Love you. 後編

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Love you. 後編

 「さすがだな。」  カイトさんが、GoProの動画を見てため息をついた。小山先生もとなりで頷いている。  大会二日目の夜、カイトさんと小山先生が旅館に合流してくれた。  お風呂に入ってご飯を食べると早々にネコを抱き込んで眠ってしまったから、(天さんは雪さんがいないのが、ほんとうに寂しくて仕方がないらしい。)ふたりとも天さんには会えていないんだけど。  ふたりとも 「もちろん最初のヒートから見たかったけどさ、」 などと笑っている。  「チビを三日、バァチャンに預けんのはキツいんだよ。」 て、カイトさんの言い分はわかる。が、  「旅費が三日も、でないからさ。」 て、小山先生、オトナノジジョウで生徒をほっぽりださないでください!  「天くんが引率みたいなものでしょ?」 なんて、笑っている。天さんの試合なんですけど…  それでも一日目ときょうの結果が気になるのは当然で、なぜだかふたり、ぼくの部屋に集まり、動画を見ていたのだ。  「だってタカシにネコを取られて寂しいだろ。カイトさんが一緒に眠てやるよ。」  いや、いいです。丁重にお断りします。  「小山センセイ、オタクの生徒が失礼だけど?」 「あ、うちの子にセクハラはやめてください。」 「えぇ…」  ひとしきり冗談? を飛ばしていたけど、一度動画を見はじめてしまえば、別人のように真剣だ。  「ステファニーのライディングを、思い出すよな。」 「あぁ〜、そうかも。」  ステファニーがだれなのかぼくにはわからないのだけど。きっとあした、最後の試合も、ため息がでるようなライディングを天さんは披露するに違いないのだ。  だれに?  だれのために?  ぼくは動画に見入っているふたりを部屋の角で眺めながら思う。  ジャッジでもない。  ギャラリーでもない。  他の選手にでも、ない。  終了のカウントがはじまるなか曇天の空に突き上げられる天さんの勝利の拳は、ここにはいない、  「楽しそうにのってんな。まぁ…安心したわ。」 「ぅん。」  雪さんに向けてなんだ。  「ありがとうな、コータ。…コータ?」 「…浩太くん?」  小山先生も知っているはずだ。  どうして天さんは、雪さんにすべて与えることが、できるのか。  じぶんの生き方、さえも。  「……、」 カイトさんが口の端だけで笑って、カメラをしまう。  「浩太くんさ、」 小山先生は旅館の浴衣を引きずって古い座卓によると、安そうなお茶を入れはじめた。  ぼくはもうこの一ヶ月で、『ぼくがやりますからっ』なんていえる、気の利いた生徒ではなくなっていた。  ただ、じぃ、と、その様子を目で追う。  ぼくが知りたいことを察したであろう小山先生がなにをはなしだすのか、その表情を窺いながら、小山先生が入れてくれた薄いお茶を手にする。  カイトさんもお茶を手にして、けど、少し引いて傍観を決めたようだ。  「空欄でだしちゃったの? 進路調査。」  ……、え?  思わず目を見開く。  いま、そのはなしですか?  ぼくは、天さんの…、  小山先生はかまわずつづける。 「井上先生が困ってたよ。」 「あ、えーと…」 「大学進学でしょう? もしかして、うちじゃ大学進学は無理だとか、思っちゃった?」 「……、」  ぼくは大学進学すら結局、消して白紙で提出していた。  未定、ではなく、白紙で。  「あ、…ただ…思いつかない、だけで…」 「思いつかない、から、」  口元は優しく笑んでいる。柔和に。  けれど決して、甘くは、ない。  捉えたものを離さない目が、ぼくを見据える。  「だから、卒業して薬が手元に戻ったら、消えてしまおう、て?」  「……っ、」 思わず肩が跳ねてお茶を溢しそうになる。  温かいお茶を手にしているのに、指先から冷えてゆく。  そうです、なんていえないけど、違いますとは、いえない。  あの日、入寮したあの日、小山先生はやっぱり気づいていた。  卒業の先なんて、もうなかった。  将来なんて、もういらなかった。  消えてしまいたい。  消えてしまうしかない。  愛のない、ぼくなんて。  