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私を見つけるなり立ち止まった、というよりかは固まった、といった方がいいかもしれない。
湯呑みを椅子に置いて、傍まで駆け寄ると相手は無言のまま、私の顔をマジマジと注視する。
「…なんか言ってよ」
「や、だってなんでここ……てか、なんで?」
ここまで狼狽えてる相手は初めてで、今先ほどまであったはずの緊張がすっと吹き飛ばされてしまう。
「正弘くんから家引き払うって聞いたから、最後にパパの部屋見ておきたくて。でも一番は会いに来た」
「……………」
臣は黙ったまま、私の手首を掴んだ。
服越しに伝う、ひどく恋しかった一ヶ月ぶりの温度は瞬く間に鼓動を打ち鳴らす。
「寛治さん」
大家を下の名前で呼んでいることに驚きつつ、臣は椅子と湯呑みを片付けてくれていた寛治さんにお礼を言い、私も深々と頭を下げた。
2階に上がり、右端の部屋の鍵穴に鍵を差し込む。「何もないけど」と前置きされた家の中はキッチンに置かれたコーヒー器具とティッシュ箱以外、家具も何もなかった。
「コーヒーでいい?」
「…うん」
部屋の中は肌寒く、微かにタバコの匂いがした。
部屋を見渡すと窓際に置かれた灰皿には一本の吸い殻があり、その横にはパパが吸っていた銘柄のタバコが並べられていた。
『戸田さんが帰ってくるかもしれないからってあの部屋を借りてずっと待ってたんだ』
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