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金属音のような音が鬱蒼とした森の中で響き渡った。耳を塞いでも鼓膜の奥まで響くその音は、誰かの悲鳴のようにも聞こえた。音に驚いた鳥が一斉に羽ばたいたが、髭面で逞しい身体をした藍色髪の男はその声のした方へ走っていた。そのすぐ後ろを、男と同じ髪色の十代前半くらいの少年が追う。
「父さん! ばあちゃんの話しは本当なのかよ!」
「当たり前だ! 我らの婆様が嘘を言うわけがないだろう!!」
息を切らせながら言う息子に、前を走る父親は怒鳴るように言った。道無き道を走る彼らの行く先には、獣のような形をした魔物の死骸が数えきれない程落ちている。それらは全て、鋭い爪で切り裂かれたような傷を負っていた。そこから流れる血の臭いに気分を悪くしながらも、息子は父を必死に追いかける。
「婆様の予言が正しければ、この先に“リィスクレウム”がいるはずだ」
その名前に、息子は恐怖のあまり息を呑む。この二人が住む小さな村の予言者である”婆様”の言葉通りであらば、ここ近辺が――いや、この大陸が一体の魔物によって壊滅する、との事だった。
その魔物の名前はリィスクレウム。この村で古くから言い伝えられている邪悪な魔物だ。その姿は蛇のように鱗がびっしりと生えており、墨のように黒く、金色の瞳だったと言われている。それは人や魔物を四本ある手で見境なく爪を突き立て、嬲り殺し、破壊し、それは残虐だったという。それを討伐したのが、英雄と崇められるヴィクトール。彼は大剣に雷を纏わせ、人の数十倍の体躯であったリィスクレウムの心臓を突いたと伝えられている。
そしてそれから五百年。マカニシア大陸と呼ばれるこの世界は平穏を取り戻していた。――しかし、未来を予見する婆様によるリィスクレウムの復活という言葉。それは、再びこの地に厄災が降りかかる事を意味していた。
「リィスクレウムが本当にいたらどうするんだよ! 俺達、すぐに殺されるぞ!」
「大丈夫だ! 後からグルト王国より騎士団がやって来る! 婆様の予言によれば、リィスクレウムはまだ目覚めていない! 俺達はその偵察だ!」
「そんな事言ったって!」
「だからついてくるなって言っただろう!」
父親からの怒号に、息子は肩を竦めた。リィスクレウムは死んだが、この世界には魔物がうようよしている。この森も獣のような四つ足の魔物が生息していたのだが、それらは骸になり地に転がっている。これが異常事態だと、人生経験の少ない少年でも分かった。魔物討伐用に持って来た弓や剣は使わなくて済みそうだが、異様な雰囲気の森の様子に少年は悪い予感しかしなかった。
魔物の骸の道を越え、村の予言者の言った場所へ辿り着く。森の中で開けた場所だ。近くの村に住まう男と息子は、この森の中には土地勘があるので、指定された場所は確かにここなのだが、何も変わった所は無い。先程まであった獣の遺骸もここには転がっていない。――それが何とも不自然だが。
「何も、無いな」
「まだ復活していないとか? もしかして、ばあちゃんの予言が間違っていたんじゃない?」
「オウル! お前はまたどうしてそういう事を言うんだ!」
五百年前の最悪の魔物がおらず、オウルと呼ばれた少年はホッと安堵していたが、彼の言葉に怒りを覚えた父親は拳骨を落とした。リィスクレウムが復活しないのは平穏が保たれて良い事なのだが、村一番の予言者である婆様を悪く言われるのは許せなかったのだ。
「…地面を這った跡も無い。恐らく、まだ復活していないのだろう。とりあえず、ここは戻って報告をしなくては。――そろそろ騎士団も村へ到着する頃だろう」
頭を痛がる息子の首根っこを掴み、踵を返す男。――その時だった。
森の中で、赤ん坊の泣き声が聞こえた。魔物ではない。それは明らかに人間の子の泣き声だった。父と息子は、動きを止めて顔を見合わせた。
ここは魔物で溢れる森。腕に自信のある者しか踏み入る事の出来ない場所だ。そんな場所に赤ん坊の泣き声が聞こえるなど、有り得ない事だ。この森に幼子を棄てればたちまち魔物に喰い殺されてしまうはず。そんな恐ろしい事をする親がいるだろうか。父は自分の子に目を向けてから、赤ん坊の声のする方へゆっくりと歩を進める。オウルが父を呼んだが、その場に留まるよう手で合図をしてから、父は赤ん坊の声の出所を探る。
声は、どうやら目の前にある大樹の根の方で聞こえてくるようだった。辺りに魔物がいないか警戒しながら、自分の身体よりも太い根を、目を凝らしながら確認していく。大樹を目にした時は気が付かなかったが、裏は根元が鋭い何かで大きく抉られている。その隙間に、赤ん坊はいた。
赤ん坊の姿を見て、男は大層驚いた。何故なら、その小さな身体は赤い液体によって全身染まっていたからだ。突如襲ってきた鉄臭さに、男は慌てて自分の懐からそんなに汚れていない布を取り出し、赤ん坊に付着した血液を拭う。
赤ん坊は、無傷のようだった。彼を包んだ白かったはずの布は真っ赤に染まっているが、外傷は無い。男は安堵した。赤ん坊が怪我を負っていなくて良かった、とまだ泣き止まない顔を覗き込む。――そして、息を呑んだ。
血で汚れているが、申し訳程度に生えた髪は黒い。まだ目が開ききっていないくらい小さな赤ん坊。それなのに――。
赤ん坊の目が、こちらを見つめていた。いや、正しくは片目だけだろうか。赤ん坊は目を瞑り必死に泣いているのだが、右目だけはしっかりと開いており、男の顔を見上げていたのだ。まるで、赤ん坊の意思とは別の物のように見える瞳は、涙も流しておらず、金色の瞳で男を舐め回すように見ている。
「金色の、瞳――?」
人の子で、瞳が金の色を宿す者はほとんどいない。この色は、闇夜に光る魔物のもの。瞳孔が細く、まるで爬虫類のような瞳。そう、それは五百年前に死んだはずのリィスクレウムのような――
「ま、まさか……」
男の声が震える。赤ん坊は泣き叫びながらも、金色の右目だけは獲物を捉えた魔物のようにしっかりと男を凝視している。
彼らの慕う予言者は、リィスクレウムが復活すると言っていたが、どのような形で、とは語っていない。もし、魔物の姿では無く、人間として産まれてくるという事だったら――
「リィスクレウムが、復活した――」
男の絶望した声が、森に響き渡る。
予言は当たっていた。最悪の魔物だと言われていたリィスクレウムが、五百年の時を越えて赤ん坊の右目に宿って誕生したのだった――
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