そう、この学校へ来た。  長引いたのは薬を管理されてしまったのと、  ネコのもみじ饅頭のせいだ。  あの手に引かれていると、おかしな夢を見てしまう。  いまこの時間がきっとずっとあって。あした目が覚めたらまたデニッシュを頬張って。ひまわりみたいに笑うネコと波にのって。  ずっと、ずっとそうしていたいって…  そこで、ハタ、と、思考がまわれ右をする。  将来…?  ぼくの将来なんてどうでもいい。そもそも消えるつもりでここへ来たのだ。卒業したら海の藻屑にでもなればいい。けれども、  「あの、ネコは、」 「ネコ?」 「ネコ…、ネコは、卒業したらどうするんですか?」  母親は消えてしまった。  たぶん、塀の向こう。  消したのは小山先生。  ネコが病院に搬送されたあの夜、実直な井上先生に油断して現れた母親を下田駅で迎えたのは、きっと、小山先生だったんだろう。たぶん、平井巡査と。  ネコはいま、神奈川の児童相談所が帰る場所だ。けれどそれは十八歳まで。卒業したらそこに帰ることはできない。  「児童相談所にはもう、」 「ねぇ、浩太くん、」  小山先生が遮ってくるのに戸惑う。余計なことを、訊いてしまっただろうか。ぼくになにができるわけでもないのに。  「決めた通り、進めば、いいよ。」 「……、は、」 「やりたいことが、あったんだよね?」  たしかに、あった。  けれど、  「なんで? て、顔だね。」 そうゆう小山先生の向こうで、ククッ、と、カイトさんが小さく喉を鳴らす。  「天くんのことも、じぶんのことも、ネコの将来のことも、浩太くんは、」  小山先生も、柔和な丸い目を僅かに細めて、笑う。  波を捉えた、愉快そうな目で。  まだない波を水平線の向こうに見る、  波乗りの、目で。  「もう、わかってるんだよ?」  その日の夜。  ぼくはネコを取り戻すべく天さんの部屋に侵入すると、天さんのお腹に脚を投げだして大の字になっているネコを腕の中に眠ることにした。  「はぁ、はは、」 あくび混じりに笑う声がして、天さんの太い腕がネコとぼくとふたりを抱き込む。  天さんはきちんと布団を三組、敷いてくれていた。  雪さんの予言通り、天さんは大会最終日まで勝ち抜いていた。  三脚に立てたGoProのとなりで、天さんのヒートを待つ。  カイトさんも小山先生も、この一ヶ月で見てきたのとはまったく別の表情だ。  「あ! たかしさん!」  前のヒートが終わり、黄色いゼッケンを着た天さんが、ビーチに立つ。  ゆっくり顔を上げる。  静かに、海を見据える。  凪いだ海のよう。  静かな、いつもと変わらない天さんの目だ。  右手の拳を、胸におく。  左肩と胸の間、心臓の少し上。  いまはゼッケンに隠れて見えないそこに、  なにがあるかを、知っている。  命をかけて戦う、剣と勇気が。  大切なものを守るために。  たった、たったひとりで。  ホーンが鳴る。  天さんと、他二人が海へ飛び込んでゆく。  沖へでてしまうと、黄色、て、ゼッケンの色だけが目印で、もうだれがだれだかわからない。  一本目、天さんは波を見送る。  二本目、よりほれた波が上がる。  天さんがピークを獲る。  波間ではわからなくても、一度波にのってしまえば、ゼッケンなんかなくたってそれが天さんなんだって、ぼくたちには、わかる。  大きなパドル数回で波を掴み、ふわり、ボードにのる。波のボトムまで滑り降りて、大きく、カーブを描いてゆく。  波をなでるように。  天さんそのもの、ゆったり、乱れない、大きく波を抱くようなマニューバがキレイな弧を描く。  「イエロー、雨飾天…いいですね、大きなカービング…、最後にもう一つ、インサイドで…」  手前の波がぶつかり崩れてくる寸前、宙に踊りでて最後、スープにブレることなく着水する。波をふり払うように頭をふり上げて拳を空に突き上げる。  「……決めました! スコア…」  実況が聞こえる。  あたりまえだ。  いま、波の上にいるのは、逗子総合高校下田分校三年、ぼくたちの天さんだ。よくて、当然だ。  ぼくは競技サーフィンのルールなんか知らない。それでも、だれの気持ちだって掴むサーフィンなんだって、なにも知らないぼくでも、そう思うんだ。  