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神々の物語
トゥ・ダナ・トゥは神様である。
女性型の神様なので、いわゆる女神ということになるだろう。しかし、この世界において、彼女が人々から崇め奉られることは滅多にない。
そもそも、トゥ・ダナ・トゥは、人々から存在を認識されていないのだから。
トゥ・ダナ・トゥは、裏方仕事に従事する神様たちの一人だ。だから人々の前に出ることもなければ、民間伝承で語られることもなかった。
それでも、彼女は重要な役職に就いている女神だ。
いわゆる転生課の、翻訳担当係。それが、神々の世界における、彼女の仕事場だった。
転生課、つまり、別の世界からこの世界へとやってくる転生者に関わる仕事だ。中でも彼女は、翻訳担当係。つまり、別の世界の人間がこの世界の人間と普通に会話できるようにする、そのための『縁の下の力持ち』だった。
転生者の脳内には、こちらの言語とあちらの言語が瞬時に無意識のうちに翻訳されるようなシステムが植え付けられている。この自動翻訳のために、二つの世界の言語を詳細に研究して『脳内辞書』を作り上げたのが、ほかならぬトゥ・ダナ・トゥなのだが……。
最近、翻訳トラブルが相次いでいるらしい。
今日もトゥ・ダナ・トゥは、上役の部屋に呼ばれていた。
真っ白な広い空間の中、ポツンと置かれた机を挟んで、彼女は上司と対面している。ちなみに、上司は椅子に座っているのに、彼女は立ったままだった。
「ねえ、トゥ・ダナ・トゥ。本当に、君の設定した辞書、間違ってないんだよねえ?」
「はい、ボス。それはもう。自信を持って、保証いたします」
トゥ・ダナ・トゥの言葉は、上司には、安請け合いにしか聞こえない。
「まあ、そこまで君が言うなら……」
上司は、全く心にもない言葉を口にしてから、本題に入る。
「でもねえ。例えば、ちょっとこれを見てくれないかな? 僕の甥っ子が担当した転生者の、昨日の夜の記録なのだけど……」
トゥ・ダナ・トゥに対して上司は、観察係から借りてきた記録映像を見せる。
今回は、翻訳が正しいのかをチェックする目的だから、あえて非翻訳モードで――転生者の元の世界の言葉がそのまま聞こえるモードで――映像を流す。
このモードでは、同時に、トゥ・ダナ・トゥ作製の辞書による『脳内翻訳』が字幕表示されるようになっていた。
「今まで私、月を見て『美しい』なんて考えたことなかったけど……。こうして『お月見』をしていたら、そんな気分になってきたわ」
『ウン。ツキガキレイダネ』
(字幕:うん。愛してるよ)
「えっ?」
『ネエ、シェリー。ソロソロ、タベタイナ』
(字幕:ねえ、シェリー。そろそろ、性的関係を持ちたいな)
「……!」
『ケーキヒトカケラ、ダヨ』
(字幕:すぐ終わるような、たやすいことだよ)
続いて女性が立ち上がって、男性を叩いたところで、上司は記録映像をストップした。
「ここの会話。少し話が噛み合ってないように思えるんだけど……。本当に、大丈夫? 辞書の設定ミスで、翻訳が間違っていた……なんてことないよね?」
「何を言うんですか!」
いくら相手が上役とは言え、トゥ・ダナ・トゥは、反論すべき点には反論する。それが翻訳職人としての、彼女のプライドだった。
「そこまで言うなら、一語一句、解説して差し上げましょう」
「ああ、頼む。あくまでも僕は転生課のまとめ役であって、翻訳関係は専門外だからねえ」
「では、まず前置きとして……」
最初にトゥ・ダナ・トゥは「そもそも言語というものは、一対一では対応していない」と言い出した。「だから自分は、うまく意訳している」と、胸を張って自慢した。
「意訳、ねえ……」
気になったポイントを上司は小声で口にしたが、それには気づかず、トゥ・ダナ・トゥは話を続ける。
「ボスもご存知のように、転生者は『地球』という世界からやってきます。特に日本という国から来る者が多いのですが、言語学的に見れば、日本は『地球』の中では、とてもマイナーな国です」
トゥ・ダナ・トゥは、あちらの世界には複数の言語がある、という点を指摘する。だから翻訳辞書を作る仕事は大変なのだ、と言いたいらしい。
「日本の者は日本語という言語を使うのですが、あの世界でメジャーな言語は英語です。日本の者だって、使いもしないのに、成人までに一通り英語を学ばされるくらいです」
「えーっと……。その日本語とか英語とかって話、今、必要?」
「必要です」
上司の言葉を、トゥ・ダナ・トゥは切って捨てた。
「だって、この記録映像に出てくる転生者。彼は、日本の者でありながら、英語にも深く関わる仕事に従事していました。だから脳が一般的な日本の者とは違っていて……。彼の脳内辞書を設定する際、それも考慮して調整しておきました」
トゥ・ダナ・トゥは、鼻高々という顔をする。
むしろ上司は顔をしかめたくなったが……。
「うーん。二つの言語を操る人間だから、両方の言語を考慮した翻訳辞書……。別に特別扱いってわけじゃなく、まあ、やむを得ない措置かな」
「そうです。普通のことをしたまでです。依怙贔屓ではありません」
トゥ・ダナ・トゥは、少し自分の行いを正当化するようなことを言ってから、話を続ける。
「では、その点を踏まえた上で、今回の会話を解説してみましょう」
これを聞いて上司は思った。ようやく本題に入ってくれそうだ、と。でも迂闊な発言をして、話が逸れたら嫌だから、敢えて何も言わなかった。
