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 何も変わってないソファを眺めながら僕はあの時の会話を思い出していた。  今思えば――もしかしたら僕はあの時、年上の女性との接し方を1つ学んだのかもしれない。 「何も変わってないでしょ?」 「そうですね」  ソファもテーブルも棚も全てがあの日のまま。だけどどれも埃を被り発掘された遺跡のように人の気配はしない。時間に取り残されたもしくはあの頃のまま時間だけが止まった――そう表現するのが妥当な気がする。 「いやーでも懐かしいなぁ。なぜか君はいつも玄関からじゃなくてここから家に入って来てたっけ」  後ろを通った夏樹さんを追い視線を向けると彼女は大窓の前で立ち止まった。  そしてカーテンを開けあの日のように人1人分程窓を開ける。だけどあの日とは逆で今度は外から冷たい風が吹き僕の顔を撫でた。同時に風が運んできた夏樹さんの香りはほんのり甘い。  初めてここに来た日以降、「いつでも来ていいよ」という夏樹さんの言葉に甘えそれから僕はよくここへ顔を出すようになった。だけど毎回決まってこの大窓から入って来ていた。別にここを玄関だと思っていた訳ではないがなぜだろう。ただ僕にとってそれはルーティンのように自然な行動だったことだけは良く覚えてる。 「あっ。そう言えばあの頃はさ。『夏樹お姉ちゃん』なんて呼んでたのに久しぶり会ってみたら『夏樹さん』だもんね。何だか君の成長を感じるなぁ」  僕は夏樹さんの言葉を聞きながら彼女の1歩後ろまで足を進めた。 「なんかこうママからお母さんって呼び方が変わる感じっていうのかな。違う気もするけどそれに似た何かだよね」 「いやもう僕もお姉ちゃんって呼ぶ歳でもないかなって。あと少し恥ずかしいというか照れるというか」 「――私は別にいいけど?」  後ろを振り返った夏樹さんは少しだけ首を傾げて見せた。意識しているのかしてないのか微かに口元を緩めながら。  そんな彼女の仕草や表情から僕は少しだけ目を逸らした。 「それに(それに)」  それは丁度僕が口を開いたタイミング。まるで前もって掛け声をして合わせたように完璧に被ったせいだろう――夏樹さんに僕の声は届かず(いや、それで良かった)彼女はそのまま話し続け僕は黙った。 「私、一人っ子だからさ。ちょっと弟ができたみたいで嬉しかったっていうのもあるかな」 「そう――だったんだ」  正直に言って何となくそんな気はしていた。だけど実際に言葉にされて言われるのとでは全く違う。もう気の所為などという言葉で目を隠すことは出来ず嫌でもチラつく。  しかし彼女の記憶(なか)の僕は小学生で止まってしまっていた。それは不幸中の幸いなのかもしれない。まだそこには一筋の光が差し込んでいる。 「今でも弾いてる?」  その言葉の後ろで椅子を引く音が聞こえた。僕は返事より先に彼女へ視線を向ける。 「たまに、ですけど」 「それは良かった」  微かに頷く夏樹さんから今度はピアノに視線を移動させる。あの頃はとても大きくまるで巨大怪獣のような迫力を感じていたが、それと比べてしまうと今ではそうでもない。  そんな風に懐かしみつつ自分の成長を感じながらピアノを見ているとあることに気が付いた。それはこの時間に取り残されたような家の中で唯一このピアノだけは自分の時を刻んでいるということ。埃は被ってないしあの日のように体には艶がある。廃れた部屋の中でまるでひとりスポットライトでも浴びるように綺麗なままだった。 「このピアノ...」 「そう。これだけは綺麗にしてあげたんだ」  頭を撫でるようにピアノへ手を伸ばした僕の傍で鍵盤蓋を開けた夏樹さんは適当に1音鳴らした。少し高い音がモールス信号でも送信するように何度か部屋に響く。その後に連なった3音が2度ステップを踏んだ。何年かぶりに外へ出たであろう音達は陽気に僕の周りを回るとそのまま薄暗い部屋へ消え行った。  音が消えその薄暗さのように静まり返った部屋。夏樹さんの大きく息を吸う音が微かに聞こえた。