本編

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本編

 夜遅く、ナツミが部屋で資格試験の勉強に没頭しているといきなりピンポーンとチャイムが鳴った。人が集中している時に、しかもこんな時間帯に一体誰なんだろうか。 「夜分遅くに失礼しますにゃ。ニャツミさまはご在宅ですかにゃ」  もしかして、私が呼ばれたんだろうか。聞き覚えはないが、まるで小さな子供の様な、随分可愛らしい声だなと思った。玄関まで行ってこっそりと外を覗くが、訪問相手の姿が何処にも見えない。さては悪戯だったか。 「ごめん下さいませ。我らはクロヤス殿下とその使いの者ですにゃ。ニャツミさまをお迎えに上がられましたにゃ」  間違いない、私だ。普通だったら警戒するところだが、相手の声があんまり可愛らしいので危険だとも思えず、ついナツミはそのままドアを開けてしまう。 「ここー、ここですにゃ」  ナツミは思わず目を見張った。アパート二階の廊下部分に、ひと目には把握しきれない程の様々な品種の猫が、ズラリと勢揃いしているのだ。声を発しているのは、ナツミの足元にいる一匹だった。白い体毛に青い瞳がキラキラと輝いている。 「この状況、なに?」 「我らはクロヤス殿下の使いですにゃ」 「それはもう聞いた。てか、なんで猫が喋ってんの」 「お喜び下さいませにゃ。ニャツミさまはこの度、クロヤス殿下による特別のお計らいにて、かの御用撫(ごようにゃで)として猫城(ねこじょう)へのお引き立てが決まりましたのにゃ」  質問の答えの代わりに、返ってくるのは訳の分からない単語ばかりだ。  ナツミが流石に混乱しかけていると、 「クロヤス殿下の~おにゃ~り~」  何やら格式ばった声が響いてきて、猫たちが一斉にハハァ~ッとかしづく。  彼らの合間を縫って、すっかり置いてけぼりのナツミの前に現れたのは、いかにも偉そうな雰囲気を醸し出している一匹の太った黒猫だった。のっしのっしと現れたそいつは、真ん丸いエメラルドのようなグリーンの瞳をナツミに向け、若い男の声で言った。 「余の顔を覚えておるかにゃ、ニャツミよ」 「あれっ、あんたもしかして、この辺りでよく見かける……」  ナツミの記憶によれば、その黒猫はアパート周辺を根城にしている野良だった。  猫など山ほどいるじゃないかと言われそうだが、そいつは額の白ブチ模様が所謂()葉葵(ばあおい)の家紋そっくりな形をしており、無駄に特徴的だったから忘れようにも忘れられなかったのだ。ナツミの中では勝手に『殿さま猫』などと呼んでいたが。 「クロヤス殿下は、猫城一族のお世継ぎにあらせられますのにゃ。下々の言葉でいうにゃらば王子さまですにゃ」  最初にナツミと話した、例の白猫が親切に説明してくれる。面倒なので、こいつは従者猫と呼ぶことにしよう。しかしまさか、本当に殿さまの系譜だったとは。 「先日、余が身分を隠して民どもの暮らしを見守っておったところ、偶然出逢ったそにゃたに撫でられ、余は痺れる想いであった。以来忘れられにゃくにゃり、民どもに訊ねてそにゃたを探し回っておったのだにゃ」 「えーと……」  ナツミはちょっと言葉に窮してしまった。これは要するに、猫の世界の王子さまが私に一目惚れした的なことを言ってるんだろうか。喜ぶべきかどうなのか。  ナツミは実際、数日前にこの偉そうな黒猫を撫でてやった覚えがある。だがそれは通学途中たまたま手の届く範囲で、彼からナツミに鳴きかけてきたからであって、いわば気まぐれ以外何物でもない。いつも頻繁にコミュニケーションしているならともかく、その程度で好かれてしまっても、どう応じて良いのか分からない。 