第三章 蝶よ花よ

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第三章 蝶よ花よ

 ニイナは起き上がれなかった。手の中に落ちてきたオニキスを握り締め、布団にくるまって咽び泣いている。  どうして、どうしてこんなことになったんだ。実の娘に殺されるなど。それほどのことを俺がしてきたというのか。それほどだったのか……?  二人の娘にルリとアオイと名付けたニイナは、娘たちを名前の通り蝶よ花よと育ててきたつもりだった。自分の目が届く範囲で、何も不安も不満も無い、女として安定した幸せな人生を送らせてやるつもりだったのだ。  それなのに、長女のルリはあっという間に自分の元を離れ、理想通り育ったと思っていた次女のアオイには怒濤の勢いで批判され、挙げ句の果てには花瓶で殴り殺された。一度だけでは無い。何度も何度も花瓶は振り下ろされたのだ。ニイナの視界が真っ赤に染まり、手も足も動かせなくなるまで、何度も。  それほどに憎まれていたのか? 恨まれていたのか。実の娘に。それほどまでに……。  そのとき、ベッドの端に置かれたスマートフォンがブルブルと震えた。アラームでは無い。着信だ。  恐る恐るそれを手に取ると、妻の名前が表示されている。六回目で初めて、こんな早朝に、妻からの電話があった。 「……モリエ、モリエなのか!?」 「あなた……いえ、クラタカさん、お久しぶりです。朝早くに、すみません」 「いや、いいんだ。今どこに……ああ、何から、話せば……」 「クラタカさん、おかしなことを聞くかもしれませんが、あなたの周りで不思議なことが起きていませんか」 「あ、ああ? な、何だって」 「例えば、同じ一日を何度もループしてやり直している……とか」 第三章 蝶よ花よ 「どうして……それを知っているんだ!? やっぱりお前が何か関与しているんだな!? あのブレスレットは何なんだ!?」 「ブレスレット? 何のことですか」 「お前が新婚当時に俺にくれた、オニキスのブレスレットだ!」 「あれを今、使っているんですか? 贈ったときは興味無さそうにして、すぐにクローゼットの中にしまったのに」 「そ、それは。お前が出て行った後、探しものをしているときに見つけたから、その……」 「急に身につける気になったってことですか。そうですか、それで……」  電話の向こうでモリエが考え込んでいる。ニイナはモリエが知っている情報を早く引き出したくて急かした。 「頼む、何か知っているなら教えてくれ。もう六回目なんだ! 死んではまた同じ一日をやり直している。気が狂いそうだ……!」 「つまりクラタカさんは、五回も死んでいるんですか?」  純粋な驚きの声が上がる。 「どうして?」  ニイナはしどろもどろではあったが、今まで自分の身に起きたことを伝えた。モリエは驚きながら相づちを打っていたが、やがてニイナが話し終えると、長く深呼吸をする。 「クラタカさん。私もあなたと同じように、一日をループしています。でも、そのタイミングが毎回突然やって来るから、何が原因なのか分からなかった。きっかけとなっていたのは、あなたが死ぬことだったのね……」 「お前も繰り返していたのか? 俺と同じタイミングで……?」 「あのブレスレットは、私の母が作ったものです。母は私が高校生だったころに病気で亡くなりましたが、入院中にあのオニキスのブレスレットを作ってくれていたんです。将来結婚する相手の方に渡しなさいって……。母は不思議なちからがある人で、時々未来のことを見てきたように話すことがありました。今から思うと、母は私が結婚相手と上手くいかないことも、分かっていたのかもしれない……」 「君の母親がそんな人だなんて、初めて聞いたが……!?」 「いえ、何回か話しましたよ。あなたは最初からオカルト臭いって馬鹿にして、まともに聞いていませんでしたけど」 「そ、そうだったか」 「そうですよ」  声の響きに、どこかひんやりとした冷たさがある。ニイナは手の中のオニキスを見つめ、必死に離れていった妻に縋った。 「とにかく、話したとおりなんだ。助けてくれ。何もしなければサクマの妻が俺を殺しに来るし、アオイも死ぬ。それに、アオイも俺をまた……殺そうとするのかもしれない。お前から、何か言ってやってくれ」 「そうですね。……貴方が死ぬと、いつも朝の四時に戻るんですね?」 「ああ、そうだ。何十年も前に戻るならともかく、たった一日だ。たった一日戻っただけじゃ、どうにもならない!」  会社の人間関係も、親子関係も、たった一日で何をどう変えられるというのだろう。  