吟遊詩人と晩秋の月

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吟遊詩人のア―デット・ヨハンソンはぽっかりと浮かぶ満月を恨めし気に拝んだ。赤目池の守護を先代から引き継いで三日。書庫から大量の遺稿を発見した。 どれも推敲段階とはいえあまりに芸術的で多くの人を魅了した実力を窺い知る。己の未熟が悲しくなる。慣れぬ間はこれを用いて飛龍を退けよと言われたが拙いながらも魔導詩を自給自足せねばならぬ。 しかし読み耽る内にコツを掴んだ。駆け出した筆が止まらない。 だが飛龍の旬はもうじき終わり。昂る闘志のやり場がない。世の中ままならないというがなかなかどうして、人は摂理の一部だ。なのにヨハンソンは生き生きとしている。 獲物の不足に憤りを覚えるがそれがくびきとは思わない。先代が書き溜めた如く庫裏を草稿で満たし龍どもの盛りに供えるのだ。ヨハンソンは凛と浮かぶ月を睨む。凍てる風は輪郭を強調し月の存在感を高める。 見ているがいい。 冬来たりなばいさりびを焚きつけ闘いの狼煙を絶やさぬまで。さて、とヨハンソンは真新しい紙を取り出した。紅葉ほどの小さな白宇宙にありったけの生存欲求を注ぎ込む。 いや、待てよとヨハンソンはかぶりを振った。大きな闘いを待ち望む日々をどうしてせせこましい創作でしのぐ必要がある。でっかい紙に思いのたけをひろげればいいではないか。気を取り直して小屋に戻った。 「気が向いたら解け。お前に必要なものがある」と記された包みがある。はやる心を抑えきれず一心不乱に開封した。丸まった筒をひろげると先代に託された白紙委任状があった。両手いっぱいでも図り切れぬ幅。「よし!よし!」彼は高まる鼓動を詩にしたためるのだ。 いつ眠ってしまったのだろう。びょうびょうと細長い風が頬を走っている。 眼を開くと生臭いにおいと鱗が目と鼻の先にあった。 ヨハンソンが身を起こすとそれまでゆっくり揺れていた地平線が消えた。 「あっ、お前は?!」 白紙がひらひらと星空に飛び去る。そのさまを見てヨハンソンは察した。 飛龍は空高々と舞い上がると地上から飛び立った。一つ一つは小さなものだ、というのに飛び切り大きくも深い。一つ一つ、その生きる道筋にあふれ、彼は生きる者を導いていく。飛龍という巨大な生きがいとは彼の人生が生んだものである。ヨハンソンは思う。私たちは何にも縛られない。だがヨハンソンは彼を生み出した、と。 *** 雪が降り続く、その夜。 窓の外の暗がりから、薄日が差している。雪はあちこちの生き物の命を奪う、そういう日だった。 しかしそこには星はなかった。 雪は止むことも。 星は消えてしまう運命にある。 ──私が── 窓のそばで、ぼんやり明滅する白い光と消えて逝く命の影。 夢だったのか、現実だったのか。 ヨハンソンはそれを思い浮かべた。 それは今から1305年前、今の私のものではない。 今からここに運ばれてくる。 星の命を司る月“天”。 月の持つ光である。 星の命で月。 私にも、 願いを…、 ここに願いを置いておく。
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