第一章 ヌケサク夫妻

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第一章 ヌケサク夫妻

 カン!と額に何かがぶつかり、ニイナは痛みで目を覚ました。  いつも通り自宅の寝室、ベッドで寝ていただけだというのに、何かが落ちてきたのだ。  一体何が、と体を起こして周囲を見渡すと、枕元に小さな黒い玉が落ちていた。  指で摘まんで拾い上げれば、妻から貰ったパワーストーンの一部だと気づく。元はブレスレットだったものが、千切れて散らばってしまったのだ。 「そうだ、千切れて……?」  いつ千切れたのだろうか。千切れた瞬間を見た筈なのだが思い出せない。  ブレスレットを入れて保管していたベロア調の巾着袋が確かクローゼットの引き出しにしまってあった筈で、それを取りに行く為にベッドを下りた。  ちらりとベッドサイドのデジタル時計を見ると、日付は4月17日、時刻は朝の四時となっている。  巾着袋は確かにあったが、ブレスレットを形成していた筈の他の黒い玉は見当たらない。ベッドの上にも床にも落ちてはいない。額に落ちてきた一粒だけだ。 「……?」  そもそも何故、上から落ちてきたのか。早朝から不可解な出来事に見舞われて、ふつふつと怒りが沸いてくる。  勢いよく寝室のドアを開いて洗面所に向かおうとして、妻の寝室の前で立ち止まった。しばらく佇んでみたが、何の物音もしない。静かなものだ。  洗面所で顔を洗い、口をゆすいで、トイレで用を足し、リビングのポットで湯を沸かす。  リビングにあるリモートワーク用のデスクに座りノートパソコンを開くと、会社の監視カメラの画面を開いた。朝の四時だが、事務所には夜勤の者が二名勤務している。  ニイナは約三十年前に清掃会社を立ち上げており、今も現役で社長を勤めている。  六十五歳という年齢になっても創業当時のエネルギッシュさを無くさず、元よりの長身と学生時代の柔道部で培った体力、そして剛毅な性格で今では従業員数三百人を超えた会社をまとめ上げていた。  今日も素早くメールをチェックし、シフト管理を担当している夜勤の者がコーヒーを片手に談笑しているのを社内監視カメラの映像で把握すると、すぐさま会社へ電話をかける。会社の固定電話には登録されている番号ならば使用者の名前が出るので、すぐに自分からの電話だと判ったのだろう。一人が慌てて受話器を取った。 「何を呑気にコーヒーなんか飲んでるんだ!? お前は清掃会社の人間だぞ! 暇があるなら事務所の掃除をしろ! 給料分働け!!」  相手が名乗るのも待たずに怒鳴りつけると、そのまま通話を切る。監視カメラの映像も切ると、目覚めが悪かったことの怒りが多少収まったような気分になる。  丁度ポットの湯が沸いたので、インスタント味噌汁のカップに注ぐ。ゴミ箱に不要になったインスタントの外袋を入れようと蓋を開けると、昨日食べた甘すぎるプリンの容器があった。  フンと鼻を鳴らして、今度は冷蔵庫を開ける。昨日ラップに巻いて入れておいたご飯の残りを温めて、海苔を巻いてモソモソと食べる。四時の朝食は静かだった。  ニイナの目覚めは早いが、出勤自体は十時過ぎだ。ニイナは仕事とプライベートの境界線が曖昧なので、メールの返事や取引先社長への電話、売り上げやシフトの確認など、家でも出来ることはあらかた片付けてから会社に向かう。  ニイナが経営するニイナホワイトクリーン株式会社は従業員の総数こそ三百人を超えているが、ほとんどがホテルや商業施設といった現場の清掃員なので、事務所に常時勤務しているのは事務方や営業、シフト管理に従事する二十名ほど。  管理業務は日勤夜勤の交代制で、今朝自分が怒鳴りつけた夜勤の人間にニイナが直接会うことはほとんど無い。  オフィスビルの八階にある事務所のドアを開くと、短い通路があり、右手側にはパーテーションを挟んで社員達のデスクがある。左側にはちょっとした応接スペースと、社長室へ続くドア。  ニイナが歩くと、中にいた従業員達が一斉におはようございますと挨拶をする。ニイナは無言で廊下を進み、パーテーションを抜けて、部長のデスクへと向かった。 「サクマはどうした?」 「部長はいま会議室で面談中です。退職の相談に来られている方がいるので」  席が近い女性事務員のタケナガが素早く答えた。ピリピリした空気が事務所に漂い、周囲にいる中年の男性社員たちはそれとなくニイナから目線を外している。 