そんな彼女の横顔を見ながら僕は演奏が始まることを察し1歩後ろに下がる。そして鍵盤に顔を落とし細長く綺麗な指を乗せた夏樹さんを見つめ、ただ静かに最初の音を待つ。  すると僕の期待に応えるかのように彼女の手は美しく上がり88の内の1つへ迷いなく落ちていった。その瞬間、邪悪な闇を斬り裂く聖剣の一振りが如く勇猛果敢に飛び出した音は沈黙を斬り捨てる。  演奏は湧き上がるように始まった。耳馴染みのある旋律はあっという間に僕を包み込み、気が付けば彼女らだけに集中しようと瞼を下ろしていた。  多分それは癖なのだろう。夏樹さんは最初の部分だけリズムを整えるように鼻歌でも同時に演奏する。ピアノに負けず劣らずの綺麗な鼻歌とピアノの歌声によるセッションのようで僕はそれが好きだ。互いの手を取り合いダンスでも踊るみたいに重なり合った音達はとても心地いい。  だけど名残惜しいが鼻歌は段々と小さくなっていき最後はピアノと別れを告げる。  そこからはピアノだけによる演奏の始まりだ。哀愁漂うが絶望に閉ざされたわけではない夕焼けのような旋律。俯いてはいるが確実に前へ足は踏み出している。僕が毎回この曲を弾く時に思い浮かべる演奏だ。まるで背中を追うようにそして真似るように毎回弾く姿も思い浮かべている。この記憶は僕にとっての楽譜。  だけど今回の演奏はどこか希望に満ちている気がした(気のせいかもしれないが)。記憶の演奏よりも明るい気がする。  そんなことを考えながら僕はそっと目を開けた。するとそのタイミングを見計らったように窓から風が吹き込み夏樹さんの艶があり長く滑らかな黒髪が靡く。体を揺らしながら演奏する彼女の横顔は微笑みを浮かべていた。  その光景に僕の中の記憶が引っ張り出される。彼女が初めて演奏を見せて、聴かせてくれた時のことを。  夏樹さんが滑らかに指を動かすのに合わせ冷気のように部屋へ広がる旋律。時折、眉を顰める彼女を窓から差し込む陽光が祝福するように照らした(祝福――そう表現するのが憚れない程にその光景は幼いながらにも神々しく感じ、そして何よりとても美しかった)。すごい。同時に知識などは全く無かったが演奏に対して純粋に憧憬の念を抱いたのも覚えている。  今でも鮮明にその光景のみならず演奏までも完璧に思い出せるのはそれだけ印象深く心に刻み込まれている証だろう。  だが――だからこそ記憶の演奏と今、目の前の演奏を嫌でも比べてしまう。この曲にしては(あくまでも個人的な印象だが)少しばかり明る過ぎるしスキップでもするようにちょっとアップテンポな気がした。素人が何言うか。そう言われればそうなのだが彼女の演奏するこの曲に関してだけに絞ればあながち間違えではない。少なくとも僕はそう思うし実際そう感じた。  だけど今更言うまでもなく僕は彼女の――夏樹さんの演奏するこの曲が大好きだ。  そして愛しの相手に触れるかのように優しいタッチの4つ音で終わりを告げた。その余韻まで余すところなく味わい尽くした後、夏樹さんはゆっくりと顔を僕の方へ向ける。 「これは――クライスラー/ラフマニノフ愛の悲しみ」  言葉の後にあの時と同じように零すような笑みを浮かべた。 「って昔教えてあげたのが懐かしい。最近は弾けてなかったけど意外と弾けるかも」  そう言いうと椅子から立ち上がり差し出すように手を向けた。 「じゃあ次は君の番。どれくらい上手くなったか聴いてあげよう」  腕組みをした彼女の表情は師匠のそれだった。僕はあまり自信はなかったが全く弾けなかった頃から聴かれてることを考えれば今更という気持ちでピアノの前に腰を下ろす。そして夏樹さんの気配を後ろに感じながら両手をそっと鍵盤へ。  頭ではいつものようにを思い浮かべた。そして何回弾いたかも分からないその曲を弾き始める。楽譜をなぞるように彼女の動きへシンクロさせ――出来るだけ近い演奏を心掛けた。彼女のように上手い演奏をするために。  だが演奏を始め間もなく僕は普段ならしないような場所でミスをしてしまった。しかもその動揺で思わず弾く手を止めてしまう。