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隣人X
すぐ傍、狭い通路ではないのだが、人が通路に人溜りになって、通路が塞がりが、出来る為、どうしても、客商売をしてるとお客様の目線に対して、過度に気を遣う
僕は、そんな大した人ではないし、立場もそこまで偉くない。
だから、そんな大通りを、こともなげに、私としては、彼は怖かった。
体躯は並外れて群を抜いていた。
僕は喧嘩などした日には、彼にぶっ飛ばされる事請け合いだろうし、殴り合いになったら、間違いなく、拳はグシャリと、潰れるだろう。
そういう喧嘩好きの吹き溜まりに、教官なんて、ましてや指導なんて、柄じゃなく、彼がわかってくれない、頭が悪いとか、知恵遅れだとか、特性云々関係なく、彼は私より立場が上の私の指導員だ。
名前の上の姓が、田中と付くので、正直、芥川賞を獲った、市川沙央氏に対しては、末恐ろしさすら感じ、畏怖に値する。
嫉妬なんかより、良くある、風俗売春ネタを、普通の家出少女主軸で、書いたんでは、視点が、ありきたりになり、扁平になり、インパクトに欠ける。
そこに、障害者という、フィルターを、取っ払った、その作風は、初見では、まだ私にはつまらなく映ったが、文化人達、並びに書店員達は、やはりナ…と顎をさすり、神妙に納得していた。
そういう、無意識レベルで、私と繋がる偶然性は、最早パクリでは無い。
それは普遍的無意識レベルで意思疎通していたのだ。
僕が昔の市川沙央氏と、介護の未来の研究家と対談した回に目を通して、私なりの気持ちを感想文として、したためたモノは、私のXの囲い達に、自我を促したのか?わからないが、市川沙央と言う怪物が生み出したモノ、その感覚は、窮地に追いやられていた、その人を、私を含め、解き放ったのだろう。
その対談に目を通した後は、私は覚醒していた。
害者に対する鬱屈とした、憎悪が、肝が据わった様に落ち着いた。
世間一般的な常識とは、真逆の害者が、介護士を虐待している、天変地異みたいな何かが、現場から、垣間見えた。しかし、それに対して、違和感感じるのは、多分、その被害者と私と側近のみで、こんな現実は、虐待問題の課題とは、的を外れて居る、不自然さが、多分私に刺さり、ハンチバックは、私の精神的可動領域を、押し拡げたのは効力バツグンだった。
その、文學の敬虔な偉大さを、私はその道の賢人達に、わかってくれて居ると、創作者本人からイイねが付くのは、そういう事に違いない。
市川沙央にXをフォローされて居るのは、私の伴侶に言わせると認められていたのだ。
その事に、私はただ、ただ、夢を追い駆ける最中の、叶わない祈りに打ちのめされた絶望から、既に解き放たれて掬われていた事に、感謝している。
芥川は、私には到底手に入らない。
精々、ノーベル文学平和賞ぐらい(含み笑い)で或る。
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