「御用撫に迎えられるにゃんて、大変名誉にゃことですにゃ。迷う理由がにゃいですにゃ」 「いやそもそも、御用ナントカって何?」 「猫城の御殿勤めで、クロヤス殿下を直接撫で撫で出来る、大変な御役目ですにゃ。花形中の花形といっても良いぐらいにゃのですにゃ!」  従者猫が力説に力説を重ねてくれるが、ナツミは未だにピンとこない。要はこの殿さま猫を撫でるための職務らしいのだが、何の意味があるやら正直サッパリである。何より、ナツミは犬派だった。猫は嫌いではないが、かといって特別に好きでもない。いわばインセンティブというものを感じられないのだ。  その時ふと、ナツミは昔読んだ童話を思い出した。うろ覚えだが、無能扱いされていた男が猫のお屋敷で数年間働くと、主人だった猫が美しいお姫様に姿を変えて現れ、男を夫に迎えにくるとかそんな内容だ。まさかとは思うが、このクロヤス殿下もナツミを嫁さんにするつもりなのか。家来として働くと、美男子になって迎えに来てくれたりするのか。  ナツミとて玉の輿を夢想したことぐらいはある。相手が猫で、しかも太っているというのは大問題だが、そこはそれ。内面はまだ分からないし、労働条件ぐらい確かめてもいいかもしれない。第一、猫をひたすら撫でるだけで仕事になるなら、如何にも楽そうだった。 「ねえ、ちなみにその仕事、時給はいくらぐらい貰えるの」 「お給料ですかにゃ? 俸給は毎月かつおぶし二〇枚と定まっておりますにゃ」 「えっ、現物支給なの!?」 「唯のかつおぶしじゃにゃいですにゃ。築地の魚河岸から取り寄せた最高級品、それも健康にやさしい減塩仕様にゃのですにゃ」 「早く豊洲へ移転しなよ……」  スマホで大雑把に調べてみると、最も高級なかつおぶしは一枚で数千円の値がつくという。だがそれが二〇枚ということは、最大限に見積もっても月給換算で一〇万円前後でしかない。それに現物支給が給料として成立するのは、例えば江戸時代の米のように、相場に基づく換金システムが存在してこそだ。猫社会ならいざ知らず、人間社会には今も昔もかつおぶしの換金システムなどというものは存在しなかった。 「案ずる必要はにゃいぞ、ニャツミ」  クロヤス殿下が任せておけとばかり、胸を逸らせて言った。 「ひとたび登城すれば、以後は寝食の全てを余が面倒見て遣わすのにゃ。俸給はみな、貯えに回すがいいのにゃ。他の多くの御用撫たちも、そうしておるのにゃ」 「んっ、いや待って待って待って」  ナツミには何やら、聞き捨てならない部分があったように思えた。 「御用ナントカって、私ひとりじゃないの!?」 「それはもう」  従者猫が大仰な仕草をして言った。 「殿下の毛並みとご気分とを預かる大切なお立場なのですにゃ。たったおひとりでは万が一があった時に、猫城一族の未来に差し障りますのにゃ」  ナツミはもう、この時点で殆ど興味が失せてしまった。何だかそれなりに夢のある話かもと思って聞いてきたが、何のことはない。要はこの黒猫一匹のための、ハーレムに加われということじゃないか。しかも給料はかつおぶしの現物支給。一瞬でも何かを期待した自分が愚かであった。  男手ひとつで大学まで行かせた一人娘が、月給一〇万円相当のかつおぶしを貰って野良猫のハーレムの一員などになったら、仕事で現在出張中のナツミの父は卒倒すること間違いない。いくら何でもそんな親不孝は出来なかった。 「うーん、悪いんだけど、ちょっと労働条件が折り合わないかな……」 「ほほう、そにゃた面白い奴だにゃ」  クロヤス殿下がいきなり、少女漫画の俺さま系男子みたいな台詞をほざき出す。 