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…ただ尾上のポケットにはいつも棒状の何かが入っている。
夜中に台所で研ぎ石を使って擦る何かが入っている。
ふと、耳を澄ませば電話が鳴っていた。
「母ちゃん、電話」
「ああ、欣一からかなあ」
息子に言われた老女が立ち上がり、猫背の男と背の高い男が二人取り残される。
黙って咀嚼し、黙って食べる。
万丈はまだ尾上を抱いていない。
もともと尾上は可愛くもないしさせ子でもないし、むしろ抱かれたい欲望は一切ない。
男は女の代わり、それだけだ。
自分が男のナニを受け入れることなど想像したことがないのだ。
(まあ、助けてくれたんだから、ケツの一回、掘らせてやってもいいが)
そんなムードも出ないし、まず、母親が同居しているので下手に変なことはできない。
ただ二人でふらふらと万丈の故郷に行き今に至る。
だが、万丈は箸を口に含みながら黙々と米を頬張る男を盗み見る。
この男は優しいだけの男ではない。
引きつれた唇や千切れた耳はそれを物語っているのにどうしてだか、万丈はこの関係を好ましく思っている。
何も始まらず何も終わらないぬるま湯の穏やかな日々だ。
(これくらいが、いい)
…尾上がもっしゃもっしゃと頬を膨らませながら卓上の醤油に目をやったのに気付いて万丈が取ってやる。
視線は絡まない癖に息が最近夫婦のように合ってきた。
「すまんな」
「いえ」
短い言葉
カチコチとアナログな時計が鳴る。
遠くで老婆が話す声
静まり返った食卓に
ゆっくりとした咀嚼の音
沈黙を破ったのは
必然だったか
なあ万丈。と尾上が言った。
「…昨日夢を見たよ。俺は900階あるビルの下にいるんだ。そのビルは中が空洞で、壁に粗末なパイプで作った階段がある。それを登りたいが俺は怖くてただ上を見上げている。そこに何故か階段登りの達人の爺さんがいてな。おい小僧、手を貸してやろう。上に行きてえんだろうとおっかなびっくりの俺を引っ張るんだ。そこで仕方なしに上に上がるんだがいろんな奴が上から落ちてくる。俺が蹴落とした男や学校の先生やら最初に惚れた近所の姉さんが俺を指差しながら落ちて行くんだ。それでも俺は爺さんが急かすままに上まで行くとな」
てっぺんから 何が見えたと思う?
柔らかい笑みを唇に乗せて尾上は万丈をやけに楽しそうな目で見た。
「スフィンクスや万里の長城が見えたんだよ。自由の女神やエッフェル塔なんかもいっしょくただ。爺さんがな。世界は狭いだろう、ここからだとなんだって良く見える。ちっちゃなもんだろうがと言うから思わず頷いた。地球のてっぺんからなんでも一列になって見れるんだなあ、もっと良く見ようと思って身を乗り出したが、そこで目が覚めた」
子供みたいな夢だったとおっさんは言う。
目を細めて思いだしながら言葉を選ぶ。
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