ぼくはほんとうに誇らしい気持ちで実況を耳に、三脚の横に、黙って座っていた。  きっと、今井浜にある病院の窓からもこの海の青が、見えている。  多々戸浜とはまた違う、太平洋にそのままでてゆく広く広く、広がる海の。  梅雨の空に散る、この海の波の、しぶきが。  天さんは十六.三(どうやってこの数字とかはまったく、もっといえば満点かいくつなのかもわからないんだけど、)のスコアで、無事、プロトライアルを通過した。  「おぉぉぉぉおっ!」  表彰が終わると、天さんはネコを肩車して海岸を走り回っていた。  「ひゃぁぁぁぁあ、はははっ! はやいはやい!」  「はははっ! おぉぉぉお! 落ちんなよ、ネコ!」  愉快でたまらない。  楽しくてたまらない。  しあわせでたまらない。  トライアルを通過したからじゃない。  雪さんの夢を叶える足掛かりをつくれたことが、だ。  「雪く〜ん! いますぐ帰りますよ〜!」 「ますよ〜!」  ネコを肩車したまま、スマートフォン越しに雪さんに手をふり、千葉の海を見せている。  どの合格者も友人や家族に担ぎ上げられて雄叫びを上げている。  けどそれは天さんの勝利のかたちじゃ、ない。  世界の海を見て、  雪さんと。  どこかふたりで、  子どもたちと、  楽しく暮らす。  ああやって、肩車なんかして。  一緒に波にのって。  みんなで眠って、  ケーキを食べて、  砂浜でウクレレを弾きながら  ディナーなんかして。  大きな家族で。  天さんの、  守るもの。  たった、ひとりで。  勇敢なライオンが、守るもの。  たった、ひとりで。  それはじぶんの、家族(プライド)、だ。  散々走り回り、声が枯れるまでネコと叫んで、気がすむまでそうしているのを、ぼくたちはただじっと、見守っていた。  後日、JPSAホームページの大会レポートに『息子と喜びをともにする雨飾選手』なる写真が掲載されて、ぼくはこっそりその写真をカメラロールに保存した。  『ソッコー戻るから。』  そう、ぼくたちより先に下田に戻った雪さんは、寮へは戻ってこなかった。  千葉からそのまま、雪さんの待つ病院へ戻ったのだ。  「雪さんと、帰ってくるよ。」 「ふぅん…」  海ほたるパーキングエリアでタイムカプセルポストにだそうとしてだせなかった雪さん宛の手紙を手に、ネコはぼんやり雨に煙る海を、見つめていた。  天さんが寮に帰ってきたのは、その三日後だった。  「ただいま。」  寮の玄関に迎えにでていたぼくたちに、天さんはそう、いつもとなにも変わらない様子で、柔らかく笑う。  雪さんの姿はなくて、ただ、天さんの掌に納まる、小さな白い木箱が、一つ。  「おかえり。」  小山先生がそう、静かに応えた。  寮に連絡が来たのはきのうの夜だった。  夕食のあとそのままはなしがあるからと、食堂に残された。  寮母さんとひろみ先生、井上先生。谷川先生も食堂に控えている。  小山先生と、寮に来ることはまずない教頭先生がしかも黒いネクタイで現れて、ネコの他はなにがあったのかすぐ悟ったようだった。  「きのう、の、夜中に、」 掠れた声を絞り出すように、教頭先生が口を開いた。 「喘息の発作が悪化して、」  教頭先生はなんど泣いたのか、真っ赤な目を伏し目がちに、生徒たちの顔を見ることさえできない。  「雪くんが、亡くなりました。」  空気が凍る。    『常識的』な反応ができる生徒など、ここにはいない。みな、表情を強張らせたまま、教頭先生を見つめている。  「あした、寮に、戻ってきます、ので、」  教頭先生はそこでまた込み上げてくるものを堪えられなくなってしまったようだった。  ネコのときもそうだった。  この人はこんなに、どうして、  赤の他人である生徒たちのために  泣くことが、できるんだろう…  ぼくはそんなことをぼんやり、考えていた。なにが起きたのかキョロキョロみんなの顔を見回すネコをきつく抱きしめながら。  みんな、微動だにせず、固まっていた。表情ひとつ、動かすことが、できなかった。  「みんな、心配かけて、ごめんな?」  ただ立ちすくむぼくたちに、はは、と、天さんが沈黙を破って軽く笑った。  「…シ、サンっ、」 最初に動いたのはレオだった。  「……っした!」 