「昨日渡した書類がそのままだぞ!? もう俺がやった方が早い!」  サクマ部長のデスクに積み上げられていた書類を荒し、必要なものだけ手にして社長室に向かう。  社長室と事務所の境には大きな窓があり、そこからは下の道路と並木道がよく見える。行き交う車を見下ろし、フッと息を吐いてから、ドアを勢いよく開けた。 「ヌケサクが戻ってきたら、俺が呼んでいたと伝えておけ!」 「あ、はい。あの……」 「なんだ!?」 「いえ、何でも無いです。すみません」  タケナガが目線を逸らしたのを見て、バンッと大きな音を立ててドアを閉じる。  ドアの向こうで小さなざわめきが波打っているのが分かる。あいつらは俺がいないとよく喋るなと、ニイナは苛立ちとともに社長椅子に深く腰掛けた。  社長デスクのノートパソコンを起動させ、また監視カメラの画面を開く。今度は会議室の映像だ。  広い室内に置かれた長テーブルに、男二人が向き合って座っている。片方は若いがひょろりとした猫背の男で、もう一人は熊のように体格がよく、頭頂部の薄い中年の男。後者が部長のサクマである。  退職を願い出したという猫背の男に見覚えは無く、恐らくアルバイトだろうと予想する。最近の若い人間は金をかけて採用してもすぐに辞めるので、求人誌や転職サイトに使っている費用が無駄になるばかりだ。  ニイナは二十代の頃に田舎を飛び出し都会に出て、大手清掃会社にアルバイトとして入った。景気も良く懸命に働けば評価される時代だったのでわりとすぐに正社員になり、アルバイトの後輩だったサクマのことを正社員に推薦し、仕事終わりはよく二人で飲みに行くようになった。  やがてニイナは独立を決意し、サクマを片腕にすることにした。それからたった二人で始めた会社、ニイナホワイトクリーンは少しずつ従業員を増やし、事務所を移転し、今ではこの地域でそれなりに大きな清掃会社となった。しかし自分も年を取ったが、年下のサクマのほうが衰えは酷く、年々精彩を欠いている。  剣道で鍛えていたはずの体は脂肪の塊となり、頭髪も無惨なもの。何より顔だ。最近では目元のたるみが酷く、頬も垂れ下がっている。  そして判断の遅さは目に余るものがある。昨日渡しておいた書類は白紙で、他の仕事も溜め込んでいるだろうに、退職希望者との話し合いは一向に終わらない。元より話は長いほうだったが、引き留めようとでもしているのか、ニイナには無駄に時間を使っているようにしか思えない。  苛々しながら画面を見つめていると、やがて猫背の男が立ち上がり頭を下げ、そそくさと会議室を出て行った。サクマも立ち上がり、のそのそとテーブルの上の書類をまとめると、電気を消して会議室を出る。  足元のゴミ箱を蹴りつけながら書類を記入し待っていると、ようやく社長室のドアをノックする音が響いた。 「どうぞ」 「失礼します。社長、お呼びでしょうか」  ニイナも立ち上がり、ソファの方へと移動する。テーブルを挟んで向かい合って座れば、サクマとも目線が合わない。 「退職希望者との面談か?」 「はい、先月入ったアルバイトの子です。商業施設のチームに入れていたんですが、チームリーダーからキツイことを言われるのが耐えられないと……」 「それだけのことで!? なってないな、全く」 「毎日ちょっとしたことで思い切り怒鳴られるそうで」 「だからなんだ!?」  問題の商業施設のチームリーダーは、元はアルバイトで入ってきた男だった。当初は一週間で辞めたいと言い出したのをニイナが直々に叱咤して立ち直させた経緯があり、今では正社員として現場のリーダーを任せている。彼にはニイナが指導した内容をよく守っているという信頼があった。 「退職日が決まっているなら制服の回収を忘れるなよ! それより、この書類の話だ」 「あ、ああ、それは……」 「一定期間出勤が無いアルバイトの追跡調査報告書だな? 昨日俺がまとめておけと言って渡したな? 何故やっていない?」 「すみません、昨日は遅くまで、この退職者の件でチームリーダーにも話を聞いており……」 「話が長いのが原因じゃないのか!? 素早く要点を聞き出して、早く報告書にまとめて終わらせろ! そんなだから仕事一つがいつまで経っても終わらないんだ! このヌケサクが!!」 「申し訳ありません」 「俺はお前が憎くてこんなことを言っているんじゃないぞ! お前のためを思って、愛があって言っているんだからな!!」 「はい、その通りです。申し訳ありません」  俯いて謝罪の言葉を繰り返され、ニイナは深々とため息をつく。 