「庶民の多くは月にかつおぶし一〇枚が良いところだにゃ。それを二〇枚で足りぬとは中々に業突くだにゃ」 「いや、猫はともかく人間の庶民はそれじゃ生活出来ないから……」  猫に言っても仕方ないが、大卒見込み二〇代で月給一〇万円を業突く呼ばわりされるなら、そんな職場はブラックもいいところである。経営者はさっさと退陣した方がいい。 「それにさっきの話だと、働くとしたら住み込みとかになっちゃうんでしょ。私、不自由なの好きじゃないの」 「お宿下がりが年に一〇日と定まっておりますのにゃ!」  従者猫が慌てた様子で言ってきた。 「昔は三年に一〇日しかなかったのですにゃ、昨今の風潮を鑑みて、伝統よりも働きやすさを重視しておりますのにゃ!」 「いや、それでも大分少ないから……」 「猫城の伝統ある作法と格式が身につきますのにゃ!」  従者猫が更に慌てて言った。 「たとえ暇乞(いとまご)いの日が来ても、御用撫の名前は何処へ行こうと通用しますのにゃ!」 「猫カフェ行った時ぐらいしか使い道なさそうだよね……」  ナツミは段々、この従者猫が気の毒に思えてきた。 「キャリアが一回途切れちゃうと女はただでさえ厳しい世の中だし、今だって勉強の真っ最中だったの。人間社会で役に立たないのなら、お断りするしかないかな……」 「キャビアか? 余も大好物だぞ。ニャツミよ、気が合うにゃ」  所詮は畜生か、肝心なところで話が通じないのにナツミは段々イライラしてきた。どうでもいいが、こいつキャビアなんて食べてるのか。きっと贅沢な食生活をしてるのだろう。通りで太る訳である。どうやら価値観の一致もあまり望めなさそうだ。  ナツミはそれでも、あくまで「勉強があるから」とやんわり断ろうとしたのだが、 「ええい、面倒にゃ」  クロヤス殿下はナツミのしゃがんだ膝の上へといきなり飛び乗ってきて、そのまま鎮座して動かなくなってしまった。 「余にこうされて、喜ばにゃい者はいにゃかった」  ナツミもとうとう堪忍袋の緒が切れた。 「ふざけんじゃないよっ!」  不意にナツミが立ち上がって大声を出したため、クロヤス殿下はぎにゃあ、と無様な悲鳴を上げて膝から転げ落ちてしまった。 「こっちにはこっちの都合ってモンがあんのよ! あんたのために、誰も彼もが自分の人生を投げ出すとか思わないでっ! いい加減に帰んないと保健所呼ぶわよっ!」  ナツミのあまりの剣幕にクロヤス殿下をはじめ、猫軍団はことごとく縮み上がってしまい、やがて従者猫の賢明な判断により、彼らは揃って逃げるように去っていった。  さて、それから数日経過した頃のことである。  いつかのようにチャイムが鳴ったので出てみると、玄関前にクロヤス殿下が、たった一匹でちょこんと座っていた。  ナツミは念のため辺りの廊下を見回すが、家臣らしき猫たちの姿は何処にも見当たらない。 「この前は大変すまにゃかった。非礼を詫びたいのにゃ」 「いや、私もちょっと言いすぎたと思うし、あんまり気にしないで」  クロヤス殿下の打って変わった殊勝な態度に、ナツミは却って恐縮してしまう。  その後、冷静になって考えてみたら、猫相手に本気で怒鳴る必要もなかったと思ったのだ。こちらが猫社会の基準を知らないのと同様、向こうとて人間社会の基準など知りようもない。それにあの日は、大事な試験勉強を中断させられ気が立っていたのもある。諸々踏まえれば、大人げない対応だったのではないかと結論づけたのだ。 「今日はひとり? 他の猫は一緒じゃないの」 「そのことだがニャツミ、余はそにゃたの生き方を尊重するために、思い切って身分を捨ててここへ参ったのだにゃ」 「は!?」  