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滑らかに動く細長く綺麗な指に合わせてピアノは哀愁漂うが絶望に閉ざされたわけではない――夕焼けのような旋律を奏でていた。奏者の想いがそうさせているのか俯いてはいるが1歩1歩足は踏み出している。そんな演奏。あの人は一体どんな想いでこの曲を弾いているんだろう。だけどそれはあの人ではない僕には想像すらできない。
僕は記憶のものとは似て非なる旋律を奏でていた。考えずとも指が動き自分の演奏を聴く余裕もある。まるで体と頭が別の意志を持っているようだ。こういうのを体が覚えているというんだろう。そんなことを考えながらも演奏は進むがまだ途中だというのに別の音が割り込んできた。その音に僕はぱっと弾く手を止める。
「マジか...。お前ピアノ弾けたのかよ?」
傍で僕を見ていた友人の拓真は目を見張り信じられないと言った様子。
「まぁこの曲だけだけど」
そんな彼に僕は立ち上がりながら大したことないと返す。別に謙遜とかじゃなくて本当にそう思っていたから。
「いや、十分すげーけどな」
感心で満ち溢れたその言葉を聞き流すように耳へ入れながらも心では少し嬉しかった。だけど素直に受け入れるのは小恥ずかしいから平然を装う。
そんな僕が拓真から視線を逸らすと次は音楽室にいたクラスメイトの注目を浴びた。みんな突然僕がピアノなんて弾いたから吃驚してるんだと思う。でも残念ながら普段から注目されることに慣れてない僕にとってその視線はあまり良いものではなかった。その視線ひとつひとつが僕にまるで鎖のように絡みつき今すぐこの場を離れ席に戻りたかったのに体が動かない。
「はーい。授業始めるわよ。早く席についてー」
すると後ろから少し遅れてきた白井先生が入って来た。その声に皆、自分の席へ戻り始め視線から解放された僕も席に着く。
授業が始まり先生の声が響く中、窓際の席で僕はいわし雲の浮かぶ青空を見上げていた。だけど頭で流れていたのは先程の曲。目の前の景色は見ているようで見てなかった。
目を瞑ればいつでも――いや、瞑らなくともこの曲は再生できる。そして演奏している姿も。僕より断然上手くて僕より楽しそうに弾くその横顔。演奏が終わると微笑みを浮かべたままこっちを向いてゆっくり口を開く。
『これはね。ク――』
その時。僕の頭上に軽い衝撃が降って来た。
「真人君?先生の話ちゃんと聞いてたかな?」
僕が青空から正面に顔を戻すとそこには声通り先生が立っていた。眉間に皺を寄せているもののそこまで怒っては無い様子。
「すみません」
「ちゃんと集中しなさい」
一言謝ると先生はそう言って黒板へ戻った。
* * * * *
土曜日の昼。朝の割り当てだった部活を終えた僕は体育館の2階で同じバスケ部の同級生である武とマネージャーの春と共におしゃべりをしていた。あのMVや動画は見たかとか楽しそうな映画がやってるとかそんな他愛ない話。
すると同じくバスケ部で同級生の悠真が上がってきて僕らの所へやってきた。
「真人。お前のこと呼んでる人いるぞ」
「え?僕?」
「うん。髪が長い美人な人。ねーちゃんとか?」
「いや。いないから違うと思うけど。とりあえず行ってくる」
僕はシューズを片手に立ち上がると心の中で首を傾げながら階段を下りた。髪が長い美人な人。そう言われたところで身に覚えは全く無い。もしかして名前が同じだけで人違いとか。そう言う可能性も考えながら僕は玄関まで行くと靴を履き外に出た。開放されたドアを通ると少しスペースがありその先には階段。
そこには恐らく悠真の言う人だろう女性が立っていた。ライダースジャケットを着た長い黒髪の女性が1人こちらに背を向けている。
僕はその後ろ姿を見ても尚、誰だと思いながらその女性へ近づいた。
「あのー。すみません」