完璧といかなくとも良い演奏で良い所を見せたかったがもしかしたらそれが枷となったのかもしれない。  僕は後ろを振り向き彼女を見上げた。 「もう1回いいですか?」 「どーぞ。でも君はあれだ。上手くなったけどね。まぁ、私もプロじゃないし教える側でもないしなんならただピアノが好きでそれなりに弾けるってだけだけど」 「何かってなんですか?」 「さぁ?分からないから。何か」  肩をすくめる夏樹さんを見ながら僕はその何かは技術的なものかなと考えていた。  そして再びピアノと向き合う。 「そういえばどうしてまたここに?戻ってくるんですか?」  僕は訊こうとして忘れていた質問をふと思い出し始める前のほんの雑談として尋ねた。 「いやそうじゃないけど。この家売っちゃうらしいからさ。置いてあった荷物――って言ってもちょっとだけど。それを取りに来たってだけ。あとはついでに君にも会っていこうかなってとこ」 「売っちゃうんですかここ。なんか寂しいですね」 「でも誰も住まないのにずっと放置って訳にもいかないから。仕方ないかな」 「そうですよね」  理由を聞いたところで僕は演奏を始めようと鍵盤に両手を乗せる。 「それと、私結婚するんだよね」 「えっ?」  その言葉を聞いた瞬間。ベートーヴェンによる運命の弾き始めのような重い感覚がずっしりと僕の体に圧し掛かった。まるで分厚くどす黒い雲によって陽光の最後の一筋が完璧に絶たれたような気分。彼女はそんな僕に気づかず何か続きを話していたがそれを聞く余裕は全く無い。 「まぁそれは置いておいて早く弾いてみなよ」 「あぁ――うん」  辛うじて聞こえたその言葉に対しただの音として言葉を発した僕は鍵盤に視線を落とす。だが目では見ていても今の僕に鍵盤は見えてなかった。なのにそっと指は動き始める。演奏を覚えていた体が独りでに弾き始めた。  それ故にいつも思い浮かべるはずのは無く頭は真っ白。色々な事を考えているようで何も考えきれてない。それはまるで音符の無い楽譜のようだった。いや、それどころか五線譜すらないただの白紙かもしれない。  空っぽな頭のまま始まった演奏だったがしばらくして少し落ち着きをを取り戻した。何か考えられる程度には。  よく考えてみればこれは必然的なことなのかもしれない。過去を振り返ってみても僕は一体何度その想いを口にしただろうか? 一度もない。いや、もし仮に口にしていたとしてもそれは本来の意味とは違う解釈をされてしまうのは目に見えて分かる。  だけどそれはピアノを弾かなければ音は鳴らないのと同じことだ。それに音が無ければ演奏は聴かせられない。だから演奏も聴いていない彼女に感想を求めるなんて無理な話だ。  でもこんなことを考えたところで何も変わらないのは分かってる。過去は所詮、過去。決定事項を変えることはできない。それに僕はいつからか薄々気が付いていたのかも。こうなることを。いや、僕が思い描いた通りにはならないということに気づいていたのかもしれない。だから最初は青天の霹靂に出くわしたかのように衝撃を受けたが今ではどこか納得してる。  逃避行したいと思う程ではないが僕はきっとあの初めて演奏を聴かせてもらった時から(もっと奥底の無意識下ではもしかしたら塀を覗いた時からかもしれない)夢の中にいたのかもしれない。  それが彼女の言葉で季節が変わりゆくように覚めていった。だけど――だからこそ僕は新たな夢の世界へ足を踏み入れることが出来のかもしれない。  そう考えるとあながちこれは単なる光明無き絶望という訳でもなさそうだ。  でもやっぱり胸は締め付けられる。気が付けば僕は鍵盤へ視線を落としながら眉を顰めていた。  こんな夏と冬の交差する秋のような気持ちで弾くのは初めてだ。もしあの時の彼女も同じ気持ちだったのだとしてら一体誰を思い浮かべていたのだろう。いや――そんなことはどうでもいいか。  僕はふと窓外の空へ顔をやった。終盤に差しかった指は動かし続け雲の多い青空を見上げる。冷たい空気の中で見上げる空は他の季節と変わらず青かったがどこか悲しげだった。