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「忘れ物はねぇなぁ……よし、行くぞ」
俺は制服に着替え、支度をさっさと済ませると、拓海の幼稚園の準備をした。
連絡ノートとハンカチとティッシュと、最近子ども達に人気のアニメ『おじゃまっ子にゃん太君』のキャラクターのループタオルと念のための代えの靴下とパンツ。それとさっき俺が作ったお弁当。全部用意してあるのを確認して、俺は制服を着た拓海の前ボタンをしめた。拓海はいつものように笑いながら黄色い帽子をかぶった。
「行ってきまぁす」
拓海は家の中に言った。相変わらず返事は無かった。俺は何も言わずに家を出て鍵を閉めた。
「拓海……そのぉ……朝、兄ちゃんの話聞いてたか?」
幼稚園へ向かう途中、俺はそっと拓海に聞いた。
「うん」
拓海は手を繋いだまま元気よく頷いた。俺がとてつもなく気まずくなっていると、拓海は続けた。
「兄ちゃんがおっきな声で怒ってるのはわかったよ。でも、何でなのかは分からないから、ちょっと怖かった……」
拓海が手を握る力が強くなった。俺はため息をついて詫びた。
「ごめんなぁ……もう怒ってねぇからな」
「ほんと?」
「あぁ」
「よかったぁ」
拓海は安心したのか、嬉しそうに笑った。俺はその顔を見てほっとした。
「じゃあな」
幼稚園の門の前で俺は手を離し、拓海に背を向けた。
「兄ちゃんっ」
拓海が大きな声で呼んだ。俺は振り向いて聞いた。
「何だ?」
「ううん、何でもない。呼んでみただけ」
「あっそ」
俺は拓海に背を向けて、足早に学校へ向かった。
周囲の若い母親達の視線がものすごく嫌だった。
昼休み、友人と屋上のいつもの席に座った俺は、昼飯に昨夜スーパーで割引きだった焼きそばパンを食った。
「篠田、また激安パンかよ」
「うるせぇ……今日はレアな焼きそばパンの日なんだ。邪魔すんな」
「へぇへぇ」
返事をしながら学校の購買で買ったメロンパンを一口かじった友人、木崎と俺の隣で静かにパック牛乳を飲んでいる友人、森久保は、俺の家庭の事情を知っても変わらず接してくれる数少ない友人だ。
彼らと共に居ると、酒臭い女の事や正直煩わしくてしょうがない拓海の事を忘れられた。
「そう言えばさ、お前、どうすんの?」
「は?」
俺は急な質問にきょとんとした。すると木崎は驚いて立ち上がりながら言った。
「いやいやいや、今日だろ? 美園さんから告られる日」
「あっ……あぁ」
「……忘れてたのか?」
「まぁ、な」
まさか家の煩わしいことを考えないよう必死に焼きそばパンに集中していたとは言えず、森久保の質問には、適当に返事をした。
「嘘だろおい。だって美園さんだぜ? 学年一、いや学校一の美人の美園 陽香様だぜ? その陽香様が、お前の下駄箱に手紙を入れるなんてよぉ」
「古典的だな」
「バカっそれがまた良いんじゃねえかよ、あぁ、クッソ羨ましいっ」
森久保の感想に怒鳴った木崎は、そう言うとまたメロンパンを頬張った。
「けどよ、入れるところ間違えたぁ……とかねぇ?」
「ねぇだろ名前もちゃんと書いてあったろ? 篠田 玄也君へって……あぁあ、もてもてだなぁ篠田君はぁ」
「もて篠田」
「ブヒャヒャ、良いなぁそれ」
「よせよ」
森久保と木崎を静かに叱りながら、俺も笑った。
そして放課後。ひと気のない体育館裏で美園は俺に言った。
「あの……私、前からずっと、篠田君の事が好きだったの。だから……付き合って下さい」
耳の裏辺りで二つに束ねたふわりとした髪、二重瞼の大きな瞳。皆は綺麗系と言うが、俺には可愛いらしく見えた。
彼女とは中学で一度同じクラスになったことがあり、よく笑う優しい女だということは知っていた。だから、答えは一つだった。
「……ありがと。よろしくな」
「そっか、だめだよねぇ……ってえっ、ほんと?」
俺が少し黙っていたからか、美園は両目を大きくして俺の答えに驚いた。俺は笑って一つ頷いた。
「そっかぁ……嬉しいっ」
美園は嬉しそうに笑った。少し泣いている彼女に驚きながら、俺は彼女と一緒に帰った。
美園は電車通学だった。その為、家や幼稚園とは逆方向の最寄り駅まで彼女を送っていった。
「ねぇ、このままどっか遊びに行かない?」
駅に着くと、美園はそう言って俺の右の袖口を少し引っ張った。
「悪ぃけど、今日は無理だ……用事があってさ」
「用事?」
「弟のお迎え」
「そっか……じゃあまた今度行こうね」
「あぁ」
俺は美園の姿が見えなくなるまで見送り、幼稚園に向かった。
途中で強風が吹いたが、すぐに収まった。朝の天気予報で言っていた嵐がこんなものなのかと思ったら、何だか無性に苛ついた。
幼稚園に着くと、拓海のクラスの若い男の先生が慌てて駆けてきた。
「拓海君のお兄さんですよね?」
「えっ、はい」
先生は少し息を整えて俺を見て言った。
「拓海君は今、海西総合病院にいます」
「は?」
俺の頭の中は、真っ白になった。
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