前編

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前編

夜、全く眠れなくなって、もう1年になる。 もともと夜型で、朝より夜が好きだった。 夜の深い時間は、時々通る車の音、遠くから聞こえる電車の音、それ以外は音を無くした世界のような静けさだ。この世には私しかいないのではないかと不安になり、時々テレビをつけてみる。放送している事で、起きているであろう誰かの気配に安堵する。 私は、夜が好きだ。 初めて、深夜まで起きていたのは、まだ幼稚園の頃。もうほとんど記憶はないけれど、それまで知らなかった世界へのワクワクした高揚感、ドキドキした不安感、その両方が混ざり合った興奮を覚えている。 そして、どんどん夜の魅力にハマって行った。 それでも、3年前までは、夜、全く眠れない訳では無かった。 夜眠り、朝起き、会社に行き仕事をする。 ごくごく普通の社会人の生活をしていた。ただ、徐々に眠れない時間が長くなり、それまでの日常生活を送ることも難しくなり、治療をしながら、会社を1年休職した。 それでも、症状は全く良くならず、とうとう1年前に全く眠れなくなり、仕事はやめる事にした。 特に、どうしてもやりたい仕事でもなかったから、仕事への未練はなかったが、私を雇い入れ、1年も休職させてくれた会社には、今でも感謝している。 迷惑をかけるから辞めさせて貰いたいと言った時も、社長はとても心配してくれ、これから生活はどうするのか、何か困った事があればいつでも相談に来ていいからと言ってくれた。とても居心地のいい会社で、こうならなければ、きっともっとずっと、あの会社で働いていたと思う。それだけは残念に思っている。 会社を辞めてからは、貯金を切り崩しながら、ゆらゆらと生きている。 1人静かに夜を楽しむことが好きで、あまり出掛けることも無かったため、貯金はまあまあある。とは言え、一生、このままというわけにはいかない事もわかっている。 でも、この昼夜逆転の生活に終わりが来る気がしない。 眠れない夜の中でも、私は、夜明け間近のほんのわずかな瞬間が好きだ。それは、夜と朝が混ざり合う瞬間。 どんな事でも、終わりは少し切なく、始まりは胸が弾む。 私は、夜と朝が混ざりあう瞬間にそんな気持ちになる。 その瞬間を全身で感じたくて、時々、日の出前の公園に行く。まだ暗い中でも、散歩をする人がチラホラいたりする。 私はベンチに座り、夜と朝が混ざり合っていく空をじっと見上げる。そして、朝が来るとふらふらと家路につく。 ここ数年の間に、何度もそんな朝を迎えた。 そして、今日も眠れない夜を過ごしている。 今日は霧が濃い。こんな日は、必ず夜明け前の公園に行く。 霧が濃い日は、散歩する人も少なくなる。 静けさとちょっとした不気味さが私を虜にする。 いつものベンチに座り、暗く白い世界に引き込まれる。 静かな夜明けを待っていると、霧の中から人影が見えた。 他の人影は無く、私はスマホを握りしめた。 女性だった。 その女性は、私に向かって歩いてくる。 緊張が走る。すぐに電話ができるようにスマホのロックを解除する。 「こんばんわ。」 そう言って、笑いかけて来た。 その人は、30代位の美しい女性だった。 「霧の日のこの時間。素敵よね。」 と、うっとりした顔で言う。美しくて、儚げで吸い込まれそうになる。 彼女は、私の横に座り、 「あなた、夜、眠れないのね。」 静かな声で言う。 私は、とまどいながらもコクリと頷いた。 「私もね、夜、眠れないの。」 と、つぶやいた。 そして、2人で夜と朝が混ざり合う瞬間を見つめた。 彼女は、すくっと立ち上がり、 「もう行かなきゃ。あなた、私のお店で働かない?」 唐突に言った。 「えっ?」 「私、夜だけ開くカフェをやってるのよ。」 彼女は名刺を出して 「一度、来てみて。」 そう言い、私の手に握らせた。 「絶対にね。」 と言って、にっこり笑った。 そして、じゃあねと言い、霧の中に消えて行った。 私は、急激に眠くなり、そのまま眠ってしまった。
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