終章 タケナガ ツバサの話

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終章 タケナガ ツバサの話

「会社、辞めようかなー……」  恋人に寄りかかってテレビを観ながら、ソファの上で私、タケナガツバサは呟いた。  仕事も終わり、夕食も後片付けも済み、あとは風呂に入って寝るだけのリラックスタイム。  そこに零すには重たい話題だが、恋人であるミツコは笑って受け止めてくれる。 「いいよ。私のお嫁さんになる?」 「もうなってるようなものでは? あと私、結婚しても仕事はしたい派だから」 「そうでした」  ミツコは猫のような口をして笑う。私の髪を優しく撫でるから、嬉しくてもっと寄りかかってしまった。 「辞めたいのは、前から話してた社長のヤバイって理由?」 「社長は常にヤバイんだけど、なんか不倫疑われたっぽい……」 「不倫? 誰とよ」 「役員だったアリマチさんって人」 「あー、急にいなくなったっていう。仲良かったの?」 「いや、そんなに。ていうか、腹が立ったから社長に結構ズケズケ物言っちゃった。今日は妙に大人しかったけど、明日呼び出されそう。コワ……」  まるで堰を切ったかのように、今まで色々思っていたことを口にしてしまった。  五年勤めた会社、ニイナホワイトクリーンは社長と従業員の間にとにかく信頼関係が無く、怒りっぽい社長のイライラをぶつけられた人が、自分より立場が下の人に同じ事をやり返して自尊心の回復を図るという負の連鎖が続いており、若い人の退職が止まらない。今ではとうとう内勤者に二十代は私だけになってしまった。 「私が入社したときは、数年したらアリマチさんが二代目の社長になるって聞いてたのに、いなくなっちゃったし。あの会社、今後どうなるか分からないし、今のうちに次の就職先探した方が無難かも」 「ツバサの好きにしたらいいよ。私もお店出すのは五年後くらいの予定だし」 「そうだよね~。やっぱりもうちょっと経理の勉強出来るような仕事探そうかな……」  ミツコは現在ネイリストとして働いているが、将来は自分の店を持つのが目標だとだいぶ前から言っていた。その際は私もお店の経営を手伝う約束をしており、その為に幅広い知識とスキルを身につけておきたいのだ。  しかし、ETCカードの件といい、アリマチさんのことが二年経ってから話題になるとは。やっぱりあの一件が、会社にとって大きな出来事だったんだろうな。  アリマチさんの急な退職で確かに社内は混乱したが、多くの従業員はアリマチさんに同情的だった。  私たちは会社でだけ社長の怒声を聞けばいいが、社長の娘と結婚したあの人は、プライベートでまであんな人と付き合わなくちゃいけないのだ。  アリマチさんがいなくなる数ヶ月前、アリマチさんと若い人たちが中心になって作った教育体制の改善案を提出された社長は、まるで火山のように噴火した。二時間に渡ってあの噴き上がる溶岩のような怒りを直接ぶつけられたら、精神的におかしくなってしまうのも無理はなくて、アリマチさんはむしろよく耐えていたほうだと思う。お子さんがいたはずだから完全に離れるのは難しいのかもしれないけど、なるべく社長とは関係の無いところで、穏やかな生活を送っていて欲しい。 「そう言えば、弟さんからLINE来てたよ。週末遊びに来るって」 「ああ、そうなんだ。……何で私の弟なのに、私じゃなくてミツコにLINEしてんの?」 「まあまあ。でも、理解ある弟さんで良かったよ。ツバサの家族と仲良くなれて、私も嬉しいし」 「あとは両親にいつ言うかかなー。恋人がいるのは伝えてあるけど」 「無理に言わなくてもいいよ。世代が違えば、考え方も違うだろうし」  そう言うミツコは、少し寂しそうな目をしていた。ミツコはご両親と折り合いが悪く、高校を卒業すると同時に家を飛び出して自活してきた苦労人だ。仲の良い家族というものに憧れがあるらしく、よく私の家族の話を聞きたがった。 「びっくりするでしょ、今まで何の問題も起こさなかった可愛い娘が、いきなり同性の恋人連れて帰ったらさあ。いくら時代が進んだって言っても、娘には男と結婚して、子ども産んでほしいものなんじゃないの。……普通の親って」 「ミツ……いくらなんでも、怒るよ」 「ごめん、ごめん。でもさ。私のせいでツバサが家族と仲悪くなっちゃったら、申し訳ないし……」 「時期をみてだけど、私はちゃんと話すよ、両親に、ミツコのこと。私の親は、ちゃんと私の話を聞いてくれる人だって、知ってるから」  愛する人に寄りかかって、頬ずりをする。むにむにした肌の感触が気持ちいい。 「……出来ればミツコのご両親にも、ちゃんと挨拶に行きたいよ」 「……気持ちだけで、じゅうぶんだよ」  声が哀しい色を帯びている。私は彼女の孤独を癒やしてあげたかった。だから一緒に住みたいと提案したのだ。 「あーあ。社長がアリマチさんを大事に扱って上手く世代交代出来てたら、いい会社になってたんだろうけどなあ……。まあ、もう言ってもしょうがないけど」 「なんか、ツバサのとこの社長、周りの人とコミュニケーション全然取れないよね。よく今までやってこれたね?」 「一番付き合いが長いっぽい部長が、社長に何言われても反発せずに従っちゃう人だったからかなあ? 社内のおじさんたちも、ほぼそういうイエスマンみたいな人ばっか残ったし。あ、なんか嫌なこと思い出しちゃった」 「何なに?」 「会社の書類棚の鍵、私が持ってるから毎朝出勤したら開けてるんだけど、一回社長が棚からファイル出そうとしたら開かなかったことがあって。すごい形相で私のほう振り向いて、『お前の仕事だろう、鍵も開けられないのか!』って怒鳴られたことがあったんだよね。実際は中で何かのファイルが引っかかっちゃってただけで、私がちょっと引っ張ったら普通に開いたの。それで『鍵は開いてますよ』って言ったら無言になって社長室戻っていったんだけど」 「短気過ぎない?」 「社長はずっとそんな感じだよ。少しでも苛つくとすぐ怒鳴るし、思い込みでキレるし、自分の勘違いでも謝らないし。なんか柄の悪い子どもみたいなんだよね」 「……ツバサってほんと偉いよね」 「え、なに、急に」 「偉いよ。会社や社長への文句や愚痴は言うけど、死ねとか殺してやりたいとかは言わないじゃん? あたしだったら絶対言っちゃうし。そういうとこ、育ちがいいなって思うよ」 「育ちがいいって。家族全員高卒の家庭だけど」 「学歴とか、経済的な話じゃないよ。もっと、別の豊かさの話」  ミツコはこうやってよく、私の家のことを褒めてくれた。その裏にあるのは自分の家庭に対する嘆きなのだろうけど、ミツコだって立派だ。親に頼れない状況で、真面目に働いて今までやって来たのだから。 「……社長もう歳だし。65歳くらいじゃなかったかな。死ねなんて言わなくても、どうしたって私よりは先に死ぬじゃん」 「まあそうだけど」  恋人の腕の中で、私は笑った。ミツコは私を美化し過ぎているところがある。 「それに私が何かしなくても、もっと社長を恨んでる人、身近にいると思うんだよね」
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