普通列車下り、九時四十七分発

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 喉を潤すためのなにかがほしいと確かに思うのに、私の手元にはなにもない。近くに自動販売機があるわけでもない。対処の手段を探しながらも、渇きはひどくなっていく一方だ。  なんだろう、喉の渇きなんてさっきまで全然感じていなかったのに……違和感に似たその疑問符を、私は少々強引に掻き消した。  それから、私たちはぽつぽつと話をした。  思い出話にはさほど花が咲かなくて、天気のこととか、田んぼのこととか、他愛もない話を続けただけだ。ただ、相手は私の詳細について一切踏み込んでこなくて、そのことをありがたく思った。  結局、最後まで彼の名前を思い出せないまま、私はおずおずとベンチから腰を浮かせた。 「ええと、私、そろそろ行くね」 「ああ、そうか。悪ィな、急に捕まえちまって」 「ううん。大丈夫」  予定はなにもなかったけれど、名前を覚えていないことを相手に悟られるよりも先にという思いが強かった。  正面から顔を突き合わせてしまわないよう、手にしたトートバッグの紐に視線を定め、じゃあね、と告げるために口を開きかけて……けれど。 「美砂」  背の側から呼びかけられ、つい振り返ってしまう。  ベンチに座ったきりの相手と目が合った。見上げられていることを妙に新鮮に感じて、同時に、名前を思い出せないことを責められるのではという不安も覚えた。  相手の顔をまじまじと見つめたのはこのときが初めてで、なんだか妙な感じがした。  若く見える気がしたのだ。ラフな服装、風に揺れる無造作な毛先、あるいは先ほどまでとは逆の、自分が相手を見下ろしている状況――そういうちょっとした要素がそう思わせるだけなのかもしれないけれど、それにしても、今年三十歳になる男性にしてはどこかあどけない。  違和感に違和感が重なり、勢いに乗って増殖していく。  なんだ、これ。大切な……いや、重大なことを忘れている気がする。忘れて良いようなことでは決してないことを。  息が詰まるほどの困惑が、瞬く間に私をまるごと絡め取る。  目を逸らすことも忘れて呆然と立ち竦む私を、彼は真正面からまっすぐに見つめ返し、そして。 「お前、戻ったらすぐ医者に行けよ」 「え?」 「同じ顔してる。昔の俺と」  医者。同じ顔。昔の俺。  言われた言葉を反芻しながら、私は呆然と相手を見下ろした。  身体はちっとも動かない。  相手の名前がどうとか、自分の記憶がどうとか、そういうことに対して覚えていた焦燥が瞬時に掻き消える。 「うっし、じゃあ俺もそろそろ戻るかぁ」  私の疑問符を、相手は拾わなかった。  勢い良く立ち上がり、すれ違いざまに「じゃあな」と笑った彼の声は、すっかり元の呑気な調子に戻っていた。  どくどくと唐突に高鳴り出した胸を咄嗟に押さえ、それとは反対側の手を、相手の腕に大きく伸ばす。 「っ、待って! 今の……」  どういう意味なの。  叫びに近い声でそう続けようとした矢先、相手がゆっくりと私を振り返る。その姿が徐々に霞み出し、私は眉を寄せた。  振り向き方も、私が焦っているわりには思わせぶりなほどのんびりしている。
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