普通列車下り、九時四十七分発

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 実際、ダメージは思っている以上に蓄積していたらしい。  心身の静養のため、私は職場を退職することにした。  上司のパワハラについては、電話で本人に伝えた通り、上層部にも伝えた。  揉み消される可能性も想定していたけれど、上司と上層部の謝罪は、想像より遥かにあっさりと現実になった。  社長には休職も提案されたものの、固辞した。場所を変えずに新しいスタートを切るなんていう器用なことが、今の自分にできるとは思えなかったからだ。  仕事を辞めたらすべてが終わると思っていたのに、そんなことはなかった。  むしろ、辞めなければどうなっていただろう。いつ糸が切れるか分からない極限状態に追い込まれた身体と心を引きずって、いつまで耐えていられただろうか。 『同じ顔してる。昔の俺と』  夢の中で私を見上げていた彼の顔が、声が、脳裏に鮮明に蘇る。  あの言葉の意味が、今なら分かる気がした。昔の俺――そう言いながら、君の顔は、身体は、きっと最期の齢のままだった。  だから私の目には若く見えた。そういうことなのだと思う。 『徹夜明けだったみたい。すごかったらしいよ、火が上がって……病院にはちゃんと運ばれたって聞いたけど』  言いにくそうにときおり言葉を濁しつつ教えてくれた友人は、果たして誰だったか。今となっては思い出せない。  もう六年も前の話になる。  もう六年、まだ六年……信じたくはないけれど、どうしたところで、人は少しずつ忘れていく生き物なのだろう。  彼が徹夜明けの仕事帰りに事故に遭ったと、搬送先の病院で一度も意識を取り戻すことなく他界してしまったのだと、そう教えてくれた友人の声ももはや曖昧だ。  葬儀には参列しなかった。  当日、私は普段と同じように働いていた。自分がなにを優先すればいいのか、すべきなのか、当時の時点ですでにまともな判断をつけられてはいなかった。 『本当に良かったの? だってあいつ、中学の頃からずっと美砂のこと、』  葬儀の日の夜に電話してきた友人の声を、私はあからさまに遮った。  聞きたくなかった。二度と会えない今になってしまってから、そんな話は。  だいたい、別れの瞬間にだけ立ち会ったところでどうなる。  遠く離れた地で日々仕事に身を削りながら、私は中学校時代の恋のことなんてすっかり忘れていた。彼の存在自体を碌に思い返すこともなく、のうのうと暮らし続けていた。  そんな私に、彼との別れに立ち会う資格があるはずもない。  心のどこかで、ずっとそう思い続けていた。
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