祐介の心を荒ませた。どこまでいっても競争、競争、競争……。
たった一匹の金魚を求めて走り回っていた幼い日の祐介はもういない。祐介自身も、それはわかっていた。だからこそ、初めて来た柳町の祭りに心躍らせ、興味の赴くままに忙しなく動き回る研太が愛おしく、眩しかった。
「パパ! 金魚すくい!」
繋いだ手をぐいぐいと引っ張りながら前を行く研太が、目を輝かせて振り返った。
さすが親子だ。目の付け所が同じ。
祐介は少し苦笑いしながら、あの時の父と同じ、「やるか?」と研太を誘った。
紺地の暖簾にショッキングピンクの派手な色で『金魚すくい』と主張の強い筆文字が躍る。そのわきには、ぷっくらとお腹が膨らんだ琉金や出目金など、様々な金魚が描かれている。
――ああ、これもあの頃と同じだ。
少し割れた祭囃子の音。人々の笑い声。ソースのにおい。ぬるま湯のようにじとっとした空間、肌を伝う汗。
あの頃と変わらない景色。この町だけ時が止まったみたいだ。
「パパ、早くう」
甘えた声にハッと現実に引き戻されると、研太はほかの子供たちに混ざって、広い水槽の傍にしゃがんでいた。
祐介が店主に「一人分」と声をかけると、「はいよ」と手慣れた様子で応じるのと同時に、「あれ、坂元んとこの坊ちゃんじゃねえか」とニコニコと人のよさそうな笑顔を向けられた。
だが祐介には見覚えがなくて、「あ、えっと……」としどろもどろになってしまう。彼は祐介の父と同じくらいの年齢だろうか。
そんな祐介の様子を気にすることなく、店主は「オレ、そこの角で自転車屋やってんだわ。親父さんと同級生でなあ。そうかそうか、おっきくなったなあ」と続けた。
齢35で“坊ちゃん”や“大きくなった”と言われることに多少の気まずさと照れはあるけれど、それがこの柳町という小さな世界の良さでもあるのだろう。
祐介は苦笑いして「どうも」と小声でつぶやいた。
「1本おまけだ、ハイ、3本」
「ありがとう!」
差し出されたポイを、研太が無邪気に受け取る。
「ありがとうございます」と祐介も頭を下げたところで、ポケットに入れた携帯電話が鳴った。画面を見ると、会社の部下からだった。
祐介の勤め先は一斉休業ではなく時期をずらして夏季休暇を取っている。部下は今日も出勤しているはずだ。
何かあったのだろうか、と一抹の不安を覚えながらも、研太から目を離すわけにもいかず、しばし逡巡していると、「なんか用事か? 坊ちゃん見とくから」と店主が声をかけてくれた。
やはり温かい町だ、とそれに感謝し、祐介は少しでも人ごみを避けようと、タバコ屋の角から路地に2、3歩入ったところで足を止めた。だが、ちょうど出ようとしたところで、コールは止んでしまった。祐介は急いでかけ直す。
しばらく呼び出し音が続き、それから「はい、山本です」と、応答があった。
「出られなくて悪かったな」と言おうとしたところで、「坂元さん、どうしました? 今日お休みですよね」と先手を取られた。祐介は壁にもたれてひとり眉をひそめる。
「どうしたって、お前がかけてきたんだろ。何かあったのかと思ってかけ直したんだよ」
「ええ? 僕かけてないですよ。誰か別の人じゃないですか?」
「いやいや、かかってきた番号にかけ直してるんだから、お前だろ」
「おかしいなあ。携帯、ずっと背広のポケットに入れてたんですよ。イスの背にかけてたから、間違って触るはずもないんだけどなあ」
心底不思議そうな声を出す彼は、今年三年目になる若手社員だ。入社以来ずっと祐介の下についているので人柄はよく知っている。そそっかしいところはあるものの、根は真面目で、間違っても上司にいたずら電話するようなやつではない。
「まあ、何事もないならよかったよ」
祐介は不可解に思いながらも安堵の息を漏らし、「休暇の邪魔してすみません」と謝る部下に、「もう19時過ぎだ。さっさと帰れよ」と労いの言葉を残して電話を切った。そして、足早に研太のいる屋台に戻る。
店主に礼を告げ戻ったことを知らせながら研太を伺うと、3本目のポイを破いたところだった。手元のボウルは空っぽだ。
――金魚すくいの才能がないのも似たのか。
祐介は今日何度目かの苦笑いを浮かべ、腰をかがめて「もう一回やるか?」と研太に声をかけた。
すると研太は、「もう1本ある!」と脇から新品のポイを拾い上げた。
誰かの忘れ物か? もしくは店主が間違えて4本渡したのか?
