3.水曜日

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 扉を開けたと同時に、目を覚ました。    全力疾走したあとのように息が上がっていた。全身が汗まみれで、喉がからからになっている。    ――あ。涙……    目尻に手をやると、汗と一緒に涙が流れ落ちた。    息を吐きながら、見慣れた天井をただ眺める。  ……ベッドに寝てるってことは、さっきまでのあれは夢だったということ、なのか。    現実と夢の境目が見つけられない。両手を瞼に当ててゆっくりと呼吸を整えているうちに、段々落ち着きを取り戻してきた。……と同時に、さっき夢で感じたばかりの香りが今もまだ漂っていることに気が付く。    ――もう、何がなんだか……。    瞼を覆った手を離して、薄暗い部屋の中に漂う香りを追うようにベッド脇に目を向けてみてようやく、そこに千影が立っていることに気が付いた。 「――……あ……」  ――千影さん。いつからそこに?  そう声を掛けたかったが、喉がからからで上手く声が出ない。夢の余韻のせいか、千影の姿を見るだけで再び動悸が止まらなくなりそうだった。  薄暗い室内で黙ったままこちらを見下ろす千影の顔は、彼が両手で握っているキャンドルの柔らかな炎に照らされていた。優しい光に照らされたその瞳は凪いだ湖面のように静かで、だけどどこか悲しそうに見えた。 「すみません。勝手に部屋に入って」  ベッド脇のサイドテーブルに近づくと、千影はその上にキャンドルを置いた。テーブルの上にはアルミ製の小さなお盆が載っていて、水の入ったピッチャーとコップ、タオル、そして袋状に折られた白いパラフィン紙がいくつか載せられていた。 「どうしても、夜間に時々秋生くんの様子を確認しなければいけなかったので」  いつもの淡々とした千影の様子を見るうちに、夢から引きずっていた不安が少しずつ溶けていく。 「……え、と……」  それは、夢の話と関係がある? と言おうとしたが、まだ上手く声が出て来ない。 「まずは水を。……自分で体を起こせますか?」  言われるがまま、なんとか自力で体を起こす。手渡されたコップに入れられた水を受け取って飲もうとするが、手が震えてしまって、力が入らない。それでもなんとか時間をかけて飲み干すと、千影の指示通り、もう一度横になった。 「……もしかして、ずっとそこにいてくれた?」  喉を潤したおかげか、ようやく声が戻ってきた。気になっていたことを尋ねてみると、千影はかすかに微笑んだ。 「ええ。あなたが戻ってくるのを待っていました」  戻ってくる、とは、夢の中から、という意味だろうか。一瞬確認しようかとも思ったが、訊くのも野暮なくらい、それが自然な解釈だという気がした。 「起こしてくれたらよかったのに」 「外から下手に声を掛けることはできないんです。場合によっては大変なことになりますので」  千影はお盆の上に置いたタオルを手に取ると、そっと秋生の瞼の上に載せた。  濡れたタオルのひんやりとした冷たさが、まだ熱を持った瞼を通して心地よく広がっていく。  千影は敢えて視界を遮ったのだろう。夢から醒めたばかりの秋生にとっては、確かにそのほうが心理的に楽だった。 「秋生くん。少しだけそのままで、話を聞いてもらえますか」 「? ……はい」 「夢を見たのは、今日が初めてですか?」 「あ……。えっと……それは」  もしかして、千影には夢の詳細まで全部バレてるとか? だとしたら、ちょっといたたまれない。 「答えにくいかもしれませんが、教えてください。大事なことなので」 「ええと……、はい……、初めてです」  聞こえるか聞こえないかぐらいの小声で答えると、「そうですか……」と安堵の交じった声が聞こえた。 「薬の到着があと少し早かったら、完全に防げたのですが。残念ながら届いたのが今しがたで」 「……薬?」 「はい。知人に頼んで取り寄せてもらった薬をテーブルに置いておきます。眠る前に一包は必ず飲んで、明日からも必ず就寝前に一包ずつ飲んでください」 「それって、病院でもらえるような薬では、多分ない、ですよね……?」  千影は普通の病院にはかかれないはずだし。どういう筋から手に入れたのだろう。  ……っていうか。千影さんの知人って、一体誰だ? 