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とりあえず小鉢から始める。蛸ときゅうりの酢の物のようだ。
「んんっ?」
想像した味と違う。酢の物はさして好きでもないのに、どういうこと?
これならいくらでも食べられそう。
「酢の物なのにまろやかな味。すごく食べやすいです!」
「うん、確かにうまい。先代の味が見事に引き継がれていますね」
「……先代?」
舘林課長は目を細め、冬美に教えた。
伊豆にホテルを建てる際、このレストランの先代料理長を引き抜く話があった。
何度も打診した末、結局断られてしまったが、彼の腕に惚れ込んだ課長は、たびたび下田を訪れては先代の料理を味わったとのこと。
金目鯛の煮つけはもちろん、酢の物もそのうちの一品である。
(なるほど……だからわざわざ下田まで金目鯛を食べに来たのね。にしても、さすが館林課長。この人はきっと、高級食材とか一流の料理に精通するグルメなんだ)
やはり企画課リーダーはレベルが違う。冬美はますます感心しながら、ぱくぱくと料理を食べた。どれもこれも実に美味しい。
「先代が引退して足が遠のいたけど、今日は来てよかった。嬉しい偶然もありましたし」
「嬉しい偶然?」
課長が深くうなずき、明るく笑う。よく分からないが、よほどいいことがあったのだろう。
冬美も釣られて笑い、ご機嫌な彼に調子を合わせた。
「それは良かったですね」
「はい。ふふっ……」
課長を見てると、なんだかほのぼのする。
この人が上司なら、毎日楽しく仕事ができそう。経理の課長と代わってくれないかなあ――わりと本気で考えながら、いよいよメインの金目鯛へと箸を伸ばした。
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