名残の花~会津終章~

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 仲秋の名月の宵、男はひとり縁に正座し、月の出を待った。  花活けに七草を配し、三宝に酒と盃、そして心ばかりの肴を設え、しんと静まった静寂の中に端座する。  どれほどの時が経ったろうか。  ふいに花のような蜜のようなふくいくとした薫りが鼻を掠めた。  男は、対面に設えた錦の座に向かって静かに頭を下げた。薫りが少しずつ強くなる。 ー何用じゃ?ー  頭上から零れてくるのは、白珠を転がすような、鈴を転がすような円やかな声。 ーそなたは何者ぞ?ー 「不束ながら、この度、この城に住まいさせていただくことになりましたる者。僭越ながら主様にご挨拶させていただきたく罷り越しましてございます」  頭を下げたまま、丁寧に落ち着いた口調で男が口上を述べた。 ーふ......ー  と小さな笑い声が耳に触れる。品の良い、なんとも艶やかな響きに、男はかすかに身動いだ。 ー我れはとうの昔にこの城を去った。だいたい我れがこの世を去ってよりいかほど過ぎていると思うてか?ー 「は......」  男は一層深く頭を下げた。 . 「聞き及ぶに六十有余年と......。なれどこの城に入るなれば、主様にお許しを乞わねばならぬ、と。お許しなくばすぐに追い出されよう、と伺いましてございます」 ー誰じゃ、そのようなことを言うておるのは......あぁ、あの伊達の小童(こわっば)かー  一瞬、眉をひそめるような気配がよぎったが、直後におかしそうな含み笑いに変わった。 ーあの小僧は達者にしておるか?ー 「伊達中納言さまは、先年鬼籍に入られましてございます。幕府の、武将の長老として公方さまの信も篤く、我ら若輩達によう戦語りをして下さいました」  男の言葉にその声はますますおかしそうに、だが少し淋しげに笑い、そして懐かしそうに呟いた。 ーあれも大概にきかぬ男ではあったが.......そうか......。無事に一人前になっておったかー 「は......折に触れ、会津藩主は主様にご挨拶は必須と。もしお目通り叶ったなれば、盛隆公にはよろしゅうお伝えいたせ、と。政宗が心から詫びておったと申し上げよ......と」 ー律儀なことよー  クスクスと笑う声はどこまでも涼やかで、男は胸が自然と高鳴るのを押さえきれなかった。   ー面をあげよー  男が声に引き上げられるように顔を上げると、ほの明るい光の塊が目の前に端座していた。  姿形は既にはっきりとはわからぬ光の塊だったが、それが蘆名の最後の当主、この会津若松城の護りとなった青年である、となぜか瞬時に覚った。 ーそのほう、名はなんという?ー 「保科正之......にございます」 ー将軍のご落胤......かー  光の発する声に、男はわずかに身を震わせた。  男は徳川二代将軍秀忠の種でありながら、正室の御台所を憚り、ずっと信濃高遠の地で育った。 ーなぜ徳川を名乗らぬ?ー 「畏れ多いことにございますれば.....」  男の養父、保科正光は実に情け深い男だった。自身の嫡男を差し置いてまで高遠藩の跡を継がせた。  そして、それを知った異母兄達も大層、男を大事に重用してくれている。 「方々の情けによって永らえておる身にございますれば......」  男は言って再び深々と頭を下げた。 「どうか、この会津の城にて、天下万民の為に尽くすことをお許しくださいませ」 ー天下万民のため......ー 「左様にございます」  光が、つい......と立ち上がった。 ー上杉どのも律儀な男であったが、そなたはそれにも増して実直な男のようだなー 「畏れ多いお言葉にございます」  平伏す男の前で、光がひときわ大きく強くなった。 ー我らも多忙な身ゆえ、常にとはゆかぬが、時には様子を見に来てやろうぞー  男は視線の先で、ひときわ大きな光が盛隆の光を包むのを見た。   「佐竹公......」  ふと、光が思い出したように揺れた。 ー城の庭に八重の桜を植えたはそなたか?ー  男は小さく頷いた。 「八重は遅咲きにございますが、花の時も長く、風に散るも稀にございますれば.....」  呟く男の眼前で二つの光はひとつになり、眩しく、男の視界を覆った。 ー達者でおるがよい.....ー  光の中から鈴を振るように円やかな声音が微笑み、そして一瞬の後、光は消えた。  静寂に戻った夜の中で、男はただじっと頭を下げて、この城の主の慈愛を噛み締めた。  会津松平藩は男の孫の代において初めて松平を名乗り、葵の紋を用いた。  しかし、幕府への忠誠の深さは、この初代保科正之より始まり、幕末維新の松平容保(まつだいらかたもり)まで連綿と受け継がれ、幕府の安泰の礎となった。  その最初の夜のことだった。
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