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彼は旧幕臣らによる殖産事業にさらに邁進する。
明治二年九月には、藩内に『開業方』、『物産掛』を創設した。その頭に前島密、佐々井栄太郎らを置いた。彼等は桑、茶の栽培を推奨し、勧農、開拓を広げた。
明治三年(一八七十年)、弟の小野駒、松岡万(つもる)らに遠州湊村(袋井市)に製塩所を作らせた。
また、学問にも力を入れ、この年から藩内の児童教育を統一した。
この藩の多くの旧幕臣たちが、藩内で様々な職に就いて働き出した。
全国で多くの元武士たちがその立場を失い、前時代からの職を追われ、困窮していく中、この藩ではその元武士たちによって、殖産と学問が興されていた。
東京と名を変えた江戸の新政府では、盛んにその殖産興業を勧めた。その背後にあるのは、諸外国との工業力、商業力の差を埋めたいという思いであり、これに追い付くことを目標としていた。
この静岡の地でのそれは少し色合いが違った。
旧支配階級だった武士たちの自立の為に行われていた向きが強い。
元武士たちの『自身の自立、自在の為』の殖産であり、そこに『諸外国云々』は介在しない。これをしないと生きていけないのであった。
そして、その『旗振り役』が、幕末において最も武士らしい働きをした、この山岡鉄太郎であった。
ちなみに、彼が乗り込んで談判した新政府の征討軍の総督、西郷吉之助は維新後、陸軍大将になった。
始まった新政府の政策は、元武士らにとっては過酷なものであり、『新時代』を望み、旧幕府支配からの脱却と、貧困からの脱出を期待していた彼らから不満の声を浴びる事になる。
西郷は、そうした全国の元武士らの不満を解消しようと、単身で韓国に向かおうとした。
鎖国に徹する韓国を開国させようとしたのだ。
危うい行為である。
己の気魄で、怨嗟の声を上げる元武士らの溜飲を下げようとしたのだ。
その方法は、例え自身が韓国側に捕縛され、殺されようと、それで不満を懐く元武士らが韓国を討つ軍兵になり、その軍事的能力を、その戦争で使う事を願ったのである。
西郷は、他人の苦しみを放っておけない男であり、かつて単身で乗り込んできた鉄太郎の度胸と気迫を真似してみたのではなかったのか。
だが、この『征韓論』は新政府内で拒絶されて、西郷は下野した。
燻る士族(元武士ら)の怒りは南九州で反乱を起こす事になる。
結局、西郷は郷里の鹿児島でその士族らに担ぎ上げられてしまう。
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