サクマもイツホもアリマチもアオイも、ずっとずっと昔から、ニイナに思うことがあったのだ。  その歪みが今日爆発したとして、たった一日やり直して全てを上手く解消出来るはずが無い。 「クラタカさん。大きな声を出さずに、聞いて下さいね」 「あ、ああ、なんだ?」 「アオイと話をしなくてはいけないのは、あなたです。私は今、東京のルリのところにいますから、午前中の新幹線に乗ることにします。三人で話しましょう。そうしたらクラタカさん、離婚届にサインして頂けますか? まだテーブルの上に置いたままでしょう」 「……っ」  ニイナは息を呑んだ。ここで完全に、縁を断ち切るつもりなのだ。 「モリエ。……どうか、俺にやり直すチャンスをくれないか。きっと、生まれ変わる。心を入れ替えて、いい男に、いい夫に、いい父親に、生まれ変わってみせるから……っ!」 「いいえ、生まれ変わることなんて出来ないわ」  モリエは静かに言い切った。 「人は今までの自分の言動を足跡にして生きていくことしか出来ない。ある日突然まったく違う別の自分になることなんて出来ないし、今まで持っていた性質を手放すことも出来ない。逆に今まで持っていなかった能力を急に身につけることも、出来ないのよ」 「男の俺が、頭を下げているんだぞ!?」 「ほらね。あなたは何も変わってはいない」 「……感情的になることは誰だってある!」 「そうね。でもあなたと話し合いが出来たこと、もう何十年も無いわ。娘や家のこと、会社の今後のことで話がしたくても、いつもあなたが一方的に怒鳴って終わり。私が食い下がったり反論したりすると、本を投げつけてきたこともあったし」 「そ、そんなこと、覚えてない」 「そうね。あなたっていつも、都合の悪いことは忘れちゃう」  哀しげな声がスマートフォン越しに響く。どこかアリマチを思い出す声音。 「ループの原因は分かりました。今回で終わりにしましょう。この一日も、あなたと私の、夫婦生活も」  モリエの言葉は、どこまでも無慈悲だった。  いっそもう一度、刺されて死んでしまおうか。  エレベーターの中でそんなことを考えながら、エントランスを出て、会社へと向かう。  ニイナの母親は、女手一つでニイナを育て上げた苦労人だった。父親は死んだわけではなく離婚したのだとは聞いていたから、ニイナは高校生になった頃、どうしても父親に会ってみたくなったのだ。  母親が仕事に行っている間に押し入れに保管されていた手紙の束や連絡帳を調べて、父親の住居を探し当てた。  それらしき名前を見つけ、会いに行こうと決意した日の期待に胸弾む気持ちを、ニイナは今も苦い記憶として覚えている。  父親が一人で住んでいたアパートは、ニイナと母親が二人で暮らしているアパートよりも古くて安そうな物件だった。  突然押しかけたにも関わらず、父は快くニイナを中に入れてくれた。そして嬉しそうに笑ってこう言った。 「やっぱりなあ。子どもには父親が必要なんだよ。俺には分かってたんだ」  ワンカップの酒を飲みながら、上機嫌で父は続けた。母がニイナを出産し退院する際に迎えに行かなかったこと、稼ぎは全部ギャンブルに使い、子育てに手いっぱいの新妻を毎日泣かせていたことを、まるで武勇伝かのように語る。 「それでお前、高校生なんだろ。もうバイトしてるよな? 月にいくら貰ってんだ。今いくら持ってる?」  父の目がニイナの全身を舐めるように見回した。まるで値踏みするように、媚びるように。  ニイナは気づいたら父の家を飛び出していた。ショックだった。母が離婚を決意した理由など、明白過ぎて。  泣きながら家に向かって歩いていると、途中で母と出くわした。ニイナがどこに行ったのか気づいて、迎えに来てくれていたのだ。 「帰ろうか」  そう呟いた母は、優しくて哀しい声をしていた。高校生にもなって、ニイナは母と手を繋ぎ、しゃくり上げながらトボトボと歩いた。  あの時久しぶりに握った母の手は小さくてか弱くて、ニイナは自分が強くならなくてはいけないのだと痛感した。自分は正しい男になろうと、涙に濡れた頬で決意したのだ。  母を支えられる頼もしい息子に。妻を愛する誠実な男に。子を守れる毅然とした父親に。  あんな男にだけはならない。呑んだくれながら、子どもの稼ぎに期待するような、あんな男には。  ニイナはそう思いながら生きてきた。ニイナを支えてきたのは間違いなく、あの時の決意だったのだ。 「タケナガさん、ETCのカード会社の電話のメモをもらえないか」 「え、あ、ご存じなんですか? 良かった! 