「もういい。今日は新規の取引先と打ち合わせがあったな? 一人で行くのか?」 「いえ、本来はアリマチくんの案件でしたので、代わりの者を連れて行こうかと」 「ああ……そうだな」  不意に忘れていた男の名前を出され、ニイナが苦々しい顔つきになる。 「約束の時間に遅れないように、早く行けよ」 「はい、失礼致します」  サクマが立ち上がると、でっぷりとした腹の脂肪が揺れるのが見えた。自分もサクマほどではないとはいえ、年を取って腹がだんだん出てくるようになってしまったので、筋トレを増やそうと決意する。足腰を鍛えておいたほうがいい、と脳裏に警告のようなものが過ぎった。 「警告……。警告?」  ふと頭に浮かんだ不穏な言葉に、ニイナは首をかしげた。何となくズボンのポケットに手を入れると、中には手触りのいい巾着袋が入っている。巾着袋の中身は黒いパワーストーン一粒だけだ。  急に社長室のドアの向こうから大きな声が響いてきた。こそこそとした話し声ではなく、誰かが大きな声で喋っている。  飛び込みのセールスでも来たのだろうかと思い、怒鳴って追い払ってやろうとドアを開けると、そこにいたのは小柄な老婦人だった。その向こうで、事務のタケナガが引きつった顔をしている。 「? なんだ……?」  まじまじと老婦人を見つめると、向こうもドアが開いたことに気づいてニイナと目を合わせた。老婦人は肩から提げたトートバックの紐をぎゅっと握り締めている。その目が異様に見開かれ、ひび割れた唇がぱくぱくと何度か開く。  やつれた顔、目元には隈、艶のない白髪混じりの乾いた髪。どこかで見たことがある――と思い出そうとして、ニイナはようやく、その老婦人の右手に包丁が握られていることに気づいた。 「……お前のせいだ」  声と同時に、見開かれた目から、ぶわっと涙が溢れてくる。 「お前の、お前のせいだ!!」 「な、なん……!?」 「社長、逃げて下さい!」  タケナガが叫んでいる。ニイナは自分に向かって突進してくる老女の手首を掴み、包丁を落とそうとしたが、唐突にこの不審者が誰なのかを思い出した。  サクマの妻だ。最後に会ったときよりだいぶ年老いていたから、一瞬判らなかった。  枯れ木のように細い手首を握り締めると折れてしまいそうで、よく見るとあちこちに痛々しい痣がある。下手に突き飛ばすことも出来ず、揉み合うかたちになってしまった。  ……そうだ。ブレスレットはこの時に千切れた。黒いパワーストーンが床に落ちて、散らばったのを俺は見た。  突然そんな記憶が蘇ってくる。脳みそが切断されるような頭痛がして、ニイナはサクマの妻から手を離し、よろめいて後退した。その隙に彼女は包丁を持ち直し、再度ニイナに向かってくる。  ああ、そうだ。これは二度目の光景だ。  包丁が腹に突き刺さる。頭痛よりももっと酷い痛みが訪れる。そして――。  ――カンッ!!  額に何かがぶつかり、ニイナは痛みで目を覚ました。いつも通り自宅の寝室、ベッドで寝ていただけだというのに、何かが落ちてきたのだ。  体を起こして周囲を見渡すと、枕元に小さな黒い玉が落ちていた。妻から貰ったパワーストーンの一部。  ベッドサイドに置かれたデジタル時計は4月17日の午前四時を表示していた。  ……そうだ、これは二度目の目覚め。  いや、三度目の、朝だった。  第一章 ヌケサク夫妻  ノートパソコンでメールボックスを開けば、読んだ覚えのある件名のメールが全て未読の状態で入っている。監視カメラの映像内では、夜勤の二人がコーヒーを飲んでいた。全て同じだ。全て。  違うのは、握り締めている巾着袋の中に入っているパワーストーンの数である。巾着袋自体はクローゼットの中だったが、袋の中にはすでに黒い玉が入っており、先ほど落ちてきた分と合わせて二つになった。  貧乏揺すりが止まらない。一体何が起きている。腹をさするが血は出ていないし、痛みもない。パソコンの日付も4月17日の四時過ぎだ。  何が起きている。何が。何が!? 「お前の、お前のせいだ!!」  脳裏に蘇ったサクマの妻の叫び声にハッとする。そうだ。サクマに電話してはどうだ。お前の妻が俺を殺しに来ると。  ……信じるか? そんなことを? 二度殺されてその度に時間が巻き戻っているなど、そんな話を?  ニイナは手のひらで膝を鷲掴みし、無理矢理震えを止めた。  一体どういう仕組みなのかはまるで判らないが、これが三度目の命だというのなら、わざわざ殺されると判っている場所に向かう必要は無い。