1段下に立っていたので申し訳ないが見下ろす形になりながらも声を掛けた。女性がCMのように―実際はあそこまで派手ではないが―髪を靡かせながら振り返ると優しく綺麗な瞳と目が合う。初めて見るはずだけどその瞳は田舎の風景のように懐かしくも、どこか切なさを感じさせた。
「久しぶり。まさ君」
一瞬だけ更なる疑問符が僕の頭に浮かんだがそれを払いのけるように昔の記憶が蘇った。
「―――えっ?もしかして...。夏樹さん?」
昔、小学4年生頃だろうか。近所で―確か親戚の所有する空き家を借りて―1人暮らしをしていた大学生だ。
「良かった。覚えててくれたんだ」
彼女の浮かべたホッとした笑みは昔と変わらず優しかった。
「もちろん覚えてるよ。でもどうしてここに?」
「さっき君の家に行った時におばさんから聞いて、それで会うついでに迎えに来たってわけ」
そう言うと夏樹さんは後ろに停まっていたバイクへ紹介するように手を向ける。
「もう終わりでしょ?」
僕は一度頷いて見せた。
「じゃあ一緒に帰ろっか」
「なら着替えて来るんでちょっと待っててください」
「分かった」
少し駆け足で部室へ向かった僕は急いで着替えを済ませて荷物を持ち夏樹さんの元に戻った。
「お待たせしました」
「ほいっ」
その声と共に夏希さんは持っていたヘルメットを放る。僕はパスを受けるように両手でそれを受け取った。
「じゃあ行こうか。乗って」
その時はもう既にバイクに跨っていた夏希さんはそう言いながらヘルメットを被る。そして僕も後ろに乗るとヘルメットを被った。
「いい?」
「はい」
僕は返事をすると彼女の腰に――ではなくタンデムバーを両手でしっかりと掴んだ。そのタイミングでバイクが走り出す。ゆっくりと学校から道路に出るとここからが本気だと言わんばかりにバイクは意気込むような大きい唸り声を上げた。
そして更に速度を上げ始める。
周りの景色が一瞬で過ぎ去っていく中、僕は暴風のような秋風が手や足に当たるのを感じていた。殴るように強い風は冬を運び込むように少しひんやりと冷たい。
そんなどこか哀愁漂う秋風を感じながら夏希さんの背中を眺めていた。
「ちょっと家に寄ってもいい?」
それは僕がちょっとだけぼーっとしていた時のこと。信号待ちでバイクは停まり、少し後ろを振り向いた夏樹さんが僕へ聞こえるように大き目の声でそう尋ねてきた。
「えっ、あっ。いいですよ」
突然のことで若干動揺し言葉が詰まり気味になってしまったが何とか返事を返す。
「おっけー」
そして夏樹さんからそんなこと全く気にも留めていないと言った声が返ってくると同時に信号は青へと変わり再びバイクは走り出した。
家とは言っていたがそれは現在夏樹さんが住んでいる家のことを指しているのか、それとも昔住んでいた(あの親戚の家)を指しているのか一体どっちなんだろう。そんなことを後ろで考えていた僕を乗せたバイクはしばらく走り続けると答え合わせをするように1軒の家前で止まった。こことは反対側にある高校に通い始めてからは全くと言っていいほどに通らなくなった道に建てられた家。
それはそこまで大きくはないが小庭付の立派な(少なくとも僕にとっては)1軒家。
先にバイクを降りた夏樹さんに続き僕も降りるとヘルメットを脱ぎその家を見上げた。
「懐かしいでしょ」
その声に再び彼女を見ると腕にヘルメットを掛けハンドルを握りながら僕の方を見ていた。そこに浮かんでいたのは懐旧の情が溢れた微笑み。
「とっても」
僕は返事を返すともう一度家を見上げた。
そして思い出す。忘れもしないあの日の事を。
* * * * *
夏休みが始まったばかりのとある真夏日。あちらこちらで蝉が自分勝手に鳴き叫ぶ中、僕は容赦ない陽光とアスファルト熱に挟まれホットサンドの具状態になりながらも道を歩いていた。
このまま溶けてしまうんじゃないかって思う程に噴き出る汗。
