1 徳川慶喜

1/4
1人が本棚に入れています
本棚に追加
/25ページ

1 徳川慶喜

 かつて『駿河府中』と言われた静岡市の中心地が未曾有の事態に陥ったのは、慶応四年(一八六八年)の夏であった。  徳川宗家を継いだ田安亀之助が、主従数名と駿河府中にやって来たのだ。  新政府側は上野に残る残存勢力を攻めつつ、同時に、この幼い旧主に、駿河府中藩へ移動を命じた。  府中藩の石高は七十万。旧幕府の直轄領は四百万石であり、それを召し上げられての“転封”だった。  ここ駿中は、彼の祖先で徳川幕府の創始者、家康の所縁の地でもある。その末裔の移住は、薩長の新政府からしたら何の違和もなかった。  徳川幕府は前年の慶応三年(一八六七年)に日本の統治権を朝廷に返上しており、徳川家は既に一大名の地位に落ちていた。単なる“敗者”であった。  同五月二十四日、亀之助から家達と名乗りを変えた六歳の幼児に、駿河府中藩七十万石が下賜されていた。その夏、家達はこの封入地である駿河府中に来た。  ただ、来たわけではない。  彼自体の供回りは百人足らずであったが、その後、この幼児に『召連候家臣』として五千人の家来らが移住してくると言う。  その家族を含めると、一万人を越える大移住団である。  当時の府中の半分以上の人間が雪崩れ込んでくるのである。  ちなみに、徳川家の前の宗主である慶喜はこれより一ヶ月ほど前に駿河に来ていた。  彼はある“目論見”を持って来ていた。  彼がそれを考え出したのはいつ頃か。  おそらくは長州藩への二回目の軍事制裁(第二次征長)を諦めた辺りかもしれない。  慶応二年(一八六六年)、彼は、僅か三十七万石の外様藩(長州藩)に苦戦する幕軍をみかねて、御所に参内し、孝明帝の勅命を得て賊軍討伐の『節刀』を賜った。自ら長州の征伐に出馬しようとしたのだ。  しかし、六日後、急にその討伐を取り止めた。  理由は前線で戦う老中の小笠原長行からの報告であった。  『とても勝ち目がない』という事だった。  勝てる見込みの無い戦をするほどの蛮勇と軍略がこの男には無かった。  ただ、その頭脳は鋭利なまでに働いた。  慶喜の頭では、幕府がこのままの形を保っていることは最早不可能だと思えた。  これは、早く別の統治体制に移行せねばなるまい。  長州への征伐を諦めた慶喜は、そう思った。  彼は他人事のように約二百五十年も続いた幕府を見る節がある。  だが、それは無理もなかった。  彼にとって、徳川幕府やその将軍職は『他人事』に近かったからだ。  彼の出身母体である水戸徳川家は、『御三家』と言われた徳川宗家に準ずる家格にありながら、二百五十年間、その宗家から一段低く見られても来た。  必然と家中に江戸の徳川宗家を非難する空気が生まれ、『水戸家は京の帝と徳川将軍家が争う場合は帝に付く』というような『尊皇精神』が出来上がっていた。その観点から江戸幕府を見て、この国の成り立ち、政治体制もを見ていた。幕末に流行る『尊皇攘夷』の機運が早くから慶喜の中にあったのだ。  その中で慶喜は、“烈公”と言われた父、斉昭から見込まれ、将軍となるように幼い頃から養育されてきた。本人はいささか乗り気にはなれなかったが。  そして、将軍職に就いたものの、彼からすれば、『将軍職になれない身上から、運良く勇躍し、そこ任を担当している』という感覚であり、幕府瓦解の難局に臨み、その“お鉢”が回って来たに過ぎないと思っていた。  つまり、“貧乏くじを引いた”感覚がある。  それゆえ、幕府の現状をどこか、『他人事』としか思えない。   そんな彼ではあるが、この倒れかかっている幕府を放り出す事はできない。  『徳川将軍家』は彼にとって、他人の『宿』ではあるが、徳川幕府の『将軍職』は、それになった彼の『職責』として存続させるべきものであり、八百万石、八万騎(実質は四百万石、三万騎)と言われた直轄領、直系の家臣団の行く末を考えなくてはいけなかった。  だが、このままの徳川の政治体制では、とても『幕府』の方は統治機構として成り立ってはいられないのは確かである。  幕府が成り立たない、となると彼と彼の家臣(徳川直臣)らも立ち往かなくなるということである。  慶喜は、ある予測をしていた。  この国には、新たな統治機構が必要である。それは近々に出現するだろう。担い手は薩摩長州などの西国雄藩だろう。  その統治機構に己と徳川家を移行させる。  そうすれば、徳川“幕府”は霧散しても、徳川“家”は存続する。  家がある、という事は彼の家臣らもまた存在できる、ということである。この時代、家という枠組みが武家社会の根幹にある。慶喜とまずはそこを“確定”させたいと思った。  ただ、その新たな統治機構でも徳川家は首領でありたい。それは、言わば徳川幕府の“延長”でしかないのだが、この『東照権現様(家康)以来の英雄』と言われた男は、時勢とは言え、他者の風下に立つ気など全くに無かった。自らの知略や優秀さを恃み、またそれまでの地位から他者にへつらう事など想像できなかったのだ。だから、新たな(徳川幕府の延長たる)新統治機構でも、将軍である自分が中心になる。  そう願っていたし、策を考えていた。
/25ページ

最初のコメントを投稿しよう!