今日は出勤せず、一日家に閉じこもっていれば良いのだ。サクマの妻も、殺したい相手がいなければ引き返すはずだ。……きっと。  監視カメラの映像を気にしながら、ただただ時間が過ぎるのを待つ。  やがてシフト管理業務担当者が夜勤から日勤の者へと交代し、九時前になると営業や事務の人間が出勤して来る。やがてサクマが出勤し、あの退職希望の猫背の男もやって来て、二人で会議室へと入っていった。  今までならば、この後にニイナが出社して社長室に入っている。だが今日は出勤しない。サクマに電話するべきか迷い続けながら、じりじりと映像の中にあの女が現われるのを待つ。しかし十時を過ぎ、十一時を過ぎても、彼女は現われなかった。 「……来なか……った……?」  ホッとして息を吐く。会社に電話してみるかとスマートフォンを開こうとして、手元に無いことに気づいた。寝室に置いたままだ。  慌てて寝室に取りに行くと、着信がいくつも溜まっていた。本来なら電話をする必要があった取引先の社長と、娘のアオイからだ。 「ん? なんだ?」  娘にかけ直すが、出る気配がない。しかし同じ死を繰り返さずに済んだ安堵で胸がいっぱいで、軽い足取りでリビングへと戻る。  つけっぱなしだったノートパソコンの画面には、慌てて事務所を出ていく中年の男性社員たちの姿が映っていた。  ドッと心臓が音を鳴らす。あの女が来たのかと冷や汗をかいていると、手の中のスマホが震え、動揺しながら見れば会社からの着信だ。  監視カメラの映像を見つめると、いま電話をかけているのは女性事務員のタケナガだった。 「しゃ、社長、おはようございます」 「ああ、おはよう。……どうした」 「それが、その、いま、どちらにいらっしゃいますか」 「まだ自宅だ」 「そ、そうですか、あの、それが、娘さん、アオイさんが」 「は? アオイがどうした」 「一階のエレベーターホールで倒れてる女性がいるって騒ぎになってて、それがアオイさんみたいなんです! いま男の人たちが何人か下に行ったんですけど」 「アオイが……今日来るなんて、そんな話……」 「すみません、今日私からお電話していて、その、アリマチさんのことで、連絡があって。そのことを伝えたら、アオイさんから社長に電話するとおっしゃっていて、携帯にかけてみるって……」 「携帯に……」  着信があったことを思い出す。恐らく電話が繋がらなかったから、直接会いに来たのだろう。  アオイの住まいからはここよりも会社の方が近いから、すれ違いにならないよう会社の方に先に寄ったのかも知れない。 「待ってくれ、すぐに会社に向かう。アオイは、どういう状況なんだ」 「そ、それが、あ、一人戻って来ました。ビルの管理人さんが、救急車を呼んだそうです。え、血が」 「血が……?」 「血が、たくさん、流れてたって……」  ニイナは脇目も振らずに飛び出した。マンションのエレベーターに飛び乗ると、頭の中が真っ白になる。  娘のアオイは歩いて行ける距離のマンションに住んでおり、今は小学生の孫と二人で暮らしている。  アオイの生まれたときの光景や、アオイがやがて少女から女性へと成長し、初孫を抱き上げた日々が、真っ白な頭の中に浮かんでは消えていく。  まさか、あの女が? あの女と鉢合わせして、俺の代わりにアオイが刺されたのか!?  やがてエレベーターのドアが開くと、ドスッと腹部に衝撃があった。  恐る恐る視線を下げれば、自分の腹に突き刺さった血塗れの包丁と、震える枯れ木のような腕がある。 「お前の」  呪詛のように、その言葉が耳に届いた。 「お前のせいだ、お前の……」  見開かれた狂気の目が、ニイナのことをしっかりと捉えていた。  ――カンッ!!  出社しても刺されて死ぬ。出社しなければ小学生の子どもがいる娘が死ぬ。  それならば、自分が出社してサクマの妻の凶行を止める為に動いた方がいい。ニイナはバクバクと大きな音を立てる心臓に急かされるように、いつもより早く出勤した。  社長室に入る前に、境にある窓を思い立って開けておいた。いざとなったら向かってくるあの女を交わし、ここから落としたっていい。正当防衛だ。サクマには悪いが、仕方が無い。  慎重に社長室のドアを閉めてとじこもり、いっそエレベーターホールで待ち構えた方がいいのではないかとか、サクマに退職希望者の相手をさせず、事務所に戻した方がいいのではないかと考え込む。すると控えめなノック音が響いた。 