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開店と同時に客が来て、「こんな朝からどれだけ生き急いでるんだよ」と心の中で悪態をつこうとしていた矢先のこと。
……時が止まった。
なにが起きたというのだろう。店の入り口で、スーツ姿のあの人が驚いたような表情で立ち尽くしている。ついにわたしの頭がおかしくなったのだろうか。こんなところに、あなたがいるはずないのに。
「いらっしゃいませ、どうぞこちらに」
店長が空気も読まずに彼を店内に迎え入れ、わたしの前に着席させた。おとなしくわたしの前に座るあなた。
店長はそれから急に忙しそうな素振りを見せ、「ほな、頼んだで」と言いながら事務所の奥に引っ込んでいった。なんなの、本気で腹が立つ。
「驚いたな」
「……」
「まさか、こんなことが」
「──お部屋探しでしょうか?」
彼の言葉を遮るように、わたしはなるべく表情を変えずに事務的な質問をした。
「……あ、はい」
「承知致しました。ではまずこちらの用紙にご希望の内容を記入頂き……」
動揺する心を抑えつつ、マニュアル通りの対応をこなす。これでいい。取り乱すな。もう終わったことなんだ。何が起きたかは分からないが、これは奇跡なんかじゃない。ただの偶然、悪夢だ。彼だって、もう忘れたいはず。このまま、時が経つのを待てばいいんだ。
「……亜美、あのさ」
職場の住所まで書き上げたところで、彼の手が止まる。顔を上げて、わたしのことを見つめてくる。ダメだ、その先は。わたしはもう過去の女。あなたとの関係は、あの夜は……。
──もうお互いに忘れたことにしたのだから。
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