「まず『ツキガキレイダネ』ですが……」
これは直訳すると「月が綺麗だね」となるのだが。
実は日本語の「月が綺麗」は、英語の「I love you」をオブラートに包んだ訳語としても知られている。「I love you」はストレートに露骨に訳したら「愛しています」だ。
「だから、今回の二人のように、ロマンティックなムードが発生した場合に限り。『ツキガキレイ』と口にしたら、こちらの言葉で「愛している」となるように、サービス設定をつけておきました」
どうだ、凄いでしょう。そんな顔をするトゥ・ダナ・トゥ。
「そのサービスって……」
「ああ、ボス。心配しないでください。『ロマンティックなムード』というのは、男女間に限定しません。たとえ男同士であっても、大丈夫です」
いや、そこを心配したわけじゃない! そんなツッコミの言葉をグッとこらえて、上司は話の続きを促した。
「次は『タベタイ』が『性的関係を持ちたい』……。ああ、これは英語云々は関係ないですね。日本語のスラングです」
直訳すれば『タベタイ』は「食べたい」。ただし、女性に対しての「食べる」だけは「寝る」とか「抱く」とかで置き換えることも出来る。だが「寝る」も「抱く」も意味が広いから、その場のムードを考慮して「性的関係を持つ」と具体的な言葉にしたのだという。
「これもロマンティック・サポートの一環ですね。凄いなあ、私の作った辞書」
自画自賛するトゥ・ダナ・トゥ。
ここまで聞いた時点で上司は「とりあえず、その『ロマンティック・サポート』の機能はオフにした方が良さそうだ」と思った。トゥ・ダナ・トゥの意訳レベルが高すぎる、と気づいたのだ。
だが、今は話に水を差すことはせずに、先を促した。
「最後は『ケーキヒトカケラ』が『すぐ終わるような、たやすいこと』……。あら、ちょっと長めの、補足的な訳になっていますね」
でもわかりやすい方が親切設計でしょう、という顔をするトゥ・ダナ・トゥ。
これも最初の例のように、日本語と英語の両方が関わってくる。ある意味、この転生者に特有のケースだ。
単純に訳せば『ケーキヒトカケラ』は「ケーキひとかけら」だが、英語にすると「a piece of cake」。この転生者ならば絶対そういう意識もあったはず、とトゥ・ダナ・トゥは主張する。
これは日本語の「朝飯前」に相当する慣用句なので「ケーキひとかけらなんて一口で済む」「朝飯を食べる前に終わる」のニュアンスをなるべく正確に伝えるように「すぐ終わるような、たやすいこと」とした……。
「そこまで考慮した訳なのですから……。やっぱり凄いですね、私の辞書」
トゥ・ダナ・トゥは満足そうに、満面の笑みを浮かべた。
「わかった、わかった。もうわかった」
吐き捨てるように、上司は叫んでしまう。思わずシッ、シッと手を振りながら。
そう。
上司は、事態を把握したのだ。
なぜ二人の話が噛み合っていなかったのか。
当たり前だ
直訳すればよかったのに、余計な意訳をするバカがいたせいだ。そういう翻訳辞書を作り上げたバカのせいだ。
問題点は理解できた。対処法も単純に「意訳厳禁!」でいいだろう。
「では、もう私は退出してよろしいですか?」
上司の胸の内など知らずに、トゥ・ダナ・トゥは、微笑みを浮かべたまま尋ねた。
「ああ、構わない」
と言いかけて。
「いや、ちょっと待って。せっかくだから、この機会に一つ聞いておきたい」
上司は、そう何度もトゥ・ダナ・トゥと会いたいとは思えないのだ。
「これは半ば雑談なんだが、やはり翻訳に関わることで……」
「何でしょう? 私の専門分野でしたら、何でもお答えしますよ」
自信満々のトゥ・ダナ・トゥに対して、上司は話を持ち出す。
「そう言えばさ。姪っ子が担当した転生者の口癖が『ムノウナハタラキモノハジュウサツスルシカナイ』らしいんだけど……。これ、どういう意味?」
その転生者は、いつも独り言として口にしているので――この世界の人間が周囲にいないときに発する言葉なので――、翻訳されずに生の言葉のままで記録されているらしい。翻訳字幕すらつかずに。
「ああ、それでしたら、あちらの世界の有名な慣用句ですね」
トゥ・ダナ・トゥは得意げに説明する。
直訳では「無能な働き者は銃殺するしかない」。つまり……。
「要するに、能力もないのに頑張る奴は、役に立つどころか逆に、殺したくなるくらいに迷惑だ……。そんな意味ですね」
ここでトゥ・ダナ・トゥは、ホホホと笑った。
「それにしても……。そんな言葉が口癖になるなんて! その転生者、よっほど毎日『無能な働き者』に困らされてるのでしょうね」
おかしくてたまらない、という雰囲気のトゥ・ダナ・トゥを見て。
上司は、頭を抱えたくなった。
彼にとっては、トゥ・ダナ・トゥこそが、頑張りすぎて余計な翻訳機構を転生者の脳内に埋め込んだ『無能な働き者』なのだから。
なお、余談になるかもしれないが。
ナッツとシェリーの二人は、翌日、仲直りしたらしい。
お互い納得いかない部分は残りながらも、大人として――酒の席での誤解として――、水に流すことにしたそうだ。
ただし、二人の間で『お月見』に関する一切合切が、以降、タブーとなったという。
(「月見ケーキ ――翻訳係が無能女神だった件――」完)
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