祐介が店主のほうを窺うと、「あれ? おじさん間違えたかなあ。いいさ、おまけのおまけだ! やってきな!」と陽気な声を出した。
「よかったな、1匹くらいはとれるといいな」
祐介が声をかけると、研太はそのポイをずいっと祐介のほうへ差し出す。
「これはパパのぶんだよ」
突然どうしたというのだろう。祐介が困惑していると、「パパ、頑張って」と研太が笑う。
祐介の脳裏に、金魚に逃げられ続けた苦い思い出が過る。
心の中で後ずさりしつつも、期待に満ちた研太の視線に観念せざるを得なかった。
子供の前で恥をかくことになるとは、と情けない気持ちを抱きつつ、祐介はそれを受け取り、研太の隣にしゃがみ込む。
諦め半分で、半ば乱暴にポイを水槽に入れようとした時、「パパ、違うよ。その子じゃない。あのキラキラしたやつだよ。白と赤が混ざっているやつ」と研太が一匹の金魚を指差した。
あれを取ってほしいってことか?と多少の疑問を抱きながら、祐介は狙いを研太が差した金魚に移す。
『角度をつけて。なるべく水面を揺らさないように……』
幼い日に父親から言われた言葉が頭をかすめる。ゆっくりと、細心の注意を払い、祐介はポイを斜めに傾け、水槽に差していく。小さくさざ波が立ち、白い水槽の底に映る金魚の黒い影が揺れた。
どうやったら金魚がすくえるのか、幼いながらに毎年研究してきた。それでも一回もすくえることがなかった金魚。きっと今回も、金魚はするりと祐介の手をかわして逃げていくんだろう。
……そう思った瞬間、金魚はまるで何かに導かれるように、祐介のポイの中へ入ってきた。
予想外の展開に、祐介は慌ててポイを上げる。手にしたボウルを近づけ、ぽちゃん、と金魚をその中に落とす。金魚はしばし驚いたようにバタバタとして見えたけれど、やがて落ち着きを取り戻し、焦ってないわ、と言わんばかりにつんと澄まして泳ぎ始めた。
「パパすごい!」
研太が隣で歓声を上げる。
けれど、その尊敬の眼差しさえも今の祐介にはどうでもよかった。
自分の心臓の音が妙に目立って聞こえる。内側から、太鼓のごとく何かに叩かれて、このままポーンと飛び出していくんじゃないかと思うくらい、鼓動が激しい。
初めて自分の手でとらえた憧れの金魚――祐介は、狂喜のあまり小躍りしたい気分だった。
帰り道、初めての金魚を手にした喜びでホクホクとした気持ちを抱えて、祐介は研太と手を繋ぎ、街灯の少ない住宅街を歩いていた。
大通りの喧噪や提灯の灯りはいまや遠くにあり、虫の音だけが夏の夜に響く。時折吹く涼しい風が、祐介の高揚した気持ちを落ち着かせた。
「パパ、すごかったねえ」
研太は嬉しそうに、透明な金魚袋を顔の前にぶら下げて歩いている。「前を見てないと転ぶぞ」と口先では注意しながらも、祐介もまた、5歳の頃に戻ったみたいに浮足立っていた。
ビニールの金魚袋に、白と赤のまだら模様の金魚が一匹。街灯の光を吸って、きらめいている。
「研太は、この金魚が欲しかったのか?」
祐介は、ふと気になって尋ねた。
「ううん、違うよ。パパにはあの金魚だって、男の子が教えてくれたの」
「男の子?」
いつの間にそんな会話をしていたのだろう。あの屋台には同じように金魚すくいに勤しむ子供がたくさんいたから、そのうちの一人と話したのだろうか。
祐介は不思議に思ったが、そんな父の様子を意に介さず、研太は言葉を続けた。
「その子がね、パパにごめんねって言ってたよ」
「ごめんね?」
「今までずっといじわるしてたって。パパが金魚をすくえないようにからかってたんだって」
――“いじわるしてた?” この子は何を言ってるのか。
祐介は驚きを隠せず、目を見開いてじっと研太を見つめた。だけど研太はいたって真面目な様子で、祐介をからかおうとしているようには思えない。それ以前に、5歳の子供がそんな作り話をできるだろうか? 祐介が金魚をすくえないことは、誰にも話していないのに。
「じぃじがね、お願いしたんだよ。パパにいじわるしないでくださいって」
研太の一言に、祐介は言葉を失った。
『柳町の夏祭りは、土地神様に感謝を伝え、めいっぱい楽しんでいただくために行われるもの』
ふと、祐介の脳裏に祖父から聞いた話が浮かんだ。
――まさか。
祐介はその考えを振り払うようにかぶりをふって、まっすぐに、家へと続く道のりを見つめた。目の前に広がる夜。祐介は突如、夜を意識した。
祭り提灯の華やいだ灯りは遠く、申し訳程度の街灯が差すだけの、夏の夜。その中には何か得体のしれないものがうごめいているようで……。
ゾクゾクと、あの頃に感じた、興奮と恐怖が入り混じるような高ぶりを、祐介は思い出していた。己の意志とは別に、じわじわと口の端が上がってくるのを感じる。
――そうか、俺はいたずらされていたのか。
何かがすとんと落ちるように、祐介はそれを受け入れた。こらえきれず、くつくつと笑いをこぼす。
「パパ?」
突然笑い出した父親を、研太はさぞ不審に思っていることだろう。
しばらくして笑いが収まると、祐介は大きく息を吸い込んだ。
夏の夜のじとっとした空気が、体中に巡る。
「水槽を買わないとな。じぃじの家にあったかなあ」
30年越しに、ようやくお迎えできた金魚だ。丁重に扱わなくては。
それから父に、金魚をすくえたよ、と話そう。そうだ、明日になったら好物だった『柳泉堂』の水羊羹を買ってきてやろう。
風にまぎれて、くすくすと子供の笑い声が聞こえた気がした。
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