金目鯛の煮つけ

7/29
前へ
/45ページ
次へ
20分ほど後、冬美は伊豆急下田駅ホームに降り立った。 課長と一緒に。 「久しぶりだなあ。相変わらず観光地らしい、旅情に満ちたホームだ」 「そ、そうなんですね」 大きく伸びをする課長を、戸惑いながら見やる。 (なんだか楽しそう……) 電車の中で偶然出会った彼は、どうしてか隣の二人掛けの席に座り、冬美に話しかけてきた。 にこにこと愛想の良い彼は、他部署の人間にありがちな壁を感じさせない。しかも上司であるのに言葉遣いが丁寧で、それでいて親しげな空気を醸している。 ほんわりとした雰囲気に釣られて、ついつい会話してしまったのだ…… 課長は伊豆のリゾートホテル開発の責任者を務めたことがあるそうで、名所や名物、温泉などについて詳しかった。今日は久しぶりに下田へ行くと聞いて冬美は驚く。 『私も下田まで行きます』 『へえ。ご観光ですか?』 『えっ、いえ……』 冬美は口ごもった。まさか、好きなアイドルの故郷を訪ねる傷心旅行とは言えない。普通の失恋ならともかく、【推しロス】である。 課長のようなタイプに理解されるとは思えず…… 『たまには独りでぶらっと、こう……どこかに行きたいなあと思いまして』 いいかげんな返事だが、課長はうんうんと納得してくれた。 『一人旅もいいですよね。僕も似たようなものです』 『そうなんですか?』 『朝起きたら、急に金目鯛の煮つけを食べたくなって。気がついたら電車に乗っていました』 『……』
/45ページ

最初のコメントを投稿しよう!

275人が本棚に入れています
本棚に追加