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───男が座っている。
場所は高層ビルの屋上。60階建て、地上から約300メートル。目も眩む高さのその端に、命綱も何も無しで腰掛けている。男は眼下に拡がるネオンの海を、何の感情も宿さない空虚な瞳で見つめていた。
びゅうびゅうと吹き荒ぶ暴風も、何故か男の周りには吹き荒れていない。実体が無いのだ。無ければ風の抵抗も受けず、どんな高さでも関係ない。男は何年もそこに居た。ただひとりの人を待っていた。約束をしたわけでもない。いつ逢えるかも判らない。ただいつも互いに待っている。
今回も待ち始めて何年経っただろう。雪が降る日もここでそれを眺め、クリスマスや正月に騒ぐ人々を眼下に見下ろした。人々は今や日傘を差し、汗を拭くハンカチを片手に歩いている。
今回は長いな……
待つ間は、淋しい、哀しい、逢いたい……負の感情が入り乱れる。今回もちゃんと逢えるのか、満足した顔でやってくるのか、自分はどんな顔をしているのか───何より、逝ってしまっていないか。自分を置いて。
男はただそこに蹲り、ただ待っていた。
* * * *
ふと、声が聴こえた。
聴き間違えるはずのない声。同時に、すぐ傍らに黒い霞が立つ。霞はあっという間に人の姿を形作り、待ち望んだひとの姿になった。
「……アーサー」
待ち望んだ姿、待ち望んだ声だった。
「ソフィア」
先程までの生気のない顔は消え、返事をする声には喜びが満ちていた。良かった、まだ、置いて逝かれてはいなかった───
ソフィアと呼び掛けられた人物は女性だ。自分が男で、相手が女であるということは重要だった。ソフィアが自分の隣に腰掛ける動作をじっと見つめる。
「───お帰り」
アーサーがソフィアを迎えて最初に掛ける言葉は毎回同じだ。これは逆も然り。
「ただいま」
待ち望んだ笑顔。ふわりと笑うソフィアは美しい。
「久しぶりだね。ソフィア」
「うん。今回は長く待たせた?」
「そうだね……」
ここに来る前を思い出す。愛した相手。若くして死んでしまった。
「病気でね。進行性だったから若い分あっという間で……」
「そう。残念だったね」
愛する相手を先に見送る───毎回のこととはいえ、喪う痛みや哀しみが和らぐわけではない。
「ソフィアは? 今回も良い人だった?」
「うん。良い人だった。最後はやっぱり病気になったけどね、看取ってきたよ」
───ふたりはいわゆる吸血鬼だった。人の輪廻の輪から外された生ける屍。
ノスフェラトウ、ヴァンパイア、ブルコラカス、カタカネス……何千年の昔から、様々な呼び名が与えられた。意味はどれも、不死の者、血を吸う屍、疫病を運ぶ者など、恐怖と不名誉なものばかり。
何故、自分たちはこんな身体なのか。何故、こんな生き方しか出来ないのか───……
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