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事務所の掃除をしていたら部屋の隅に家主のいなくなった蜘蛛の巣を見つけた。ところどころ砂や埃が被さり、ふわふわと風に揺れているその空き家に、一匹の蛾が未練がましくも絡まっている。
私は掃除機の持ち手を握りしめたままその場に立ち止まり、その蛾の死体をじっと見つめる。家主もいないのになぜ抜け出せなかったのだろう。
なんだか女々しくて、嫌いだ。
だって、これじゃまるで……。
「……わたしみたいだ」
「ん?」
思わずそんな言葉が口からこぼれた。しかもタイミング悪く店長に聞かれた。店長はこういうときに限ってやけに耳が良くて、鬱陶しい。
「亜美ちゃん、どないしたん?」
「なんでもないです」
「あ、そう」
いちいち反応しないでほしい。馴れ馴れしく笑顔で近づいてくるその様子に不快感が増す。
私はその巣を、哀れな蛾の死体ごと躊躇なく掃除機で吸い上げた。
叶いもしない、行き止まりのような関係を続けていた学生時代。終わりを迎えてから5年が経った今も、結局わたしはあの人を忘れられずにいる。
“好きだよ、亜美”
嘘ばかりついていた、あなた。
好きじゃないくせに。
愛してなんか、いないくせに。
抱きしめられると胸が苦しくて。
そばにいないと狂おしくて。
求められているのは身体だけだって、分かってるのに抜け出せない。
“好きだよ、亜美”
さよならを告げたのはわたしのほう。精一杯の強がりを言って、あの関係を断ち切ったはずのに……。
やっぱり、さっきの蛾の死体はわたしだ。
家主はもういないのに絡まったふりをして、いつかまた食べてもらえるんじゃないかと、心のどこかで期待している。
いまだにあの人のついた嘘に追いすがり、あの日々の思い出を大事そうに抱きしめている。
……夜を待っている。
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