ナツミはびっくりした。クロヤス殿下がまた何か妄言をほざいている。 「余に対しあれほど歯に衣着せぬ物言いをしたのは、そにゃたが初めてであった。余は改めてそにゃたに惚れ直してしまったのだにゃ」 「いやいや、だからってそんな大げさな」 「というか、余が出奔の決意を明かしたら父上とで口論になり、遂には勘当されてしまったのだにゃ。にゃのでどの道、余には帰る場所がもうにゃいのだ」 「そんな自分勝手な」  腰の低い態度と思いきや前言撤回、やはりこの猫は何処までも自己中心的であった。  とはいえ、これだけ会話した相手となると、本当に保健所送りは流石に寝覚めが悪い。どうしたものかナツミが困り果てていると、そこへ出張中だったナツミの父が帰宅してきた。 「ただいまナツミ。何を玄関先で騒いでるんだ?」  そこでナツミは先日からのあらましを、ひと通り順を追う様に説明した。すると、 「お~、そうかそうか~。君はウチの子になりたいのか~、いいよ~大歓迎だよ~」 「お父さァん!?」  急に表情を綻ばせ、文字通りの猫撫で声を出し始めた父にナツミは仰天した。  その時初めて聞かされたのだが、実はナツミの父は毎週末に駅近の猫カフェに入り浸るほど重度の猫好きだったのである。ずっと恥ずかしがって隠していたらしく、今までナツミすらも知らなかった衝撃の事実だった。 「そにゃたがニャツミのお義父上(ちちうえ)か」 「おいこら、誰がお義父上よ、誰が」 「余は世間を知らぬ故、何かと面倒をかけると思うが、にゃにとぞ宜しく頼むにゃ」 「そんなことないよ~、ウチの娘こそ不束者(ふつつかもの)だけど、こう見えてもとっても優しい娘だから、どうか大切にしてやってねぇ~、お~よちよちよち」 「うむ、苦しゅうにゃい」 「いやお父さん、喋る猫だよ。気にならないの。てか、勝手に話を進めんなや」  男どもの勝手な意気投合と馬鹿さ加減とにナツミは頭痛を覚えたが、その辺に放り出す訳にいかないという点だけは一致したので、ひとまずクロヤス殿下はすぐ近所の動物病院に連れて行かれることになった。一応は野良猫ということで大事を取ったのだ。  当初、我が家で飼うことには断固反対の立場のナツミであったが、やがて彼女はふと単純な事実に気付いてしまい、一転してクロヤス殿下の飼育に同意した。 「余の愛を理解してくれたのだにゃ、嬉しいぞニャツミよ」  その言葉を最後に、クロヤス殿下は数日間、動物病院へと預けられた。  ナツミの父は、クロヤス殿下飼育のためにかかる初期費用全てを、自らのへそくりから捻出してくれた。それ程に彼を飼えることが嬉しかったのだ。親子ふたりの間で、この際の費用は冗談交じりに『結納金(ゆいのうきん)』と呼ばれるようになった。  ナツミとしても実際、彼女を育てるため長年難しい顔ばかりしていた父のゆるゆると綻んだ顔を見られるのは嬉しかったし、ひとりの男として迫って来るのでなければクロヤス殿下にもむしろ愛着が湧き、積極的に御用撫を買って出ようという気になったのである。  数日後、帰ってきたクロヤス殿下はどこかむっつりしていた。  クロヤス殿下には病気予防のワクチン注射、そして去勢手術が施されていた。  かくして、ナツミをハーレムに迎えに来た筈のクロヤス殿下は、気付けば逆にナツミ親子の飼い猫としてお迎えされることに相成ったのである。めでたし、めでたし。  ……本当のところは、クロヤス殿下にしか分からない。 (おわり)
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