社長に言えばいいのか、アオイさんなのか、私には判断出来なくて」  会社に着くと事務のタケナガを呼び出し、電話番号のメモを受け取る。ここからイツホの対応までは、前回の通りで良いはずだ。 「……すまないタケナガさん、失礼なことを聞くかもしれないが……念の為、なんだが……」 「は、はい。何でしょうか」  社長室を出ようとしていた彼女を呼び止め、ニイナは迷った。この質問で今度はタケナガから殺意を向けられる可能性もあると考えたからだ。 「……君は、アリマチと親しくしていたのか?」 「アリマチさんですか? ……在籍されていたときに、資料作りを頼まれたりはしていましたけど」 「ただの噂なんだが、君とアリマチが……その、親密な関係だったのではと、聞いたことがあるんだが」 「……は? まさか私、社内不倫を疑われてます?」  一気に低くなった声音に、ニイナは咄嗟にタケナガの周囲を警戒する。武器になりそうなものはない。 「何を根拠とした噂なのかは分かりませんが、アリマチさんとは会社でしかお会いしたことがありませんし、普通に仕事を頼まれたから話していた程度です。……あの、私、毎日迎えに来てくれるような恋人もいるので、そういう疑い持つの、止めてもらえますか、本当に。流石に不快です」 「ああ、すまない。私からちゃんと否定しておく」  タケナガの視線が冷たいものへと変化し、ニイナは慌てて頭を下げた。タケナガに恋人がいるとは初耳だ。すでに五年ほど勤めている事務員だが、そう言えばプライベートの話をあまりしたことがない。 「すみない、私は本当に……女性の気持ちを考えるのが、下手なんだ」 「社長が気持ちを考えるのが下手なのは、男女問わずですよ。女性だけじゃありません」  はっきりと言い切られて、ニイナは驚いて頭を上げた。タケナガは一瞬しまったという顔をしたが、すぐに腹を据えたような表情になる。 「社長は自分がこういうことを言ったら言われた人はどう思うかとか、全然考えてないですよね。夜勤の人たちのこと、朝の四時から電話で怒鳴りつけてるって話もよく聞きますし」 「きょ、今日はしていない!」 「今までは日常的にしていたじゃないですか」  そうだっただろうか。早朝に機嫌が悪いのはいつものことなので、あまり意識していなかった。 「社員がたるんでいれば、活を入れるのも社長の務めだ」 「コーヒー飲んでただけで怒鳴る必要ありますか? いつも社長にカメラで監視されてて怖いって辞めていく人も多いですし、社長が怒鳴りつけた人が、同じ事を自分より年下や後輩にやるから、この会社、若い人が居着かないんですよ。商業施設のチームリーダーだって、チーム内で社長と全く同じ口調で新しく入ってきた人を怒鳴りつけてるみたいですし」 「私と、全く同じ口調……?」 「はい。みんな社長にやられて嫌だったことを、自分より弱い人に対してやり返しているので」  ふと、アリマチの言っていたことが頭を過ぎった。 「それこそアリマチさんが、そういうことを辞めさせようと、社内の体制を見直そうって、若手の人たちまとめて頑張っていましたけど、いなくなっちゃいましたし。アリマチさんを慕っていた人たちは、その後で何かしら理由をつけて退職しましたよね。親の介護とか、病気が見つかったとか言って」 「全部、俺のせいだっていうのか」 「そりゃ、社長がこの会社のトップですし……」  気の毒そうに、タケナガがニイナを見る。 「まさか社長、自分が周囲に尊敬されているとでも、思っていたんですか」  カアッと顔が赤くなる。怒りと羞恥で脳がいっぱいになった。 「……どうしろって言うんだ!? 俺はこういうやり方でやってきたんだ! これで強くて、頼もしい男になった。財産を築いて、部下を管理して、家族を持って、守って……これで良かった筈なんだ! 昔はこれで良かったんだよ!」 「昔は良かったんですか? 本当に? 昔からダメだったと思いますけど……」  タケナガが困惑している。及び腰ではあるが、ニイナと向き合うことを止めようとはしない。  「昔、社長みたいな人に傷つけられた人たちが、これ以上傷つく人を増やさないために時代を変えたのが今なんじゃないですか? 色んなハラスメントの名前が出来て、色んなことが出来なくなったのは、昔それをやられて嫌だった人たちがいて、次の世代に同じ思いをさせないようにしたからじゃないかって、私は思いますけど……。この会社も社長も、変われるタイミングは何回かあった筈なのに、変われなかったから、今、こうなってるんですよ」  タケナガは知らない。ニイナが同じ一日を繰り返していること。もう五回も誰かに殺されていることを。  