15人が本棚に入れています
本棚に追加
「どうなさいました?」
「俺、結婚した」
「……え」
「実は子供も生まれたんだ」
「それは、おめでとうございます」
「でも今年から転勤でさ」
……なんだ、なにが言いたいの?
「そうですか」
「まさか、亜美に会うなんて」
「……」
「すごく嬉しいよ、ははっ」
なんだろう、不思議。
……空虚だ。何も感じない。
急激に喉が渇いた。
水が飲みたい。
心も砂漠のように渇いている。
この人はなにが言いたいのだろう。
何を、期待しているのだろう。
なぜ、わたしに会話を求めるのだろう。
結婚した、おめでとう。
子供も生まれた、おめでとう。
転勤した、それは残念ね。
まさか亜美に会うなんて……?
…………?
「お客様、用紙は書き終わりましたでしょうか」
「亜美、せっかくだし今度どこかで」
「お客様」
「俺、こっちだと独りだからさ」
「ねえ」
「独りだと、暇じゃん? だからさ」
「……」
「ははは」と薄っぺらい笑みを浮かべて、わたしを見つめてくる目の前の下品な男。
わたしの愛したあの人は、こんなのだったか。
こんなにも下卑た愚かしい男だったか。
いや、違う。こんなのじゃない。
……変わってしまった。
こんなくだらない蜘蛛の仕掛ける巣なんかに、わたしが囚われるわけも無い。興味すら抱けない。
「帰って」
「え?」
「帰れ」
「亜美、もしかしてまだ……」
「──帰れッ!!」
気づいたときにはわたしは席を立ち上がり、虚しさと怒りのあまり大声で叫んでいた。店長が事務所から慌てて走ってくるのが分かる。
目の前のその人はしばらくわたしの顔をまじまじと見つめたあと、不可思議そうな表情を浮かべてそそくさと店を立ち去って行った。
青白く冷めた体温。
胸も震えない。
からからに乾ききった心。
逃げていく彼を視線で追ったその先、入口と天井の間に新しい蜘蛛の巣を見つけた。小さくて貧弱そうな蜘蛛が、いそいそと惨めな巣を作っている。
「……馬鹿じゃないの」
わたしは、家主のない蜘蛛の巣を、哀れな蛾の死体を、掃除機で吸ってしまったことを……。
──心の底から後悔した。
〈fin.〉
最初のコメントを投稿しよう!