2-11 君の欠片を集めても

2/8
100人が本棚に入れています
本棚に追加
/60ページ
 ここはどこもかしこも驚くほど片付いている。大変ありがたいことに、俺は先にお風呂をいただいたわけだが、浴室は濡らすのを躊躇ってしまうほど綺麗だった。あそこにはカビも水垢もお住みでない。驚愕してしばらくのあいだ、ピカピカの水栓と見つめ合ってしまった。  当然のように脱衣所も洗面台も、トイレもホテル並みに清潔だった。もしや潔癖症か……? とおそるおそる岸田の様子を伺っていたが、特に使い方を指定されることも注意されることもなかった。  岸田いわく「掃除したばかりだから、たまたま綺麗なだけだよ」とのこと。そんなわけない。  ここ、リビングにあるのも最低限の家具だけで、すっきりとシンプルにまとめられている。ただひとつだけ、階段下のオープンラックにびっしりと詰められた絵本には、岸田らしさをいきいきと感じて思わず笑みがこぼれた。 「……ん?」  ラックに並ぶ色とりどりの背表紙を眺めていたら、ふとわずかに空いているスペースに目がいった。絵本を支えるブックエンドの隣に、木目調のフレームがひとつ飾ってある。  俄然気になって、近くへ寄ってみた。  写真だ。どこか広い公園で撮られたものだろうか。大きな樹を背景に、三人の人物がカメラに笑顔を向けている。  そのうちの二人——女性と子供が、亜麗沙と岸田であることはすぐにわかった。亜麗沙はまったく見た目が変わっていない(つまり現在の亜麗沙が、歳を取っていないように見える)し、岸田は小学校低学年くらいのようだが、既にお顔が美しい。  亜麗沙は後ろから岸田の肩にそっと手を置いて、とびきり幸せそうに笑っている。何度か俺に見せてくれた、隙のない上品な微笑みとは違う。少し歪で、不器用で、幸せをぐっと噛み締めているような笑顔だ。  問題は、そんな亜麗沙を包み込むようにして立っている、ひげもじゃの大男だ。  高身長の亜麗沙を軽く上回る背丈に、がっしりと逞しい体躯。日本人……のように見える。なにしろふさふさの豊かな髭が、口から顎、もみあげにかけて生えているせいで、イマイチ本来のお顔がわからない。なんというか失礼だが、幻の生命体、イエティのようである。 「まさかこの人、岸田の親父さんか?」 「そうだよ」  突然背後で声がして、心臓と同時に肩が跳ね上がった。驚いて振り向いた瞬間、また別の衝撃が走って硬直してしまう。  濡れた髪の隙間から覗く潤んだ瞳。ほんのりと上気した頬に、少し気怠げな表情…… 「ごめんね。びっくりさせちゃった?」  これがお袋の言う、風呂上がりのイケメンか。  もはや芸術だ。歩く芸術が、思考停止した俺を気遣いながら更に距離を詰めてくる。その身体からほのかに伝わってくる熱と石鹸の香りに、脳髄が痺れるような甘い眩暈を感じた。  キケンだ。キケンすぎる。同じ男の俺ですらこうなのに、女性だったらどうなってしまうのだろう。 「きしみね?」 「……いや、ちょっと……その、眩しくて」  君が。とは、迂闊に言えなかった。岸田が美形たる所以を知ってしまった手前、どうにもお顔を褒めにくい。 「そうだったの? 遠慮しないで早く言ってくれたらよかったのに。少し照明落とすね」  まったく違う方向に解釈した岸田が、テーブルの上にあった照明のリモコンを素早く操作した。天井からはっきりと足元まで照らしていた白い光が、温かみのあるオレンジ色の淡い光に変わって、一瞬で部屋全体が癒やしの空間になった。勘違いさせてしまった岸田には申し訳ないが、これはこれで最高の気分だ。 「ごめん。わざわざありがとう」 「他にもなにか気になったらすぐ言うんだよ。きしみね、なんでも我慢しちゃうから、心配なんだ」  岸田はしゅんとした様子で溜め息をついて、ソファに深く腰掛けた。そして、ラックの前に突っ立ったまま動かない俺に気付くと、ゆっくりと首をかたむけて微笑み、隣の座面をポンポンと叩いた。  なんだろう、このむずむずした感覚は。岸田の柔らかい眼差しが、こっちへおいで、と優しく招いているようで。ついうっかり、子供みたいに駆け寄ってしまいそうになる。  岸田は不思議な男だ。甘え上手で、ちょっとわがままで、無性に世話をしてやりたくなるのに、いつの間にか俺のほうが甘やかされている。可愛い可愛いとナデナデしていたはずが、最後には俺がゴロゴロしているのだ。  それに気が付いたのはごく最近のことだ。ひょっとして岸田は、素直に甘えられない俺を甘やかすために、全部わざとやっているのではないか。  岸田には奥行きがありすぎて、疑い始めるとキリがない。俺は戸惑いと気恥ずかしさを感じながら、そろそろと岸田に近付いた。
/60ページ

最初のコメントを投稿しよう!