「社長、失礼します」  緊張した声音は女性事務員のタケナガのものだ。ニイナは安堵して、背筋を伸ばす。 「どうぞ」 「すみません。こちら、先ほど社長が落とされたものだと思うのですが、違いますでしょうか」 「落とした……?」  タケナガの小さな手のひらには、黒い玉が一つ乗っていた。慌ててポケットから巾着袋を取り出すと、口が緩やかに開いており、中には二粒のパワーストーンしか入っていない。今回落ちてきた、三つ目の玉も入れておいた筈なのに。 「あ、ああ、そうだ。ありがとう、タケナガさん」 「いえ。あの……社長ってパワーストーン……お好きなんですか?」 「俺じゃなくて、妻がな。貰いものなんだ。元はブレスレットだったものが、散らばってしまって」 「そうなんですか。これ、オニキスですね」  タケナガが少しだけ表情を和らげる。二十代半ばのはずだが、あまり化粧もしていない小柄で地味な女性だからか、笑うと年齢よりも幼く見えた。 「詳しいのか? そうか、女性だものな。これにはその、何か不思議な力があるのか?」 「いえ、女性だから詳しいというわけでは……。でも、オニキスは魔除けの石ですよ」 「魔除け……?」 「確か、他人からの悪意や、トラブルから守ってくれる石だったと思います」 「悪意、トラブル……」  ニイナは呆けたように繰り返した。 「奥様からのプレゼントなんて素敵ですね」 「ああ……ありがとう」  三つしかないオニキスを眺めながら、これをブレスレットにしてプレゼントしてくれた妻のことを考える。  ニイナが妻からこれを受け取ったのは、結婚当初のことだった。だが独立したばかりで経営者としての見栄を張りたかったニイナは、ブランドものの時計を好み、ブレスレットを巾着袋に入れたまま、身につけることはなかった。こんな事態になるまでは。 「あの、社長。今、よろしいですか。先ほど、電……」 「ちょっと待ってくれ。サクマが来た」 「え? あ、はい」  サクマが入ってくるところが映像に映ったので立ち上がり、何か言いかけたタケナガを押しのけ社長室を出る。 「社長、今日はお早いですね。おはようございま……」 「お前、女房に何を吹き込んだ!?」 「は?」 「家で女房相手に俺の悪口を言ってるだろう!!」 「わ、悪口? 女房にですか?」  サクマが困惑したようにニイナを見る。戸惑う眼差しに愚鈍さを感じ、ニイナは苛立つ。 「この後、お前の女房がここに来るんだよ! お前が相手をしろ! 俺のせいじゃない、これはお前のせいなんだからな!?」 「は、はあ? 女房が会社に? 何故……」 「あの、すみませんお二人とも。お客様がお見えみたいで……」  タケナガが申し訳なさそうに声をかけてくる。ニイナが慌てて振り向くと、もうそこにサクマの妻が立っていた。 「あなた……」 「……!? なんでここにいるんだ!?」  突然会社に現われた妻の姿に、サクマがぎょっとしている。サクマの妻は青白い顔で、肩から提げたトートバックの紐をぎゅっと握り締めていた。 「……やっぱり、その人のせいなんでしょう。その人のせいで、あなたはおかしくなってしまったんでしょう!?」 「な、何を言って……」 「おい、どうにかしろ! そいつは俺を殺すつもりだぞ!!」 「こ、殺す?」 「え、奥さん? 部長の、ですか?」  タケナガが不思議そうに二人を見比べている。 「ええと……お茶でも淹れましょうか……?」  戸惑いながらタケナガが笑うが、場は凍り付いている。ニイナは苛立って、サクマに命じた。 「おい! お前の女房のカバンを取れ! 中に包丁が入ってる!」 「包丁?」  サクマがオウム返しをする前に、サクマの妻はトートバックから包丁を取り出していた。両手で握り締め、切っ先をニイナに向ける。 「お、お前さえ……っ!」 「意味が分からん! 何が俺のせいなんだ! おいサクマ!! お前の嫁だろう!」  包丁の先が、弾かれるようにニイナではなくサクマにも向けられた。自分に向けて包丁を構える妻の姿を見て、サクマの表情が変わる。 「……なんだ? その目は」 「あ、あ……」  突然サクマの口から地を這うような声が響き、後ろのタケナガがビクリと肩をすくませた。 「お前、旦那に向かってその目はなんだ!? なんだその包丁は! どういうつもりだ!? この愚妻が!! 誰のおかげで生活出来てると思ってる!?」 「ご、ごめんなさい、ごめんなさい、あなた」 「日中に出歩く時間があるなら家の中の掃除を完璧にやれといつも言っているよなあ!? お前は清掃会社の部長の嫁なんだぞ!? 