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商店街を戻って駅の反対口に出た私たちは細く入り組んだ路地を奥へと進んでいく。途中から二人が並んで歩ける幅もなくなるので、私が先に行って後ろからついてくる妻の歩幅に合わせながらさらにディープな世界に踏み込む。十分ほど歩くと開けた道に出て、私と妻は道を横断した。
『居酒屋 鶚』
妻と話し合った結果、夕食は外で食べることに決定した。そして滅多に外食のしない私たち夫婦が行くところと言えばここしかない。
「先に開いているか聞いてきますね」と妻が私の前を通り過ぎて店の暖簾をくぐった。その時、妻の美しい黒髪からふわりと土の香りがした。そして、私は妻と逢うのが約二カ月ぶりと言うことに気づいた。
妻のコトは考古学を専門とする学者であり、夏から東北の大学に講義をするのと同時に周辺の遺跡を研究するということで約二か月間出張していた。妻の対応があまりに普段通りだったので、私も今朝まで妻がいなかった二か月間の日々を忘れていた。
「空いているようです。入りましょう」
暖簾から顔を出した妻が手招きをしている。私は店の敷居を跨いだ。
「いらっしゃい。笹本さん」
店に入るとカウンターの奥で作業をしていた大将が迎えてくれた。きりりとした顔立ちと大木のように太い腕から若いのだろうが、彼の凄さはその知識量である。飲食店には様々な客が来る。私のようなサラリーマンやコトのような学者、大工や美容師や海外の客まで来る。年代性別、職種も異なると食べている最中の会話の内容も多種にわたる。大将はどの人の話題にもするりと入っていくことができるのだ。彼の博識ぶりは人間の一生以上のものが詰まっている。
こちらへ、と促されるままに私たちはカウンターの席に腰を下ろした。すぐに温かいおしぼりが目の前に置かれる。
「急に冷えてきましたね。それにしてもお二人で来るのは久しぶりではないですか」
「はい。なかなか来ることができずに申し訳ありません」
「いえいえ。こんな飾り気のない店にこうして来てくださるだけで私は幸せです。笹本さんはいつもので?」
「お願いします」と短く告げる。ここに来たときの一杯目は富山県の銘酒である羽根屋の煌美と決まっている。奥へ向かった大将は徳利とお猪口を二つ持ってきた。お猪口はどちらもガラス製で朱色が妻に、薄い水色が私の前に置かれた。
まだ妻は飲み物の注文をしていない。それに妻が飲むのは年末くらいで、普段は専らお茶を好んで飲む。しかし、妻は両手で包むようにお猪口を持ち上げた。
「ありがとうございます」
「今日は笹本さんのお誕生日ですからね」
これが大将の大将たる所以である。
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