それなのに核心を突かれたような気持ちになって、ニイナが震える拳を握り締めながら黙り込んだ。  ニイナの様子に気づいたタケナガが、「言い過ぎました。すみません」と頭を下げて社長室を出て行く。  ああ、もうすぐイツホがやって来る時間だ……。 「サクマ、ちょっといいか」  イツホを出迎える前に、会議室にいるサクマに声をかけた。サクマが慌てて飛んでくる。 「はい、なんでしょうか、社長」 「すまなかった」 「ど、どうしたんですか!?」  頭を下げるニイナに、サクマがでっぷりとした腹を揺らしながら、慌てふためいている。 「お前をヌケサクと呼ぶのも、怒鳴りつけるのも、お前相手が一番言いやすかったからだ。一番付き合いが長くて、気心の知れている仲だから何を言っても大丈夫だと、どこかでお前に甘えていたんだ。本当にすまなかった」 「何を言っているんですか、社長、そんな、急に。気にしないで下さい。僕は社長のこと、とても尊敬しています。社長のような男になりたい一心で、ここまでやって来ましたから!」 「いいや、なるな。俺のようには、なるな……」  サクマはニイナに対してどこまでも柔らかい受け答えしかしなかった。  このいかにも人が良さそうで鈍くさい男が、家では妻を罵倒し、暴力を振るっている。  つまりサクマにとってニイナから受けていた扱いは、そういうことだったのだ。 「お久しぶりですね、クラタカさん」 「あ、ああ……」  思えばモリエと夫婦になってから、こんなにも離れて暮らしたことはなかった。  一週間ぶりに会うモリエは、ニイナと同じように4月17日を六回繰り返していた筈なのに、どこか溌剌としていて、小綺麗な服を着ていた。美容院に行ったばかりなのか、髪の毛も艶々している。 「どうですか、この服。ルリが買ってくれたんですよ。あの子、流石センスがいいわあ」 「勝手に離婚を切り出していなくなって、言うことがそれか……!?」 「ほんの挨拶代わりの会話でしょう。このくらい、穏やかに話して下さいな」  モリエにため息をつかれ、ニイナは口ごもった。これからアオイに会いに行くのに、モリエの協力がなければ、また殺意を向けられる羽目になるかもしれない。 「勝手にいなくなったのは、クラタカさんとは会話が出来ないことを私がよく知っていたからですよ。あなたの妻でしたもの」 「過去形にするな……っ」 「もう過去になりますよ。離婚届は持ってきて下さいましたか?」  ニイナはモリエに言われて、サインせずに置いたままだった離婚届を封筒に入れて持ってきていた。ズボンのポケットに入れてある。  だが、ニイナはサインをしたくはなかった。もう会社で自分が従業員たちから慕われていないこと、接し方を間違えたのだということは、流石に理解出来ていた。せめて、せめて家族だけは失いたくない。モリエとやり直し、アオイと和解したいと、そう思っていた。 「アオイと何を話すべきか、ちゃんと分かっていますか?」 「今までしてきたことを、詫びればいいんだろう……?」 「具体的に、何を、どう?」 「……分からない。どうすればいいんだ」 「あの子の言い分は聞いたんですよね?」 「幸せになれなかったと言っていた。俺のせいで……」  娘の激高する姿を思い出そうとすると、自分に向かって花瓶を振り下ろす、殺意に満ちた眼差しも思い出してしまう。  途端に頭痛がしてしゃがみ込むと、モリエが気遣わしげに膝を折った。 「……もう一度、冷静な状態で話を聞いてみるといいですよ。あの子もアリマチさんのこともあって、ずっと気を張っている状態でしたから。私も謝らなくちゃいけません。駅でプリンを買ってきましたから、三人で食べましょう。サユリはまだ学校でしょうし」  モリエが腕に下げた紙袋を持ち上げる。  見慣れた店のロゴマークに、ニイナは苦笑した。家のゴミ箱にはまだ、前にモリエが買ってきたそのプリンの容器が入っている。 「なんでお前は、いつもそのプリンを買ってくるんだ。甘ったるいだろう、それ」 「なんでって、あなた……」  モリエの眼差しが呆れたものに変わり、目を逸らして呟いた。 「……ここのプリン、昔からアオイが好きだからに決まってるじゃない」 「お母さん、戻って来たの!? ……お父さんと、一緒に?」  突然の両親の訪問に、アオイは驚いた顔をして、とっさに背後の室内を隠そうとした。  玄関からでもリビングの壁やテーブルにパーティの飾り付けが施されているのが見えるからだ。 「ええ、久しぶり。これ、プリン」 「わ、ありがと。……ええと、どういう状況?」  アオイは両親の顔を見比べている。口調は明るくとも、目線は少しおどおどとした、いつものアオイだ。