会社まで来て、俺に恥をかかせる気か!?」 「ち、ちがいます、申し訳ありません、申し訳ありません」 「俺はお前が憎くてこんなことを言っているんじゃないぞ! お前のためを思って、愛があって言っているんだからな!!」 「はい、その通りです。ごめんなさい、ごめんなさい!」  サクマの妻の手から包丁がこぼれ落ちた。小さくて細い体も崩れ落ち、必死に守るように、腕で頭を囲っている。服の袖が捲れ、枯れ木のような腕が露わになると、その腕にミミズ腫れのような痕があるのが遠目にも判った。まるで竹刀で打ち付けられたかのような痕だ。  ニイナが立ち尽くしていると、瞬時に動き出したタケナガがサクマの脇を通り抜け、サクマの妻の体を支える。 「大丈夫ですか! あの、これ、腕の……部長に、ですか……?」  恐る恐るといった口調でタケナガが尋ねると、サクマの妻が無言で頷く。タケナガが信じられないものを見るような目で、サクマを見上げた。 「な、なんですか、タケナガさん」 「DVじゃないですか! ひどい、いつから、こんな……」 「お、お前、自分の女房になんて真似をしているんだ!?」 「社長まで、何を言うんですか! 僕は妻に立派な人間になってほしくてやっているんですよ!」 「女に暴力を振るう奴はクズだ!」 「クズではありません! 僕は社長のことを尊敬しています! 社長が僕にしてくれたように、妻にも接したいんです!」 「俺はお前にも、女房に手を上げたことなんて一度も無い……!」 「でも、愛があれば許されますよね」 「ハァ……!?」  引きつった声を上げたのはタケナガだ。男たちの会話を聞きながら、憤りに震えている。 「愛があれば許されます。誰に何を言っても、何をしたって。社長がいつも、部下の前でも僕のことをヌケサクと仰るのは、愛があってのことですよね」 「なっ……!?」 「そうじゃなきゃ、何なんですか。そうじゃなきゃ……」 「きゃぁぁぁぁ!!!!!」  突如上がった悲鳴に振り向くと、タケナガが血塗れになっていた。サクマの妻が包丁で自分の首を切りつけたのだ。 「うそ! うそうそ!!? 誰か救急車、救急車呼んで下さい!!」 「すみません、今日面談の予定で……」  修羅場に顔を覗かせたのは退職予定の猫背の男だった。血塗れで倒れている年老いた女と、その首を咄嗟に手で押さえて止血しようとしているタケナガの姿を見比べて、情けない悲鳴を上げて腰を抜かす。 「ああ、ごめんね。面談、明日でもいいかな?」  自分の妻が自殺を図ったというのに、サクマはへらへら笑いながら腰を抜かした男に話しかけている。  血塗れの床に壁、女性従業員に部下の妻、当のサクマは血の海の前で笑い、今まで息を潜めるようにして成り行きを見守っていた男性社員たちが慌てて電話をかけている。  いったい、これは何なんだ。  ニイナは目眩がした。自分が立ち上げ、ここまで育ててきたはずの会社で起きたこの惨劇。  よろけて後ろの窓硝子にもたれかかろうとして、ガクンとバランスが崩れる。  そうだ、窓は開けておいたのだった。  ――カンッ!! 「あ……」  トートバックの紐を握り締めていたサクマの妻、イツホが、エレベーターの前で待っていたニイナに気づいて顔を上げた。 「少し、話をさせてもらえませんか」  ニイナは彼女を刺激しないように、極力落ち着いた声音で話しかけた。手にはオニキスが四つ入った、巾着袋を握り締めている。  夫の様子が明らかにおかしくなったのは、二年ほど前からです。その頃に何があったのかは聞いています。夫も困っていましたから。  ……アリマチさんが失踪されたんですよね?  ニイナさんも苦労されたのは存じております。ですが、それから夫の帰りは余計遅くなりました。アリマチさんの抱えていた仕事を夫がやるようになったのだと、そう理解しています。  夫はそれから半年ほど、家で滅多に話さなくなりました。会社から疲れて帰ってきて、ほんの少し夕食に手をつけて風呂に入って寝る、それだけの生活です。土日も返上して仕事をしているようでした。ニイナさんはそのこともご存じなんですよね?  半年過ぎたあたりで、夫は私に家の中のものを投げつけるようになりました。家の掃除が出来てないとか、食器はすぐに洗えとか、そういった理由で。  俺が必死で働いている間、お前は何をしているんだとなじられるようになったんです。  