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 彼女が水遣(みずや)に立ったあと、銀の炉を床へ戻し、懐から畳紙(たとう)を取り出した。  出がけに包んできた、ひと匙分の沈香だ。そして、中身を志野棚の中段に置かれた香合へ足しておく。  それこそが、僕がここへ来た理由でもあった。  彼女は、この屋敷の垣から外へは出られない。 ーーーーーーーーーーー  帰りの(みち)すがら、高瀬川は浅い流れに銀杏(イチョウ)を浮かべていた。しのびゆく雨が気まぐれに波紋を描く。  傘を勧められたが、そのまま出てきた。薄墨色をした雲を見て、強く降ることはないだろうと見越した。  川端(かわべり)の料理屋の格子窓に燈が灯った。柔らかい光を湛えた水面には、冬間近の冷たさが静かに響く。  対岸ちかくには青鷺が身じろぎせず佇み、先刻の名残が袖口に揺れる。  瑠璃つづく水の音が僕の耳を撫でた。 【了】
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