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 それは俺が5歳の時の記憶だ。  初めて嗅ぐ甘い香りに惹かれて、橙色の小さな花を咲かせた木をじっと見上げていると 「その花がお気に召したかい」 低く穏やかな声がして、振り返ると白い着物姿の男が微笑んでいた。 「というより、香りが、かな?」  後になって調べたところ、それは多分、平安貴族や神主が着ているような狩衣というものだった。  烏帽子を被った男の肌は白く、唇は果実のように赤く、女にも見えるような柔らかで優しげな表情を浮かべていたけれど、心地良く響く低い声は男のものだと思った。  俺が黙っていると 「ごめんよ。邪魔をしてしまったかな。ここに花を愛でる来客があるのは珍しいのでね」 男は困ったように眉をハの字に寄せた。  決まり悪く思ったのか、す、と踵を返して行こうとするのを、思わず裾を掴んで止めると男は驚いた顔で振り返り、俺はなぜか頬が熱くなった。  口がきけなかったのは、この男が纏う、今までに会った誰とも違う空気に心を奪われたからだったと思う。  男は俺を不思議そうに見つめていたが 「……良い。わたしから話しかけたのだ」 誰かをなだめるように呟くと、その場にしゃがんで目線を合わせた。  午後の陽を受けた男の瞳は、琥珀色の宝石のようだと思った。
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