それは雲が太陽を隠してしまっているのも理由のひとつかもしれない。  だけどよく見ればその雲から微かに陽光が漏れている。晴れ渡っている訳ではない曇り気味の空から差す光。  そして窓の隙間から吹き込んだ寂しげな風は僕の顔を包み込むように撫でた。その時――微かに春の香りがしたのはなぜだろうか?  そんなことを思っている間に指は最後の音を奏でる為に鍵盤の上を移動し、僕は視線を落とした。最終的に零れてしまった分の悲しみを拾い上げるようにそっと、涙を拭いてあげるように優しく――僕は最後の旋律でこの曲の終わりを迎えた。 同時に名前をもう一度思い出し2別れを告げる。次は相棒とも呼ぶべき存在と出会えることを願いながら。  そして僕は再び青空へと視線を戻す。最後の旋律は風に乗り青空まで舞い上がると、そこにのせた想いと共に溶けて消えた。この4分35秒という短くも長い時間の中、指先に乗せられた感情の重みで奏でられた旋律と同じように。  そして僕が演奏を終えた後に訪れた数秒の沈黙を破ったのは1つの拍手。それはホールを揺らす程のものではなかったが僕にとってはそれと同等の価値があるものだった。 「すごいじゃん!さっきとは全然違うし、すごい良かったよ」 「ありがとう...ございます」  少し照れたせいで言葉に詰まってしまう。 「でも急になんで?」 「んー。―――なんででしょうね」  理由は分かっていたが僕はあえて口にはしなかった。多分、夏樹さんの演奏が少し変わったのと同じことで技術的な部分(それも技術の1つかもしれないが)ではないところによる変化が影響してるんだと思う。  だけどその変化の理由が理由なだけに僕はあえて知らない振りを選んだ。  他の人がどう思うかは分からないが僕はこれでいい。このままこれは胸の宝箱に仕舞っておく。これからもまだ少し思い出して気分が沈んだりすることもあるかもしれないけどその時はこの曲に頼ろうかな。雲が流れていき快晴になっていく青空を見上げながら聴くのも悪くないのかもしれない。  それからは夏樹さんの別の演奏を聴かせてもらったり連弾してみたりと昔のようにピアノを楽しんだ。その後に夏樹さんの予想以上に多かった荷物の運び出しを手伝い(結局多過ぎてバイクでは運べなかった為、夏樹さんが母に車を借りて一緒に郵便局へ)、その時を迎えた。 「それじゃあまたね。大きくなったまさ君に会えて良かった」 「僕も久しぶりに夏樹さんと会えて良かったです」 「ちゃんんと勉強も部活も頑張るんだぞ。あっ、あと恋愛もね」  夏樹さんは最後に小声で「何かあったら相談に乗るよ」と付け足した。僕は少し複雑な気持ちになったがもちろんそれを言うつもりはない。 「努力はします」 「頑張ってね。もちろんほどほどにだけど。――それじゃあそろそろ行くよ。私はもう少ししたら県外に行っちゃうけど、機会があったらまた会おうね」  県外に行っちゃうのか。それは初めて知った。でももしかしたら結婚報告の後に言ってたのかも。僕は全く聞こえてなかったけど。 「うん。また」  僕の返事を聞くと夏樹さんはヘルメットを被りバイクに跨った。エンジンのかかる音が鳴り響く。 「夏樹さん」  エンジン音の中、彼女の名前を呼ぶと顔がこちらを向きシールドが上がった。  1度だけ整えるように呼吸を挟む。 「―――お幸せに」 「ありがとう」  片手を上げながら目がニッコリと笑った。そして再びシールドを下げると夏樹さんはバイクの音共に走り去っていった。  これで夏樹さんとは2度目のお別れ。だけど前回と違い今回は連絡先の交換もしたし、何より変化があった。大きな変化が。  もしかしたら僕はあの瞬間からずっと演奏を続けていたのかもしれない。タイトルも知らずにずっと。でもそれをやっと弾き終えた。タイトルを確認し、どんな曲かも知って、やっと最後の旋律を弾き終えたのかも。ならもう鍵盤蓋は下ろし屋根は閉め舞台を下りてしまおう。  次演奏する曲はもっと明るいものだと良いな。
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