特に予定は無かったのにも関わらず外に出ていた僕はあまりの暑さにもう帰宅を検討していた。
足を止め少し睨むように青空を見上げる。雲の一切ないどこまでも続く澄み切った夏の青空。確かに綺麗だが雲が無いせいで活力に満ちギラギラと輝く夏の太陽が僕を容赦なく照らす。しかも意地悪して僕だけを狙い撃つかのように。
そんな空を眺めているとどこからか軽やかな旋律が聞こえてきた。柔らかで涼しいそよ風のようなピアノの音。
僕は耳を澄ませそれがどこから聞こえてくるのか探った――右側。そう思った僕は顔をそちらへ向ける。だがそこには見上げる程の塀があった。しかし丁度、顔の高さに穴―顔出しパネルのように丸いが模様が付いた穴―が開いていた。聴いてるだけで風を感じる音色。まるで花に誘惑される蝶のように誘われた僕は穴を覗く。
そこからは緑色の草が敷き詰められた小庭と閉まった大窓が見えた。その窓の向こう側には口を開け大きく艶のある黒いグランドピアノとそれを演奏するお姉さんの姿。黒いスキニーとTシャツを着たお姉さんは後ろで長い髪を結っている。
そしてリズムを取っているのか微かに体は揺れそれに合わせるように閉め切った窓から旋律が漏れる。僕は暑いのも忘れ夢中になりながら音を聞きお姉さんの姿を見ていた。
すると不意にお姉さんがこちらを向き目と目が合う。ドキッと心臓が飛び跳ねるのを感じた時にはピアノは沈黙していた。ほんの2~3秒だったが僕にとってそれ以上の時間――お姉さんと僕は世界が止まったように互いを見つめ合う。いや、その間も蝉は鳴き続けていたから仮に止まってたとしてもそれは僕とお姉さんだけだったのかもしれない。
そして再び時間が針を進め始めるとお姉さんは立ち上がり窓を開けた。僕はもしかしたら怒られるかもしれないと内心ビクつきながらも、足が溶け地面と一体化してしまったように動けずにいた。
「暑くないの?良かったらおいで」
だけどそんな心配を払うような優しい声が僕の耳には届いた。そのおかげでついさっきまであった不安は汗と共に流れ足も元通り。
僕は返事をするのを忘れ足を動かすと門まで向かった。
* * * * *
「まさ君?何してんの?」
夏樹さんの声で僕は記憶の世界からどうしようもない現実へと戻った。
「今行きます」
そう返事をしあの日と同じように鉄の軋む音を聞きながら門を通る。夏樹さんは門からドアまでの通路にバイクを止めていた。そんな彼女から視線を逸らし小庭へ目をやる。
あの日、門を通った僕がドアではなく真っすぐ向かった場所へ。
* * * * *
門を通り小庭に向かった僕は草の上を進むと窓を開けて待つお姉さんの前で足を止めた。
人1人分で開けられた窓から歓迎するように流れた冷気が火照った僕の顔をそっと撫でる。同時に冷気に乗ってきたほんのり甘い香りが胸をくすぐった。だけどそんなことがどうでもよくなるくらいに部屋からの空気はさっきまでの暑さが嘘のように冷たく心地いい。僕の顔は思わず緩んだ。
するとお姉さんはその場でしゃがみ僕の目線に合わせる(段差分もあってまだ見上げる程高いが)。
「もしかして聞こえてた?」
そう言いながらお姉さんはピアノを指差している。
「――うん」
僕は小さな声で返事をしつつ顔も頷かせた。
「そっか。でもだよね」
うんうんと1人で納得したように頷くお姉さん。
「外は暑いでしょ?何か飲む?って言ってもオレンジジュースぐらいしかないけど」
「飲む」
暑さで喉が渇いていたこともあるがやはり子どもはジュースに弱いらしい。それにお姉さんの言う通り暑かった。
「じゃあそこからでいいから上がっておいで」
立ち上がったお姉さんが開けてくれた道を通りサンダルを脱いだ僕は家へ上がった。
* * * * *
あの頃の面影はあったが手入れのされていない小庭は草が伸び放題で時の流れを感じた。
「すっかり草も伸び放題。まぁ誰も手入れしてないから当然だけどね」
