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1.月曜日
千影と暮らし始めて、十年が経つ。初めて出会ったのは秋生が専門学校に通い始めた春の終わりで、まだ十八の頃だった。片道二時間弱の通学はやはり辛いということで、学校近くに部屋を借りようと探していたとき、通学先の最寄駅圏内のこの場所でたまたま開店準備中だった『ロバの耳』を知ったのだ。
『ロバの耳』は、表向きには千影が経営する夜間営業の喫茶店だ。訳あって、この店は日没後にしか営業しない。そこは国道沿いの一角にある小さな木造二階建ての建物で、一階が店舗、二階は住居になっている。どうせ部屋を借りるなら徒歩圏内でと思い、学校帰りに駅周辺を物色していたとき、秋生はこの建物に行き当たった。
その家は当時から古びていて、一階の扉には何やら貼り紙がしてあった。茶色くすすけた扉に貼られた真新しい紙にはやたらと達筆な筆文字で「喫茶店開店準備中 夜間の従業員募集/二階空室有 詳細は面談にて(午後七時半以降)」と書かれていた。
――喫茶店? こんな建物で?
若干不審に思うほど、その建物は廃屋に近いものに見えた。少し後ろに下がって建物全体を見上げてみる。敷地ギリギリいっぱいに建てられたそれは、次に大きな地震が来た日にはすぐにぺしゃんと倒れそうなくらい頼りない造作にみえた。しかし改めてじっと眺めてみると、壁を這うアイビーの緑はやけに鮮やかで、秋生の目に生き生きと眩しく映った。
……もしかしたら、改装すれば味のあるいい店になるのかもしれない。
目の前にある木製の茶色いドアは致命的に汚れてはいたが、掃除をすればその古さが逆に趣のあるものに見えなくもなさそうだ。その隣に作られた嵌め込みの窓には、刷りガラスと透明なガラスが交互に組み込まれている。壁を覆う蔦で半分かくれてはいたが、うまく手入れをすれば今の時代には逆にいい風情に見えるかもしれない。しかもこの張り紙によると、開店準備中らしきこの店は夜間のアルバイトを募集しているようなのだ。部屋を借りるなら家賃の足しに夜間のバイトを探さねばと思っていたので、うまくいけば仕事と住処が一度に手に入るかもしれない。こんな建物で本当に喫茶店として成り立つのか図りかねるところはあったが、この有様だったら家賃が高いということはなさそうだ。あまりにも不便で住みにくいのなら考えものだけれど、予算もカツカツだし、これはむしろ好都合なのでは――?
腕時計を見ると、面談可能だという午後七時半までにはもう少し時間があった。少し迷ったが、ちょうど腹が減っているところだし、駅前でラーメンでも食って戻ってくればちょうどいい時間になりそうだ。うかうかしているうちにせっかくのチャンスを逃して後悔したくはないし、その日のうちに面談を申し込んでみようと心に決めた。
――あの時そのまま日没を待たずに帰っていたら、今頃どんな暮らしをしていただろう。
時々考えてみるけれど。別の可能性なんてそもそもなかったんじゃないか――、今となってはそんな気がしている。
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