弾かれたように九十度の礼をすると、天さんに駆けより荷物を受け取る。ぼくもあわてて、スポーツバックの方を受け取った。  「あぁ、サンキュ…、でもほら、もう、みんな、メシだろ?」 不安と戸惑いを隠せないぼくたちを食堂に促して、じぶんは、  「あ、オレ、きょう、ご飯は…、」 「そう? お部屋に持っていきますよ?」 寮母さんが頷く。 「ぼく、持っていきます。」 「そうか? サンキュな、ユウト。」 笑って天さんはユウトの頭をなでた。  「悪いね。」 「いえ、」  レオとぼくに荷物を持たせてくれたのは、天さんの優しさだ。  ほんとうはさっさと部屋にこもってしまいたかったに違いない。  それなのに、部屋の前まで来ると、そういつも通り笑ってぼくとレオの頭をなでてくれた。ついでにくっついてきたネコの頭も。  「じゃぁ、ぼくたちは、食堂にいきます。」 「おぅ。」 「いくよ、ネコ。…ネコ?」 「ゆきさんは?」 「ネコっ、」 仔猫みたいな目を丸くして、ネコは天さんを見上げていた。  「ネコ、きょうは、」 思わずネコの手を取るけど、ネコは動こうとしない。  「ネコ、」 動揺が隠せない。  きのうの夜、 「雪さんが、亡くなったんだよ。」 部屋で改めて説明した。そのときは 「しんじゃったの?」 「そう。」 「ふぅん…?」 頷いていたのに。  わかっていなかったんだ。  亡くなる…死ぬ、の意味を。  身体が小さいだけじゃない。  ものの理解する範囲もまだ、幼いままなんだ。  『しんじゃった』けどまた、帰ってくるに違いない。だって帰ってくる、て、いったんだから。天さんと。  そう、考えていたんだろう。  どうしよう、ぼくが、  ぼくがきちんと説明しなかったからだ。  死ぬってなにかを、説明しなかったからだ。  「いいよ、コータ。」 天さんはぼくを手で軽く制すと、屈んでネコに目線を合わせた。  「ごめんな、ネコ。」 柔らかく笑う。  「ごめんな、雪、帰ってこれなくなっちまったんだ。」 「なんで?」 「死んじゃったんだ。」 「うん。」 「なくなっちゃたんだ、雪。」  ネコが目を見開く。  いなくなった、じゃない。  なくなった。  天さんはそう、ことばを選んだ。  父親や母親とは違う。  どこかにいて会えないのとは、違う。  雪さんは、  なくなって、しまったのだ。  天さんの目はどこまでも穏やかで、どうしてこんなときも、凪いだ海のようでいることが、できるんだろう。静かな目に、喉がキュウ、と、締まるようだ。  「病気で心臓がとまっちゃったんだ。心臓がとまるとニンゲンは土に戻っちゃうんだよ。」 ネコの瞳が、戸惑いに揺れる。  「雪は、土に、なっちゃったんだ。もう、『ゆきさん』ていう人は、ないんだよ?」  ネコにはまだ、人が亡くなるということを、理解することができない。大人だって、理解できないのだ。大切なだれかが亡くなるなんて。  ただ、理解できるのは、  「かえってこないの?」 「もう、ないからね。」 「もう、あえないの?」 「そうだね。」 「あいたいよ?」 「会いたいな。」 「あいたいよ、」 「会いたいな、」 「はっ、…、」  ネコの目にみるみる涙が溢れて、瞬きをした拍子に、コロリ、頬を転がる。  「あ、あいた、…」 渡そうとしていたんだろう、手にしていた手紙が、小さな手の中でクシャリ、音を立てる。  「ネコ、悲しいな。」 「かなしい? かなしいの?」 「悲しい。オレは、悲しいよ?」 「かなしい? コータ、コータっ、」 「ぼくも、悲しい、悲しいよ?」 「かな、かなしい、かなし、ゆきさん、あ、あぁぁっ」  悲しいを、きっとネコは知らずに育ってきた。  母親と離れてやっと健全に動きだした心が、シクシク、泣く。  かなしい、  かなしい、  あえなくて、  悲しい。  涙が、  怒りでも  こわいでも  痛いでもない涙が、  溢れてとまらない。  「悲しいな。」 天さんが、繰り返す。  いま、これが、悲しい、だ。  かなしい、かなしい、かなしい。  大切なものがなくなってしまった。  もう、会えない。  この手紙を、  渡すはずだったこの手紙を。  かなしい、かなしい、かなしい。  「うぁぁぁぁぁぁぁぁあ、」 泣きじゃくるネコを、天さんがきつく抱きしめる。  「わぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ」 小さな寮を揺らすように泣き声が響く。  もう、『雪さん』という人は、いないんだ。  ブワリ、感情の波が迫り上がる。  胸の奥が潰れるみたいだ。  奥歯を噛んでも涙はとまらない。  レオも、声を押し殺して俯いている。  「レオくん…、」  夕飯を届けにきたユウトも、レオの肩を抱いて。  どうしようもなくまだ子どものぼくたちを、天さんはまとめて抱きしめてくれた。  開け放たれた窓の向こう、闇が緩くうねる海に、月灯りが溢れて揺蕩う。  泣いて、泣いて、泣いて…  その涙すべてを、ここで受けよう。  そう、潮騒が優しく囁く。  食堂でもきっと、みんな、泣いている。  きのうの夜、思考が停止したように感情が麻痺したぼくたちは、やっと、雪さんが亡くなったのだということを、理解した。  ネコが泣き疲れて眠ってしまうまで、そうやって天さんは、ぼくたちを抱きしめてくれていた。  それからも天さんは、いままでとなんら変わらない様子ですごしていた。  ただ、もう授業を受ける必要はないからと学校には登校せず、退寮の準備と合間に波乗り、たまに、神奈川にも帰ったりしているようだった。  「天くん、どうしたかしら。」 寮母さんが、マッシュポテトをこねる手をとめて顔を上げる。  「まだ、海かも。わたしたちが上がるとき、まだ海でカイトさんとはなしてました。」 一番遅くまで海に入っていた月子さんが、慎重にパンケーキの種をフライパンに注ぎながらいう。  「あらまぁ。」  あしたは天さんの退寮だ。  雪さんがいないのでは高校にいる必要もなくなった天さんは、卒業を待たずに逗子総合高校下田分校を去ることにしたのだ。  そのあとのことは、だれも知らない。  「も、少しゆっくりしていっても、いいじゃんね…」 なんて遠くを見ているカイトさんにも、知らせてないんだろう。  そして、今夜は天さんの送別会なのだ。提案はユウトで、天さんはやっぱりいつも通りなんでもない顔ででていくつもりだったみたいだけど。  友だちが転校するときには送別会が必要だ! と、『よくわからない』て、表情(かお)のレオに熱弁していた。  「浩太くん、ちょっと見てきてくれるかな。」 ネコがひろみ先生のお手伝いに夢中になっているのを見計らって、小山先生が耳打ちしてくる。 「はい、」  ぼくが視界から消えるのをネコは最近極端に嫌がるようになってしまい、こうして先生たちは隙を見てはぼくをひとりにする時間をつくってくれていた。  「育児ノイローゼは侮れないのよ。」 谷川先生はそう、真顔でいっていたけど。  急ぐでもなくビーチサンダルを引っかけて海岸へでる。もともと小さかった波はもうこの時間にはほとんどなくなり、小さなうねりが岸辺で、ザァ、と崩れるだけになっていた。  海に入っているサーファーはもう、  「天さん、」  ただ、天さんひとりだった。  エリアのちょうど真ん中あたりに、ポツリ。  さきほどまで降っていた雨は止んで、雲の切れ間から覗く夕焼けが、絹のカーテンを引いたように天使の梯子を海へ降ろしていた。  深いグレイの海がにわかに降ってきた光を鈍く散乱して輝いている。その海の中で、天さんはひとり、波待ちをしていた。  来ない波を、静かに、待つ。  ひとり。海に、  たった、ひとりで。  ぼくは小山先生にLINEを一つ打つと、急いでボードを取りに寮へ戻った。  「なんだ、上がったんじゃなかったのか?」  ゆっくりパドルして、天さんの横に並ぶと、気配に気づいたのか、小さく口の端を上げる。  天さんと海で並ぶのは、はじめてだ。  あたりまえだけど、結局ぼくは天さんと波にのることはできなかった。こうして天さんと波待ちをすることに、密かに憧れていたんだけど。  天さんはただ、水平線を、その向こうを、見つめていた。  まっすぐ。  泣いているのでも、  悲しんでいるのでもなく、  いまの海と同じ、  その表情は静かだった。  ぼくも、水平線に向かう。  ふたり、海に揺蕩う。  落ちてゆく陽が少しずつ、海の色を変えてゆく。  一匹、旋回していたトンビが山へ戻る。  いろいろな気持ちすべてが、緩くうねる海にとけてゆく。  