1.月曜日

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 夜の散歩は、千影の楽しみのひとつだ。時々一人でふらりと出かけていくこともあるが、月曜日は秋生の休日と重なるので、大抵は二人で近所をぶらぶらとそぞろ歩きする。 「……また食べ過ぎた気がします」  溜息まじりに言う秋生の隣で、千影が小さく笑った。 「では、今宵はいつもよりも長く歩きましょうか」  家を出て、静かな夜の曲がり角をいくつか過ぎると、駅前の商店街に出る。一気に明るさを増す街灯の眩しさにハラハラするが、千影は意外と平気そうだ。 「眩しすぎませんか」 「ええ。日光でなければ問題はありません。街灯なら平気ですよ」  千影は日光に弱い。家でも秋生の部屋以外は最低限の灯りしか付けないので、街灯も苦手なのかと思っていたが、意外とそうでもないらしい。 「ここ百年ほどで、夜がこれほど明るくなるとは本当に驚きます。人の暮らしにとっては喜ばしいことですね」 「そうか……。昔の夜は、ずっと暗かったんでしょうね」 「そうですね。墨で塗りこめたような夜闇には、今ではなかなかお目にかかれなくなりました」  前を向いたまま、少し目を細めて彼は微笑む。その目は自分の知らない遠い過去を見つめているのかもしれない。そう思ってしまうと、秋生はまた得も言われぬ不安に取り付かれてしまう。 「昔が懐かしいですか」 「え?」 「あ。いやっ、その……」  秋生と出逢うよりもずっと昔――、それこそ、今この地上に生きる人間なら誰一人存在し得ない、遠い昔。千影がいつからこの世にいるのかその正確なところは知る由もなかったが、その生が普通の人間のそれよりはずっと長いということを、秋生は知っていた。 「俺と知り合う以前のこと。千影さんは長く生きている分、いっぱい思い出があると思うから。そういうのって、折に触れて懐かしく思い出すものなんですか」  あ、これはルール違反、と思った。お互いに干渉しすぎしない、というのが最初に取り決められた約束だったのに。  だけど、ここのところずっと胸がざわざわしているせいか、今夜は止められなかった。 「生まれてから今までの記憶、千影さんはどれくらい憶えていられるんですか? 普通の人間の何倍も長い時間を生きていたら、細かいことなんていちいち覚えていられないようにも思うけど……、でも、きっと千影さんにはその時々に一緒に過ごした『提供者』がいたんだろうし、その分思い出がたくさんあるんじゃないか、なんて……」  ――昔のことを憶えている千影さん、忘れている千影さん。そのどちらを俺は求めているのだろう。  もしも過去に繋がりのあった人々との思い出を大切に抱いて生きているのだとすれば。身勝手だとは思いつつも、自分と生きている今だけを見ていて欲しいと願ってしまう。だが、もしも時に摩耗された記憶はやがて消えてなくなるのだとすれば、それはそれで辛い。つまるところそれは、これからも営々と続く彼の生の中で、秋生の存在もいずれ忘れ去られてしまうということだから。  ――俺と千影さんとは、まったく違う時間の流れの中で生きている。そんなことはお互い分かったうえで暮らしていたはずだったのに。  ふと、冷たい手のひらに右手をギュッと捉えられた。はっとして隣を見ると、千影は前を向いたまま、秋生の手を強く握っている。まだ繁華街の中を歩いていた秋生はちょっと焦って周囲を見回した。 「ちょっ――」  いい大人の男二人が手を握り合っていたら目立つんじゃないかと思って手をひっこめようとしたが、千影は離そうとしない。まったく動じる様子もなく、秋生の手を握ったまま淡々と歩き続けている。 「どうして、そんなことを訊くのですか」  前を向いたまま、千影が尋ねた。その顔からは笑みが消えていた。 「どうして、って。そんなこと、わざわざ訊かなくても、千影さんなら俺のことなんて何でもお見通しでしょう?」  我ながら子供じみている言い草だ。ここ一年くらいだろうか、時々自分でもどうしようもなく千影を困らせてしまうときがある。 「俺は、知りたいことは訊かなきゃわからないから。