この娘が自分に刃向かってくるなど、とても思えないような。 「もう分かってるとは思うけど、お母さんたち、別れることになったの」 「お、おい!?」  明け透けに話し出した妻にギョッとして、ニイナが止めようとする。だがモリエは構わず、玄関で話し続けた。 「ちゃんとアオイに話すべきだと思ったから戻って来たのよ。……上がってもいい?」  アオイは愕然とした顔をしていた。三十半ばになってもどこか心許ないような、精神の不安定さが表れた目つき。  モリエは娘の肩に手を添えると、励ますように言う。 「貴方も私たちに、言いたいことがあるでしょう?」  アオイは逡巡したのちに頷いた。  リビングには数字やアルファベットのバルーン、沢山の花が飾られている。一週間前と同じ飾り付けだ。  あの時この場所には、孫のサユリと、ニイナたち夫婦と、アオイがいた。サユリがホールケーキのろうそくを吹き消したら、三人で拍手をしてクラッカーを鳴らしていた。あの時にはすでに、いやそのずっと前から、家族の崩壊は始まっていたというのに。 「アオイは……母さんがいなかったことをいつから知っていたんだ?」 「誕生日パーティの翌日に電話もらったから、知ってた。お姉ちゃんのところに行くって。お姉ちゃん、元気にしてた?」 「ええ、アパレルブランドを起業して立派にやっているわ。海外とも取引しているんですって。ネットって凄いわねえ」  三人でプリンを食べながら、穏やかに会話は始まった。初めて聞く長女の現状に、ニイナは内心驚いていた。 「一度も聞きませんでしたね」 「え?」  モリエに突然言われて、ニイナはスプーンを動かす手を止める。 「ルリが今どうしているのか、元気でやっているのか、あなたは一度も聞きませんでしたね」 「……自分から望んで出て行ったんだ」 「ええ、そうね。あなたは自分の思い通りにならないものは、全部否定してしまうから」  ニイナは汗を流しながら、向かいに座るアオイの表情を伺った。姉のことを叫んでいる姿を思い出したからだ。 「……私、ずっと、お姉ちゃんはすごいと思ってた」  早々にプリンを食べ終えて、アオイが呟く。 「だって、高校生で親に隠れてバイトしながら上京資金貯めて、こっちの大学も向こうの大学も受験して受かって、一人で起業してるんでしょ? 凄すぎるよ。私にはそんな頭も、度胸も無い。お姉ちゃんのこと、本当に尊敬してるし、そんなお姉ちゃんのことを口汚く罵るお父さんのことが大嫌いだった。実の娘のこと、そんな風に言うんだって」  アオイがちらりと母を見る。 「お母さんも、途中から、それを止めなかったよね」 「そうね。……私が弱かったせいだわ。娘を守るべきだった……」 「バスケの試合で骨折して、お父さんにもう辞めろって言われてから、私の人生には何も無かった。ようやく夫と子どもを、私のことをお父さんから守ってくれる家族を手に入れたと思ったのに、アキラさんはいなくなっちゃったし、お母さんまでいなくなっちゃった。怖くてしょうがなかったの。一人でお父さんと向き合わなくちゃいけないのが。一人でサユリをお父さんから守らなくちゃいけないのが……」 「それでアキラさんのところに行ったのね。戻って来てほしかった? ……ごめんなさいね、アオイ。ルリにも怒られたのよ。アオイとアオイの子も連れて来たら良かったのにって」 「俺は鬼畜か何かか!? 俺が!」  咄嗟に立ち上がって娘を怒鳴りつけようとしたニイナの腕を、モリエが掴んで止めた。ニイナはどうにか怒りを抑え込みながら、再び座る。 「俺がサユリに……何をすると思っていたんだ」 「お父さんが生きてる限り、サユリにも私にしたのと同じようなことをするでしょ?」  俯いたアオイが話し続ける。 「お父さんは私たちの幸せのかたちを、たった一つに決めつけてる。女は結婚して子どもを産んで、専業主婦になるのが一番幸せだって」 「実際、そうだろう。お前、一度も働いたことなんてないじゃないか。夜遅くまで必死に働かなくても生活が出来る。明日の食費に頭を悩ませなくていい。家のことだけやっていればいいんだ。幸せなことだろう? これのどこか不満なんだ」 「クラタカさん。……ルリは自分の知識や才能を家族のために使いたかったし、アオイはバスケを続けたかった。私も出来れば母がやっていたことを紐解いてみたかった。私たちの幸せのかたちはそれぞれ違っていたのに、貴方は私たちの話も聞かずに、全員を同じところに押し込めようとしたじゃないですか」 「母がやっていたこと!? そうだそもそも、お前の母親が……」  モリエのほうを向こうとして、ポケットの中の巾着袋の重みに気づく。