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お迎え待ちの時、外の砂場で遊んでいた拓海に、強風で飛んできたサッカーゴールの骨組み部分がぶつかった。頭に怪我をして倒れていた為、救急車を呼んだらしい。
小さな幼稚園バスで病院に向かっている中で、先生からそう聞いた。
拓海が死ぬ。
拓海がいなくなれば、毎日のあの苦行から解放される。帰宅の時間など考えなくて良いし、美園とどこへでも行ける。
拓海という煩わしさから解放されるといういいしれぬ喜びがうっすら浮かぶ反面、あの拓海の笑顔が見えなくなる事がその何倍も悲しかった。そして、一瞬でも拓海が死ぬ事への喜びが生まれた自分にひどく腹が立った。
病室のベッドで、拓海は座っていた。そして俺を見つけると、嬉しそうに笑った。
「兄ちゃ……」
「大丈夫なのか? 痛いよなぁ……ごめんなぁ」
俺は拓海の頭に巻かれた包帯にそっと触れた。すると先生が医者と話をしに病室を出た。
「ごめんね、兄ちゃん」
「何がだ?」
「たっくん、まだ生きてて」
「は?」
俺は言葉が出てこなかった。拓海は続けた。
「兄ちゃん、たっくんのこと嫌いなんでしょ? たっくんが兄ちゃんのおじゃまばかりするから……たっくんが死んじゃえば、おじゃまする人いなくなるから……だからね、お外で遊んでたの。先生がお部屋で遊びなさいって言ってたけど、先生に見つからないように……」
「馬鹿野郎っ」
俺は、拓海の頬を軽くはたいた。ちゃんと痛いのか、拓海は今にも泣き出しそうな顔をしていた。俺は続けた。
「意味分かってんのかよ……クソッ」
俺は拓海を抱きしめた。今朝、俺が女に怒鳴ってたのを、拓海はちゃんと全部聞いていた。そう思うと、とにかく申し訳なくて仕方なかった。
『死ぬ』と『生きる』の単語は、祖母の葬式で覚えたのだろうが、言葉が分かるだけで、それがどういうことなのかという実感など皆無だろう。
それくらい分かっていた。分かっていた上で、俺は続けた。
「確かに、お前はおじゃまな時がある。ほとんどそうだ。けど、それで良いんだよ。だから……だからわざと死のうとすんな」
「ごっごべんなざいぃ」
拓海は泣きながら謝った。俺は抱きしめたまま拓海の背を軽く叩き言った。
「分かったなら良い。次やってみろ? ただじゃおかねぇからな?」
「うん……もうしない」
「よし」
俺はそっと腕をほどいた。すると先生が部屋に入ってきて言った。
「拓海君、問題ないそうです。ですが念のため、明日幼稚園が終わったらここで検査だけお願いします。その時、何もなければそこで包帯もとれるかと……」
「そうですか、ありがとうございます……あと
すみません。うちの弟が勝手に飛び出して心配かけて……」
「いえいえ、僕達のことならお気になさらず。とにかく、無事なら良かったです」
「はい」
俺は先生と笑いあった。そして拓海を着替えさせて、手を繋いで病院から家に向かって歩いた。
「兄ちゃん、これ」
拓海はどこかで摘んできたのであろう花を俺に差し出した。
「どうしたんだぁ、これ」
「ありがとうってことと、これからもおじゃまっ子にゃん太君じゃなくて、おじゃまっ子たっくんと遊んでねって書いてあるお手紙」
「お手紙って……」
小さな青い花には、どこにもそんなこと書いてなかったが、俺には何となく拓海のその思いが伝わった。
「ありがとな。しょうがねぇな、遊んでやるかぁ」
俺は拓海の頭を撫でた。拓海は嬉しそうに笑って、やったぁ。と言った。
「じゃあ、あの線まで競争ね」
拓海は、公園の中の散歩コースにある、園内地図の手前の白線を指差して言った。公園に寄り道すると、決まって夕方まで家に帰らないコースになる。
本当におじゃまっ子たっくんだな。と頭の中で呟き、そわそわしている拓海の顔を見て、そんな弟がたまらなく愛おしいと思った俺は、花を胸ポケットにしまって、ため息をついて応えた。
「分かった……手加減しねぇぞ?」
「たっくんだって早いんだよぉ」
「位置について、よーい、どん」
俺の合図で、俺と拓海は勢いよく走り出した。
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