バイクを止めた夏樹さんは僕の横に並び同じく小庭を眺めながらどこか寂しげに一言そう言った。
「誰も住んでないならしかたないですよ」
今でもあの大窓から家に入る幼き自分が見えそうな程に小庭の光景は記憶に深く刻まれていた。
「それじゃあ久しぶりに中へどーぞ」
夏樹さんは僕の肩を1度ぽんっと叩くとホテリエのような流れる動作で手をドアに向ける。そしてそのままドアまで歩くと鍵を取り出し開いてくれた。歓迎するような彼女の表情を見てから歩き出し玄関へと足を踏み入れる。
そしてあの時と同様にまずは一言。
* * * * *
「お邪魔します」
普段母に言われているようにちゃんと挨拶は忘れない。
だがしかし、知らない人の家へこうも易々と上がるのはいかがなものか。そう思いもするがあんなに優しそうなお姉さんをどうして疑えようか? それに今まで灼熱地獄にいた僕がクーラーの効いた―しかもジュース付き―の部屋をどうして拒めようか? いや、無理だ。
僕は家に上がると子どもながらにして楽園というものを知った。帽子を脱ぎ全身で冷気を浴びている後ろで窓が閉まる。
「ちょっと待ってて」
お姉さんはそう言うとどこかへ行ってしまった。ピアノの傍で1人残された僕はどうしていいか分からずただただ佇む。
だがお姉さんはすぐに戻って来た。片手にタオルを持って。
「これでちゃんと汗拭きな」
タオルを受け取った僕は冷え過ぎた汗を拭き取り始める。顔や腕などしっかりと。
その間にお姉さんは奥にあるキッチンへ。
「終わったらこっち」
冷蔵庫から出した紙パックを傾けオレンジジュースを注ぎながら声だけを僕の方に飛ばした。
それに従い汗を拭き終えるとタオル片手に僕はお姉さんの元へ向かう。僕が到着するとほとんど同時に2人分のジュースを入れ終えたお姉さんは紙パックを冷蔵庫へ戻した。
「あの...これ」
僕はどうすればいいかと尋ねるようにタオルを差し出した。
「それじゃあ君はこれをテーブルまでよろしく」
タオルを受け取ったお姉さんは並んだコップを軽く指差すと横を通り行ってしまった。
僕はそんなお姉さんの背中を見送ると言われた通りコップをそれぞれの手で持ち零さないように慎重に運んだ。ジュースに集中しながら1歩1歩落ち着いて足を踏み出していく。その重大な任務をテーブルに置いたコップから手を張すことで成し遂げた僕は1人満足気に頷いた。
「ありがと」
集中していたせいか満足感に浸っていたせいか足音に気が付かなった僕の頭をお姉さんは後ろからぽんと撫でるように叩いた。
そしてそのままソファへ倒れるように座る。
「君も座りなって」
言葉と共に隣を軽く叩き、僕は脚を組んだお姉さんとテーブルの間を通って隣に腰を下ろした。
そんな僕にお姉さんはテーブルから取ったコップの1つを差し出す。
「ありがとうございます」
「いーえ。でも君はあれだ。礼儀がなってるね。きっと親の躾がいいんだろうね」
お姉さんはそう言うと僕のコップに自分のコップをコツンとぶつけ「乾杯」と一言言いジュースを飲み始めた。
その姿を少し見てから僕も「いただきます」と小声で言って冷たいジュースを飲む。キンキンに冷えたジュースは呑み込んでから胃に行くまで――いや、胃に行ってからもその存在感を存分に放っていた。
そして言うまでもないが甘くて美味しい。
「君、名前は何て言うの?」
ジュースを一気に半分程飲んだお姉さんは僕の方に少し体を向けてからそう尋ねた。
「中西 真人って言います」
「まさ君か良い名前だね。私は安城 夏樹」
「なつきお姉ちゃん」
僕は確認するように呟く。
そしてその声は当然ながら隣にいた夏樹さんにも聞こえていた。
「おっ。偉いね。ここでおばさんなんて言おうものなら速攻で家から追い出してたかも」
* * * * *
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