アオイの居る場所でループの話をしていいものか迷い、口を閉ざした。 「あなたのお母様が苦労されていたのは知っています。何度も聞きました。あなた、私の父の通夜でも、私の親戚の前で、自分の母親の苦労話をしていましたもの」 「そ、そうだったか……?」 「ええ、そうでしたよ。でもね、苦労していたのは別にあなたの母親だけではないの。それにあなたのお母様だって、生きていらしたら、反論していたと思いますよ。クラタカさん、お母様の意見はちゃんと聞いたんですか?」 「おふくろの意見なんて……何を言っているんだ……同じ事を考えたに、決まって……」  顔を上げたアオイが、疑わしげな目を向けている。まるでニイナの考えは全て間違っているとでも言いたげな目だ。  そうなのだろうか? ニイナは絵に描いたクズだった自分の父親を思い出す。あんな男にはなりたくなかった。家族に楽をさせたいと願って、必死に働いてきた。過労で亡くなった母の代わりに、妻と娘を幸せにしてやるつもりだった。それが全部全部、間違っていたとでも言うのか? 「あなたは今までのことを、家族のためにやって来たと思っているでしょうけど、あなたがやってきたことは、全部自分のためだと思うわ。だって私たちの望みは、違う生活、違う人生だったんだもの。私の母はこうなることが見えていたのかしらね。私ももっと、話をしておくべきだった……」 「俺は……愛があって、やっていたんだ。お前たちのためを、思って……」 「お父さんのは……愛は愛でも、自分に対する愛じゃない。全部自分の理想通り、思い通りにしたかっただけで……」  愕然とするニイナに、アオイが目を合わせて、弱々しくもはっきりと、自分の意見を口にした。  初めて娘と目が合ったような感覚に、ニイナは息が詰まる。アオイの目に、自我の光が灯っている。 「解放されたい。お父さんが決めつけた人生から。これ以上、自分の人生で起きたことを、お父さんのせいにはしたくないから。……ちゃんと働くわ。シングルマザーでも、サユリを大学まで行かせたいし」  ふっと口元に笑みが漏れる。何かを諦めたような、清々しい微笑み。 「本当はね、今日、アキラさんと会うことになってたの。謝らないと……。感情的になって、アキラさんの勤め先にまで迷惑をかけてしまったから。私、お父さんみたいなことしちゃってた……」 「お、俺を馬鹿にしているのか!? ……俺の金がなくちゃ、今まで通りの生活なんて出来ないんだぞ!?」 「そうやってすぐ、経済的に支配しようとする。それがお父さんの言う、愛なの?」 「……ち、違う、俺は、俺はただ……」  ニイナは焦った。妻が、娘が、孫が、急速に自分の手から遠ざかっていく。 「そうだ、ETCのカード、帰すね。家にあったから、勝手に使っちゃった。高速代もちゃんと払うから」  アオイは激高することなくニイナと会話が出来ており、もう闇雲に殺意を向けることはないだろう。 「なんだか不思議。頭の中にあった黒い靄が、話していたら晴れたみたい。いま、すごくスッキリしてる」  ニイナが死なないのであれば、これで今日一日が、本当に過ぎていく。 「……老いるまで必死に働き続けて、結果がこれなのか!? 会社にも家庭にも、俺の居場所は……俺は、俺は……どこにいればいいんだ……!?」 「クラタカさん」  妻に名を呼ばれ、ニイナは救いを求めるように目を合わせた。憐憫の眼差しに包まれる。 「ごめんなさいね。一番幸せになりたかったのはあなただったのに、私たちではあなたを幸せには出来なかったのね」 「何を……何を言ってるんだ……」  それはまるで、哀れな我が子を見る母親のような眼差しで、ニイナの記憶が刺激される。どこかでこの眼差しを見た。遠いどこかで。 「私はね……安い居酒屋やファミレスで、あなたと話をするのが好きだった。たくさんお話しするのが楽しかったから、この人と一緒になりたいって、そう思ったのよ。だけど結婚して、子どもが生まれて、社長になって、あなたはどんどん私と話してくれなくなってしまった。みんな最初から、あなたを憎んでいたわけじゃないわ。本当はあなたに理解されたくて、認められたくて、頑張っていたのよ。でもあなたは誰の言葉も受け入れてはくれなかった。五回死んで、娘にまで殺されて、それでようやく、また私の話を聞いてくれるようになったのね」  アオイが不思議そうな顔をしている。まだ生まれたばかりの頃、初めて自分の腕で抱き締めた重みを思い出す。 「母はきっと、夫婦二人で危機を乗り越えることを望んでいたのだと思います。だからあのブレスレットを作ってくれたんだわ。