私は夫が疲れていることも、機嫌が悪い理由も察していましたから、レジ打ちのパートをしながら、それまで以上に頑張って家のことをするようになりましたけど、それでも満足しないんです。やがて部屋から持ち出した竹刀で私をぶつようになりました。そのときの夫の顔が、すごく嬉しそうで。  ああ、この人にとって、私をなじったり、殴ったりすることは、職場で受けたストレスの解消法になってしまったのだと感じました。  優しかった夫の性格が歪んでしまったことが恐ろしく、私はただ耐えることしか出来ませんでした。  でも、一ヶ月ほど前に、私の元を、モリエさんが訪ねていらっしゃったんです。 「モリエが?」 「はい」  会社近くのコーヒーチェーン店の一角。イツホの独白を聞いていたニイナは、突然出て来た自分の妻の名前に驚いた。 「二人だけで会うような、親交が今もあったんですか」 「いえ、私もモリエさんとは、数年前に食事会でご一緒したきりで、二人きりでお会いしたのはそれが初めてでした」 「ああ、食事会」  言われてニイナはそのときのことを思い出した。ニイナと妻のモリエ、サクマ夫妻、そしてアリマチと当時はその妻であった娘のアオイ、そして幼い孫。三組の夫婦で料亭で食事をしたのだ。自分はその時、何を話したのだろう。 「モリエさんは、私の状況をご存じのようでした。辛いなら、逃げていいのだと仰られて」 「逃げて、いい……」 「はい。私はそうするからと」  ドッと心臓が大きく脈打つ。ニイナは断罪されるような心持ちで、目の前の老婦人を見つめた。 「いま、モリエさんはご自宅にはいらっしゃらないのですね」 「……ええ。はい」  何度一日を繰り返しても、何度前を通り過ぎても、静かなままの妻の寝室。  当たり前だ。その部屋の中に妻のモリエはいないのだから。  一週間前、孫の誕生日パーティーを終えたあと、離婚届を残して、彼女は突如いなくなってしまった。 「ニイナさんは、モリエさんにも夫にするように接していらっしゃったのですか」 「……いえ、そんなこと、は……」  どうだっただろうか。ニイナにとって怒鳴るのも、なじるのも、日常的なことだった。相手が部下でも家族でも。  だが、手を上げたことは無い。それに自分は、妻には優しく接している夫だと思っていたのだ。アリマチのときと同じく、突然いなくなって初めて、自分の接し方に問題があったのだと突きつけられたような、そんな気持ちになった。 「でも、私はそのとき、モリエさんの提案に反発してしまいました。夫を支えることが出来るのは、助けることが出来るのは、私しかいないのだと思っていましたから。あの人を助けるためには、元のあの人に戻って貰うためには、原因を取り除かなくてはいけないと……モリエさんとお会いして、ニイナさんから離れるつもりなのだと聞いてから、より強くそう思うようになったのです」  イツホはちらりと、自分の手元に置いたトートバックに視線を走らせた。その中に何が入っているのか、ニイナはすでに知っている。 「なんだか不思議です。私はこの一ヶ月間、まるで貴方が悪の権化であるかのように考えていました。優しかった夫が暴力まで振るうようになってしまったのは、ニイナさんのせいなのだと。貴方をどうにかしなくてはいけない、夫は私が助けなくてはいけない、そうしなければ私も救われない。そんな考えで頭がいっぱいで……。貴方が私の人生の中で、巨大な悪の象徴のように思えていたのです」  視線がトートバックから外される。イツホは臆すること無く、ニイナを見つめた。 「でも、違いましたね。久しぶりにお会いして、判りました。貴方はとても、小さい人だわ」  枯れ木のように細く、ちっぽけな老婦人が、体格の良いニイナを見据えて、哀れむように微笑む。 「顔を見て解りました。貴方はすでに、苦しいんでいらっしゃる」 「……申し訳ないと思っています。貴方に辛い思いをさせてしまった」 「いいえ。不思議と今、晴れ晴れとした気持ちです。思い詰めていた心が、頭にかかった靄が、軽くなったような……。私はとても愚かなことをしようとしていました。今までの人生を棒に振るようなことを……。私はこれから荷物をまとめようと思っています。どうか夫には、今日私がここに来たことは伝えず、いつも通り遅い時間に帰宅させて下さい。今日の夕食くらいは作って置いておきますから」 「離婚されるのですか」 「まだ判りません。モリエさんから、DV被害者のシェルターを教えて頂いていたんです。