胸の奥の方が、  いまの海みたいに、凪いでゆく。  どれだけそうして波に揺られていたのか、東の空、雲の切れ間にぼんやり月が現れはじめて、夕焼けはもう、水平線にその残像だけ残していた。  「腹、減ったな。」 ゆっくり、天さんがこちらに顔を向ける気配で、ふり返る。  「帰る、か。」 ぼくは小さく、頷いた。  ボードを岸に向けて返すと、 「はは、」 天さんが笑った。  海岸には、本日のディナーとランタンを手にした寮生たちが、天さんを待っていた。  天さんは最後まで、下を向くことはなかった。  その翌日、多々戸浜海水浴場の海開きの朝、天さんはいってしまった。  「たかしさんは、なくなったの?」 「違うよ、いなくなっただけ。」 「あえる?」 「会えるよ。」 「どこで?」  ぼくに手を伸ばすネコの手を、握り返す。  きっと、  「ワイメア、」 「ワイメア?」  そんな気がする。  『まずは、ワイメア。』  そう、天さんはいっていた。  雪さんのために、  雪さんが見たいといっていたその波に、  きっとのっている。  いつもと変わらない、慈愛に満ちた、パパみたいな顔で、波をなでている。  梅雨の明けた、  真夏の多々戸の空を仰ぐ。  強く注ぐ光を存分に散乱したオゾン色は  より深く鮮やかで  波長四百八十ナノメートルの、  純粋なシアンの色だ。  「じゃあワイメアに、つれてってやるよ。」 ネコが、繋いだ手を空にかざす。 「たかしさんに、あいたいんだろ!」 「そうだね、会いたいね。」  眩しくてゆっくり、目を閉じた。  「ちょ! 天さん!!」  ところで『ワイメア』て、どこだっけ?  ワイメアをスマートフォンで検索してぼくは度肝を抜かれた。  検索結果に並ぶのは、十階建てのビルくらいあるんじゃないかって波を、点にしか見えない人間がボードで滑る、というか滑り落ちているような動画ばかりだ。  ちょ、待って、待って!  こんな波にのるなんて!  雪さんのあとを追うつもりですか!? て、あわてたけど、その後たびたびサーフィンライフの記事に顔をだす天さんを目にして、安心したのだった。  ぼくは、再提出になった進路希望調査書を前に、腕を組んで思案していた。  白紙で提出したそれは、 「パイロットになりたいでもいいからなんか書いとけ。」 と、井上先生から戻ってきたのだ。  しばらくそれを睨みつけていたけど、 「コータ! はやく!」  きょうはサンセットサーフだ。夏が来たら、って、約束していたのだ。 「あ、待って。」 「再提出とか、だっせーな! んなの、テキトー書いときゃ、いいんだよ!」 ネコが笑って部屋を飛びだしてゆく。  成長痛はいつの間にか治り、ぼくの腰ほどだった身長は肩まで届こうとしていた。  「適当、て…」 あわてて進路希望調査書の空欄に、まとまらないひとことを加えて、鞄にしまう。  オレンジ色にブルーのラインが入ったサーフトランクスを引っ掴むと、ぼくも急いで部屋をでた。  ぼくなは愛がない。  だれをも愛すことも、想うことも、  できない。  だれにでも愛を  だれにでも親切を  だれにでも笑顔を  そんなことはもう、  できない。  でも、  それでも、  【希望進路】 ネコが一生笑うためにできること  海にとかしたくても、  どうしても、  とかせないものを、  ぼくたちは持っている。  見えるものも、  見えないものも、  それらを抱えながらなお空を仰ぐことができるのは、きっとこの透明に発泡する海が、波が、光を散らしてぼくたちを押すからだ。  前を見て、  上を見て、  空を見て。  そう、風が耳元で、囁いてゆくからだ。  水平線を望む。  トロトロに融けた太陽が、海にキラキラの粒を撒き散らしながら水平線にとけてゆく。  その下に広がるのは、  波長の長い光を弾く、燃えるような茜色を映した金色の海。  となりに並ぶネコが、手を伸ばす。  ぼくに。  けれどそれはいままでとは少し、  ほんの少し、たぶん、違う。  ぼくも手を伸ばす。  繋いだ手はもうだいぶ少年らしい骨格だ。  小さなもみじ饅頭では、もう、なくなっていた。
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