でも、私の幸せは、もうクラタカさんの隣には無い」  モリエは意志の強い、揺らがない目をしていた。若かったあの頃、受付に座っていた美しい女性の、その強い眼差しに惹かれたのだ。 「サクマさんを大事にしてね。あの方がイツホさんにしたことは許せないけど……きっと最後まであなたの隣にいてくれる人は、あの人だと思うわ」  目の底に優しさを滲ませて、モリエが言い放つ。 「どうか、離婚届にサインを」  モリエの意志は変わらなかった。  今すぐ朝の四時に戻ってくれと願っても、その望みは叶わない。 「私、幸せだったわ。クラタカを産んで、幸せな人生だった」  病院のベッドに横たわり、ニイナの手を掴んだ母が、急にそんなことを言った。 「ありがとう。……苦労をかけてごめんなさいね……」  そう呟いて、ニイナの母は亡くなった。枯れ木のような腕が、ぱたりとベッドの上に落ちる。  幸せだったなんて嘘だ。こんな人生の何が幸せなものか。現にニイナは幸せなどではなかったのだ。  バイト先や学校で、貧困家庭に生まれた教養の無い男だと嘲笑されるのが辛かった。何もかもを持って生まれた男たちは平気でニイナクラタカという人間を下に見て、ぞんざいに扱った。それが当然だと言わんばかりに。  お金はないよりはあったほうがいいし、苦労が多いよりは少ないほうがいい。おにぎり一つの夕食よりは、魚も肉もたらふく食べたい。  ドキュメンタリー番組で見た有名企業の社長のような、絵に描いたように分かりやすく成功した生活を送りたかった。  人格を、能力を、生活を、人生を、踏みつけられるよりは、踏みつける側になりたい。  自分を馬鹿にした全ての存在を、大声で威嚇して回りたい。二度とあんな屈辱を味わうことがないように。  アオイが初めてアリマチの実家に挨拶に行った日、帰ってきてから嬉しそうに「アリマチさんのお家の庭に、バスケットゴールがあったの」と言っていたことを思い出す。  娘の結婚式で、モリエが「アオイがいい人と出会えて良かった、これで私たちも安心ね」と涙を流して笑っていたことも。  喜ぶ娘の顔よりも、安堵する妻の顔よりも、ニイナが一番大きな感情を覚えたのは、裕福な家に生まれ育ったアリマチアキラという男に対する嫉妬だった。  ニイナが持って生まれることが出来なかったものを当たり前のように手にしている人間が、またニイナから奪い、侮辱しようとしているのだと、そう思い込んでしまった。食べるのにも学ぶのにも何一つ苦労してこなかった若造が、俺を見下そうとしているのだと。  少しでも弱さを見せたら、落ちぶれたら、父親のように惨めな存在に転落する道が待っている。  誰にも馬鹿にされたくはなかった。見下されたくない、脅かされたくない。ニイナはどこかでずっと、自分を否定しようとする誰かの目に怯えながら生きていた。  幸せな人生だったなんて嘘だ。  母が幸せであったのならば、何故死ぬ間際に、あんな憐憫の眼差しを、自分に向けてきたのだろう。  モリエは離婚届を提出しに行くと言い、アオイはアリマチと話をすると言って、飾り付けの片付けを始めた。  親子三人での誕生日パーティのやり直しは諦めて、どこかすっきりしたような顔をしていた。  妻との離婚が成立しても、娘に距離を置かれることが確定しても、明日はやって来る。  一旦自宅に戻るために夕暮れ時の町中を歩いていると、退社した人々の群れがニイナの横をすり抜けていく。  嬉しそうな顔をしている者もいれば、思い詰めたように疲れた顔をしている者もいる。それでもきっと、自分よりは幸せなはずだとニイナは思った。  ――ここで、車に跳ねられたら、どうだろう。  赤信号で立ち止まり、じっと車道を見つめる。まだオニキスは、五つしかない。ニイナの腕を一周するにはまだ足りない。  もう一度今日をやり直して、まずモリエに電話して……だか、それでどうなると言うのか。自分が自死したことを知って、余計に呆れられるのではないか? だがそれでも、今回よりはマシな結果になるのではないか。そうだろうか、もっと酷い結果になる可能性だってある。どうすれば、どうすれば……。 「ツバサーー!」  そのとき響いた女性の声に、ニイナはふと顔を上げた。何かにつられるように声の主を探すと、後方のパーキングに止められた車の、運転席の窓が開いている。  ツバサ……と口の中で繰り返していると、その車に近寄っていく小柄な女性がいた。事務のタケナガだ。定時で退勤したらしい。  そうだ、タケナガツバサ。女性社員を名前で呼ぶことは滅多にないから忘れていたが、それが彼女の名前だった。  