「あなたの眠りを守る薬、です。ある程度の時期までは有効なはずなので、ここしばらくは特に、必ず飲んでから眠るようにしてください」  思えば顧客はたくさん出入りするが、千影の知人らしき知人を今まで一度も紹介されたことはなかった。知人――、一体どんな人なんだろう。そっちに気を取られて黙っていると、「この薬は自然のものから作られているので、敢えて言えば漢方薬みたいなものです。信頼できる方にお願いして取り寄せたものですし、飲んだほうが確実に安眠できます。心配しなくても大丈夫ですよ」と付け加えられた。  あ、不安がバレた、と思いつつ、そう感じてしまった自分を申し訳なく思う。 「分かりました。ちゃんと飲みます」 「お願いします。――それと。お風呂に湯を張ってありますので、使うのなら使ってください。……明日はお休みでしたよね?」 「はい」 「これからもう一度よく休んで、起きたときに体調が戻っていたら、外に出て少し気分転換をしてきてください。少なくとも今日一日は、この家からできるだけ離れたほうがいいと思うから」  確かに。夢の中に出てきたこの家の様子が生々しすぎて、しばらくどこかでクールダウンしたい気分だった。 「……そうさせてもらいます」  しばらくの間、沈黙が降りる。  どうしたのかな、タオルを除けて確認してもいいだろうか、と思った矢先。再び千影の声が聞こえた。 「――あの。このキャンドル、買ってきてくれてありがとうございました」 「あ……っ、いえ。ちょうど季節だったものだから。……ちょっと可愛すぎたかもしれないけど」  照れながら言い訳めいたことをもごもごと言う秋生の言葉に、ふふ、と小さく笑う千影の声が聞こえて、ますます恥ずかしさが募ってしまう。 「これがあって、本当に良かったです。……私が頂いたのに何なのですが、しばらくの間、これはこの部屋に置いておいてもらえないでしょうか」 「えっ――? はい、俺は全然いいですけど。……でも、いいんですか? 千影さんは」 「ええ。あなたにとって、強力なお守りになりますから」  お守り。そういえば夢の中の香りも、扉を照らしてくれたのも、このキャンドルだった。確かにこの灯りがなければ、あのまま夢の中の千影に捉えられてしまったと思う。夢と現実が地続きになっているようで恐ろしくもあったが、もしかしたら夢にこのキャンドルが出てきたのは、千影がこれを持ってそばにいてくれたからなのかもしれない。 「秋生くんがノートに書いてくれていたことについては、お返事を書いてありますので。また読んでおいてくださいね」 「分かりました」 「では、私はこれで。眠る前に、薬を飲むことだけは忘れないでください」  千影が遠ざかる気配を感じて、秋生は思わず「あのっ、千影さん」と声を掛ける。 「……はい」  瞼に置かれたタオルを取ると、秋生はベッドから上半身を起こす。 「あの――、こんなこと言うの、ヘンかもしれないけど」  扉のあたりの暗がりに立ったまま、千影はこちらを見ている。しばらく躊躇ったあと、秋生は思い切って口を開いた。 「俺が夢の中で出逢った千影さんは、本物の千影さんじゃないですよね?」 「…………」 「あんなこと、本当のあなたは思っていないって、そう信じていていいですか」  ――あんなこと?   バカバカしい。何を言っているんだ俺は。  他人が見た夢の話をされたって何のことだか分かるわけがないのに。――そう思う反面、どこかで千影には通じるはずだという気持ちを消すことができなかった。 「何度でも言いますけど。俺、絶対諦めないですから」  千影は、じっと黙ったままこちらを見つめている。薄暗い部屋の中で、その表情をはっきりと窺うことはできなかった。 「秋生くんが見た夢の詳しい内容までは、私には分かりませんが……」  そう前置きすると、千影は秋生からふと目を逸らせてしばらく黙っていたが、再び秋生の顔をまっすぐに見つめて言った。 「安心してください。それはただの夢です」 「ただの、夢。……そうですよね」 「はい。次に目覚めたときには、きっと気分も晴れているはずです」  千影はにこりと微笑んで「おやすみなさい」と言うと、そのまま部屋を出て行った。
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