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 僕の先生は『町はずれの森に住む賢者』、あるいは『隠者』と呼ばれていた。  町にはめったに姿を現さない。しかし薬が必要でも買えない貧しい者がいると、自ら調合した薬を持って森から現れた。代金は要求せず、救われた者は先生に手を合わせて涙を流したものだ。  その先生が今日は賢者らしからぬ姿だった。  いつもは朝早くに目を覚まして活動をはじめているのに、今日は朝寝をしている。寝室をこっそり覗くと、ひどく乱れたベッドの上で裸同然の格好で眠っていた。  床に衣服が散らかり、白い陽光が窓から差しこむ室内には花の蜜のような甘い香りが漂っている。女性がつける香水とは何か違う気がしたが、それでもまるで情事の後のようなけだるげな雰囲気を感じ、あわてて覗くのをやめて扉を閉めた。  いけないものを見てしまった気分だ。  いやいや、相手の姿はなかったし、そんなはずはない。先生は人とあまり関わらないように生きている。だからそういう行為のために、家へ人を招いたとは考えにくい。  何度か深呼吸をして鼓動を落ち着かせる。  気を取り直してリビングの片づけをしよう。  リビングは書斎でもあり、薬の調合場所でもある。先生の家はこじんまりとしていて、部屋は寝室と厨房、物置、あとはこのリビングだけだ。  まず、窓を開ける。  初夏の風が新緑の香りを乗せて室内に舞いこむと、こもっていた薬の匂いがやわらいだ。天井に吊るしてある植物が風でゆれてカサカサと音を立てる。薬に使うために乾燥させているのだ。セージにカミツレ、コエンドロ――椅子の上に立って触ってみたが、まだ少し湿っているので下ろさなくていい。  床に積み上げられている本を本棚に並べ、落ちていたアニスの果実をひろって瓶へ戻す。掃き掃除は必要なさそうだし、洗い物も特にない。  今日はあまり散らかっていなかった。  とはいえ元々、先生は几帳面とまではいかないが、物を乱雑にあつかう性格ではない。調合の後も作業台の上をそのまま放置しないし、衣服もこまめに洗っている。  たまに調べものや書きものに没頭すると本や紙で足場がなくなり、手や顔にインクがつきっぱなしでも気に留めなくなるが。  片づけが必要ないなら――と、寝室の方へ目を向けた。  まだ起きてくる気配がない。それを確認して、作業台にもなっている机の引き出しから、先生が薬の調合レシピを書いたノートをとり出した。  特別な軟膏について書いてあるページを開き、紙の切れ端に書き写しはじめる。つづられているのは外国の言語で、少しなら読めるがあまり自信がない。とりあえず書き写して後で翻訳するつもりだ。  このレシピの『妖精の軟膏』は、瞼の上に塗ると妖精の姿が見えるようになるらしい。  一度でいいから僕は妖精を見たくて、前々から先生にこの軟膏が欲しいとお願いしているがなかなか首を縦に振ってくれない。それなら自分で作ればいい。 「今日は君が来る日だったか。日にちの感覚がおかしくなっていたみたいだ」  いきなり先生の声が聞こえて心臓が跳ねた。  書き写すのに夢中で気づかなかったのだ。いつの間にか寝室から出てきていた先生は、すでにきちんと服を着ている。  ノートを閉じ、さりげなくその上に本を置いて隠す。レシピを書き写していた紙きれはズボンのポケットにねじこんだが、バレただろうか。 「おはようございます。クルミが入ったパンを持ってたんです。今、切りますか?」 「ありがとう。もらおうかな」  先生が彫りの深い端正な顔に微笑みを浮かべる。大丈夫だ。バレていない。  パンが入った横かけ鞄を開け、欠伸をしながらコップに水差しの水を注いでいる先生をちらりと盗み見る。  先生は町に現れる時、いつも黒いローブを身にまとっていた。あまり人目につきたくないからだ。  目深にかぶったフードから覗く黒髪は夜闇を、おそろしく澄んだ淡水色の瞳は冷たい湖水を思わせ、そのたたずまいはあまりに静かで息を呑む。僕より頭二つ分ほど背が高く、頑丈そうな体つきをしているので威圧感もあるのだろう。素晴らしい人だけど怖いと、先生を見た人は口をそろえて言うのだ。  そうだろうか。  ローブを着ていない先生を明るい場所で見ると、異様な雰囲気は感じない。  彫りの深い顔立ちは端正で、体が大きいわりには物腰がやわらかく、落ち着いた低い声で口調もおだやかだ。女性にモテそう――と考えてしまったのは、さっき寝室で見た光景が頭にこびりついているからだろう。  絶対にそんなはずはない。 「朝寝なんて珍しいですね」  気にし続けるのもどうかと思い、食卓についた先生にナイフで切り分けたパンを渡しながら尋ねてみた。  きっと裸同然だったのは薬の調合や調べもので疲れ、寝間着に着替えるのも億劫でそのまま眠ってしまったからに違いない。 「昨夜は急に妖精が押しかけてきて、朝方まで……」  ふと、途中で言葉を止めると、先生は顎に手を添えて何やら考えこんだ。 「君は今年でいくつだった?」 「十四ですけど」 「人の子の成長は早いな。しかしそれでもまだ子供のようだから、今の話は忘れなさい」  なんでもないような顔でそう言ってパンを口に入れる。  いやいや、つまり僕の考えは当たっていたのか。先生もそういうことをするのかとか、想像してはいけないのに想像してしまうというか。しかも妖精と、と言わなかったか。 「これ美味しいね」  僕の混乱をよそに、先生は呑気にクルミ入りのパンを気に入っている。  肉や魚を食べない先生は、果物と木の実が好きなのだ。前にイチジク入りのライ麦パンも好きだと言っていたな――と、別のことを考えようと努めたが無理だった。顔が熱い。 「……水を汲んできます」  落ち着こう。  裏庭で先生と育てている薬草にやる水を汲みに行こう。 「ああ、そうだ。ウィリアム」  名前を呼ばれ、外へ行こうとしていた足を止めて振り向くと、先生は僕に向かって手に平を差し出している。 「さっき書き写していたものを出しなさい」  やっぱりバレていた。
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