タケナガの名を呼んだ女性が運転席から出てくる。背が高く、豊かな体のラインが遠目でも分かった。  ――あの、私、毎日迎えに来てくれるような恋人もいるので、そういう疑い持つの、止めてもらえますか、本当に。  彼女がタケナガの恋人なのだろうか。不倫を疑われて見栄を張ったわけではなく、同性同士で、本当に?  驚いて思わず凝視すると、タケナガの表情が見えた。会社では見たことがない、とろけるような眼差しに、紅潮した頬をしている。表情の全てで好意を伝えるような、その笑顔。  身長差のだいぶある二人は目を合わせて微笑んで抱き合い、タケナガは恋人に、助手席へとエスコートされていく。  ニイナは呆然として立ち尽くした。他者に対する愛がそこにあった。ほんの一瞬垣間見ただけでも伝わってくるほどの、愛情が。  タケナガは、あんな表情をする人間だっただろうか。あんなにも感情豊かで、幸福が伝わってくるような、表情を。  ニイナは確かに、何も見えてはいなかった。周囲の人々の人生を、性格を、思い込みで決めつけていたのだ。  モリエに言われた言葉が、アオイに言われた言葉が、アリマチに言われた言葉が、ようやくニイナの中に響いてくる。彼らは、彼女たちは、確かにニイナのことをよく理解していた。理解出来ていなかったのは、ニイナのほうだったのだ。  家族のことも、従業員のことも、今まで何も、見えていなかった。  本当に、何も。  プリンの空の容器が入ったゴミ袋をまとめ、明日の朝に出す為にベランダに出しておく。  外は暗くなり、4月17日がようやく終わろうとしている。  五つのオニキスをテーブルの上に並べるが、やはりこれではニイナの腕を一周するほどの長さにはならなかった。本当はまだやり直すチャンスはあるのだろう。けれどこの先何度一日をやり直したところで、この結果が覆るとは思えなかった。  サクマも今頃、誰も居ない自宅に戻っている頃だろうか。イツホに言われたとおり、明日会ったらカウンセリングを受けるように勧めなくては。いや、明日はショックで出社しないかもしれないから、久しぶりに電話で話そうか。  まるで、昔に戻るかのようだとニイナは思った。ニイナとサクマは、お互いが結婚する前は、よく電話でも話していたからだ。今さら遅いのかもしれないが、せめてサクマとの関係だけは、これから改善していきたいと、そう思う。  イツホは回避し、アオイはもう落ち着いている。これでニイナの死因になりそうなことは、全て無くなった。今日が繰り返されることは、もう本当に無いのだろう。 「……ん?」  何かが引っかかったそのとき、急にインターホンが鳴って、ニイナは飛び上がるほど驚いた。まさか、イツホが心変わりして、ニイナを殺そうとやって来たのだろうか。  恐る恐るインターホンの画面を覗くと、誰も居ない。間の悪い悪戯かと警戒していると、画面の下方に黒い塊のようなものが見えた。 「おじいちゃん、開けて」 「サユリ!?」  やって来たのは小学生の孫のサユリだった。身長が低いので、画面にも映らなかったのだ。 「どうした、こんな時間に」  慌てて中に入れると、サユリは思い詰めたように俯いている。 「……アオイとケンカでもしたのか? 今日はおじいちゃんたち、その、色々あってな」 「あのね、サユリいま、学校で、父親に捨てられた子だっていじめられてるの」 「え? 何だって……?」 「サユリ、聞いちゃったんだ。今日、サユリに内緒でパパが来るって。サユリの誕生日パーティをやり直すんだってママが電話で話してたの。だからサユリ、すごく嬉しかったのに。楽しみにしてたのに……」  あのあと、アリマチとアオイは確かに話をしたはずだ。しかしそれは決定的な決別の為だった。  まだ幼い孫にそれをどう伝えたらいいのか分からず、ニイナは困惑する。こんな時間に一人で帰すわけにもいかないし、電話してアオイに迎えに来てもらったほうがいいと判断して、スマートフォンを手にした。 「ちょっと待っててくれ。いま、アオイに……」 「ねえ、おじいちゃん」  背を向けてしまうと、身長の低い孫はニイナの視界にまるで入らなかった。話すときは膝を曲げて視線を合わせてやらないと、表情も分からない。 「パパがいなくなったのは、おじいちゃんのせいなの……?」  思い詰めた目の小さな孫は、肩から提げたトートバックの紐を、ぎゅっと握り締めていた。 ニイナ社長は転生出来ませんでした 完 ※夜に終章「タケナガ ツバサの話」をアップ予定です
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