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私はついてない
私はついてない。
一番古い記憶は、小学校の入学式。桜の樹の下で集合写真を撮った。クラスメイトとその両親で、100人はいたはずなのに、私の背中に毛虫が落ちた。それから1週間、かゆみで苦しみ、回復して登校した時には、もう他の子は学校に馴染み、グループができていて、私の居場所はなかった。
そもそも人見知り気味な私は、小学校に馴染めないまま6年間を過ごした。
中学こそはと思った入学式の日、母が亡くなった。くも膜下出血で倒れ、そのまま亡くなった。その日から1週間後、登校した時には、そこには、やはり私の居場所はなかった。母を亡くして、家事をこなしながら学校に通った私には、友達と仲良くなる暇も余裕もなかった。
勉強だけはできた私は、珍しく無事に第一志望の高校に進むことができたが、やはり友達と遊ぶことも部活動にかまけることもないまま受験生になった。
これは、ついてないからではなく、自分のせいだということも、なんとなくは気づいている。でも、やはり、自分はついていないと思わずにはいられなかった。
医者を志した私は医学部を目指して2浪した。そして、3度目の受験のとき、予備校の掲示板で目にしたのが、富士海洋大学という新設の大学のポスターだった。海洋資源学部とか海洋環境学部とか、なんだか耳心地のいい言葉につられて、願書を出した。そして、3度目の受験で合格したのは、富士海洋大学の海洋生物学部だけだった。
入学するかどうか迷ったが、その絶妙なタイミングで、父が再婚することになった。父は私が医学部に合格するまではと結婚を伸ばしていたらしいが、相手の女性が妊娠したため、結婚を急ぐこととなった。新しい父の家庭に、ついてない私がいることが、なんだか申し訳ない気がして、私は海洋大に進学を決め、一人暮らしを始めた。
大学の入学式の日、式の途中で体調が悪くなり、アパートの部屋に帰って熱を測ると39℃を超えていた。次の日、病院に行くとインフルエンザと診断され、そのまま1週間寝込んだ。やっと回復して大学に行ってみると、ガイダンスやサークル勧誘期間は終わり、またしても私は、学校に馴染むことに失敗してしまった。
大学は元々水産大学で、経営者が代わって名前を変えただけで、新設とはちょっと違っていた。校舎は年季が入っているし、上級生もいた。一部、新しい研究室ができたり、新しい先生を呼んだりしたようだが、ほとんどが水産大学のままのようであった。学生は、漁師や養殖業者を目指す男子学生がほとんどであった。
女子の友達を作ることさえ難しい私には、とても辛い環境であった。
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