……こっちばかり何でも分かられてしまうの、なんというか、フェアじゃない気がして」  そんなこと、本当は思ってもいない。不快なことを言われたわけでもない。いつも通りの穏やかな彼にこんな態度をとるなんて、自分でもどうかしていると思う。  千影は握った手を離さない。そのひんやりした手に引かれて商店街を抜け、人気のない通りに出たとき、少しほっとした気分になった。  千影に手を引かれたまま、黙々と夜道を歩く。川沿いにできた長い遊歩道は『ロバの家』が面している国道沿いの道まで続いている。 「過去のことは――」  不意に、千影が口を開いた。 「憶えていますよ、全部」  初秋の晩、空気はひんやりと冷たく、川沿いの道には穏やかに水の流れる音が聞こえてくる。時折犬の散歩をしている人やジョギングをしている人たちとすれ違いながら、二人はゆるゆると足を進めた。 「すべて、忘れられないことばかりです」 「そう、ですか……」  忘れられないことばかり。その言葉に胸がずきりと痛んだ。  バカみたいだ、千影さんの過去に勝手に傷つくなんて。そんなこと、生きていれば当然なのに。俺って、そんなに狭量なやつだったっけ――?  千影との関係は極めて良好なまま、この十年は穏やかに過ぎた。秋生は専門学校を卒業した後も千影の家に留まり、昼間は美容師として働き、時間がある時は『ロバの耳』の営業を今も手伝っている。  十年前。千影の「提供者」になることを了承したときは、ごく軽い気持ちだった。規則的、安定的な「血」の提供。それが唯一、千影が他者へ求めていることだった。家賃光熱費、食事の世話までしてくれて、その見返りに、週に二度、千影にごく少量の血液を提供する。しかも喫茶の営業を手伝えば、相応の報酬をもらえる。となれば金銭的な負担はゼロ以下だ。  普通の人間ではないとはいえ、ぱっと見たところ、千影の外見に大きな違和感を持つ人はいないだろう。むしろ、その凛と整った顔立ちやすらりとした肢体は見るものを強く惹きつけた。それは初対面だった十年前の秋生にとっても例外ではなかった。  彼は物語に登場する「吸血鬼」に似た存在ではあるが、変身したり、致死量の血を吸うことはない。人間がその血を与えられると同じ体質に変わることもない。そしてよく話を聞いてみれば、この人は定期的に人間の血を摂取しないと全身に痛みが走る病を持つ体質だという。まだしばらくの猶予はあるらしいが、体調に支障が出る前に急ぎ血液の「提供者」を探している、らしいのだ。  にわかには信じられない話に「冗談ですよね」と尋ねてみたが、千影は「残念なことに、本当の話なんです」と言って、淋しそうに笑った。 「信じられないのも無理はないし、その場合、この話はなかったことにしてもらいたい」と言われたのだが。もし冗談だと言われても、こんな好待遇の条件を提示してまで謎の嘘をつく意味が見つけられない。だけどもしこの話が事実だとしたら。目の前に座っているこの人を一体どんな目で見ればいいのだろう。  あまりにも奇妙な話だし、この話を受けてくれる人を見つけるのは難しくはないだろうか。よくよく考えた上で納得ができれば、私としてはあなたに是非お願いしたい、という言い方をされたのだが。秋生が断ればきっと、この人はまた振り出しに戻るのだろう。誰かに定期的に血を分けてもらえなければ体調に関わるというのなら、できるだけ事は早いほうがいいに違いない。  信じていいのかという不安はありつつも、目の前に座る千影の佇まいはひどく穏やかで、その口ぶりはあくまでも真摯だった。こんなに異常で気味が悪い話をされているのに、当の千影からは不気味だったり嫌な印象を受けることは微塵もない。  少量の血の提供。――考えてみれば、それってなんだか献血みたいだ。その程度の負担なら、金はないが若くて血の気が余ってる自分としてはメリットのほうが断然多いし、試しに引き受けてみてもいいんじゃないか?  破格の好待遇と千影の姿や佇まいに興味を惹かれたのもあって、その程度の軽い気持ちで引き受けてしまったわけだが――。
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