もっと早く、そこのお世話になれば良かった。……あの人にはニイナさんから、DV加害者のカウンセリングを受けるよう、勧めて頂けませんか。貴方から言われるのが、あの人には一番効果があると思うので」 「私も、通うべきでしょうか」 「それは……」  困ったように笑う。 「貴方自身で、決めて下さい」  イツホの小さな背中が店を出て行くのを見送って、ニイナは席に座ったままぼんやりと店内の様子を眺めていた。  これで終わったのだろうか。自らの危機が。繰り返す可思議な一日が。  ずっと握り締めていた巾着袋をテーブルの上に置き、手のひらに中身を広げる。  ニイナが同じ一日を四回繰り返した証である、四つのオニキス。  新婚当初このオニキスをブレスレットにしてプレゼントしてくれた妻は、ニイナが人の恨みを買う人間だと感じていたから、これを選んだのだろうか? 「何か……知ってるのか。モリエ……?」  名前を呟いて、ニイナはいなくなった妻に会いに行くことを決意した。  ニイナがモリエと知り合ったのは、ニイナが清掃会社で働き出したばかりの頃だ。  派遣先のビルで受付嬢をしていたのがモリエで、その美しくミステリアスな女性にニイナは一目惚れし、必死にアタックし、二人で食事へ行くようになった。モリエはニイナの懐事情を気にして安い居酒屋やファミレスに行きたがり、その度にニイナは早く出世しなくてはいけない、高給取りにならなくてはいけないと焦っていた。  やがて上司に意欲を認められ、現場からシフト管理へと異動し正社員となると収入も安定した。当時から自分を慕ってくれていたサクマのことも正社員にしてやることが出来た。やがてニイナとモリエは結婚し、独立を決意。サクマも居酒屋で知り合ったイツホと結婚し、小さいがアットホームな会社は少しずつ規模を大きくしていった。  小さいがアットホームな会社。確かに最初はそうだった。モリエやイツホにも子どもが生まれるまでは事務仕事を手伝ってもらっていたし、昔はバイトや社員が増える度に必ず祝いの席を設けていた。だが、社員が増え、規模が大きくなるにつれて、余裕がなくなっていったのだ。  問題は毎日のように起こり、ニイナの目が届かない現場で好き勝手なことをする従業員たちも現われだした。もっと厳しく会社全体を見なくてはいけない。やがて次女のアオイが連れてきた婚約者を将来の跡取りとして教育していくことにしたが、それも上手くいかなかった。  そう、いずれは会社を継がせようと思った男、アリマチアキラ。  あの男が二年前に失踪してから、ニイナたちを取り巻く状況は一層余裕を無くしていった。  モリエにメールを送り、電話をしてみるが、返信はなかった。このくらいのことなら、一週間前にも試したのだ。モリエは今どこにいるのか、心当たりならある。  長女のところだ。だが、長女の居場所をニイナは知らない。東京の大学に進学して、都内で就職したとは聞いているが、それだけだ。  昔から自分に反抗的だった長女のことをニイナは可愛がってはおらず、いずれ何かの壁にあたって父親である自分に泣きついてくる日を待っていたのに、とうとう何の連絡も寄越さなかった。  次女のアオイなら姉の居場所を知っているだろうと、とにかくアオイと話をしようとニイナはようやく決意した。  先週、孫のサユリの誕生日パーティには夫婦揃って参加したが、その翌日にモリエがいなくなってからは電話もしていない。  とにかく何か、何か話がしたい。心を落ち着けて話せる相手と、何か。  時刻はすでに昼を過ぎ、午後三時を回っていた。娘と孫が暮らすマンションに向かうため歩道橋を歩いていると、階段を下りた先にアオイの姿を見つけた。 「あ、アオイ……」  前のやり直しのときといい、今日は出歩くことが多い日なのだろうか。少なくともイツホは自宅に戻っている筈だし、もう娘にまで危険は及ばない。  声をかけようと階段を下りようとして、ニイナはアオイが誰か男と話していることに気づいた。アリマチだ。 「……お前、な……!?」  驚いて駆け下りようとして、何か軽い衝撃が腰のあたりに当たる。えっと声が出た瞬間には足を踏み外していた。 「……!? おとうさ……!?」  階段の下でアオイが驚いた顔をしている。体が宙を舞う感覚がある。  アオイの細い目が大きく見開かれ、顔は引きつり、そして――。    ――カンッ!!
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