普通列車下り、九時四十七分発

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「あれ? 美砂(みさ)か?」  背後から低い声が聞こえ、肩が派手に震えた。  たまたま帰ってきた私に、平日のこの時間から声をかけてくる人物がいるとは想定していなかった。しかも名指し……知り合いだろうか。できれば、気心の知れた友人以外とは顔を合わせたくない。でも。  おそるおそる振り返った先には、ひとりの男性が立っていた。  姿を見てもピンとこなかったけれど、面影になんとなく見覚えがあった。深く考えを巡らせるよりも先、あ、と思う。  懐かしい姿が脳裏を掠めたからだ。短く刈られた髪、周囲から頭ひとつ分抜き出た長身、野球部のユニフォーム姿――そうか。  この人は、中学校時代の同級生だ。 「あ……ええ、と」  下の名前で呼ばれるなんて相当に久々で、返事をするまで無駄に時間がかかる。  小学校時代や中学校時代には、私も皆を名前で呼ぶことがほとんどだったし、私だって皆にそうやって呼ばれていた。目の前の彼は当時の同級生だ、おかしな言動を取られているわけではない。とはいえ、困惑は顔を出てしまっていたと思う。  一方の相手は、特に気にする様子も見せず、小首を傾げつつ尋ねてくる。 「どうしたんだ、こんなところで。こっちに帰ってきてたのか?」  言いながら、相手はのんびりとした歩調で歩み寄ってくる。  あ、と零したきり、今度こそ返事に窮してしまう。  ……困った。名前を思い出せない。思い出そうとすればするほど記憶に靄がかかる。  次第に焦りを覚え始め、泳ぐ両目の動きを意識的に止めた私は、傍に立つ彼の姿をちらりと盗み見た。  背が高く、がっしりとした身体つきだ。そう、この人は中学校時代から背が高かった。野球部のユニフォーム姿が、もう一度脳裏を過ぎる。  服装は、くたびれたジーンズに袖の長いTシャツ、履き潰されたスニーカー。ごく普通の、少しだらしない印象さえ受ける格好だ。極めつけは、整っていないでもないのにどうにも垢抜けない顔立ち……全体的に、昔とあまり変わっていない気はする。 「う、ううん。今日だけ、たまたま」  無理やり声を絞り出すと、相手は「そうか」と呟き、私の隣に腰を下ろした。  ぎょっとした。座った、ということは話が続いてしまうのか。どうしよう、まだ名前を思い出せていないのに――にわかに焦りを覚え、私は膝上で拳を握り締める。  そのまま足元に視線を落とすと、自然と彼のつま先も視界に入ってきた。  おそらくは土だろう、つま先が派手に汚れた大きなスニーカーを見つめながら、私は罪悪感に襲われていた。明らかに知り合いのはずの人の名前を、こうまで思い出せないなんて。  相手はなにも喋らない。私もなにも喋れない。居心地の悪い、気詰まりな沈黙だった。  無人駅を出てすぐ傍の公園のベンチ、大した晴れ間も覗いていない中で黙って座り込むアラサーの男女。その構図に耐えきれなくなり、とうとう私は相手より先に口を開いた。 「あの……仕事は?」 「ああ、今日は休みなんだ。田んぼ、そろそろ見ねえといけねえから」 「そ、そっか」  田んぼ。そうか、稲刈りの季節か。  電車の窓から覗いていた黄金色の稲穂を不意に思い出した。地元は兼業農家が多いから、この子もそうなのかもしれない。いわれてみれば、確かに農家の息子だった気もする。 「お前は? 実家に顔出しか?」 「えっ……ま、まぁそんなとこ」  今度は逆に訊かれて、私は曖昧に濁した。  どうして今日この街に戻ってきたのか、自分でもよく分かっていない。他人に理解してもらえるとは思えないし、してもらう必要もない。どうせ、相手は向こうに帰ったらまた忘れてしまう人だ。  ――忘れてしまう人。  そう思った瞬間、じり、と灼けるように胸の奥が痛んだ。  ほんの一瞬の痛みに気を取られ、思わず額を押さえる。胸が痛いと思ったのに、頭を押さえたのはどうしてか……的外れな疑問が思い浮かんでは、からからに渇いた喉が張りついて、とにかく不快で堪らなくなる。
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