後編

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後編

えっ? それ、どういう意味? 戸惑っている私に、彼が言った。 「このお店に来る人は、あなたのように、大抵、母に会ってます。霧の濃い夜の明ける頃に。そして、この店に来るように誘われて来てくださいます。」 「でも…」 と、私が言うと、 「そうなんです。母は、この10年、ずっと眠ってます。でも、その間に何人もの方が、母と会い、このお店に来てくださっています。信じがたい事ですが。」 ちょっとブルっとする。でも、不思議と嫌な感じはしなかった。 「どうして、私を誘って下さったのでしょう。」 不思議に思っていた事を聞いてみた。 「実際のところは、母にしかわかりませんが、あなたも夜は眠らない人ではありませんか?」 と聞かれた。 「そうです。徐々に眠れなくなり、今は夜全く眠りません。」 彼は頷きながら、 「やはりそうですか。母も夜全く寝ない人でした。どうやら母は夜眠れない人に声をかけるようです。」 それから、彼は、今まで店を訪ねて来た何人もの人の話をしてくれた。そして、 「失礼ですが、最近、生きることへの執着がなくなっていませんでしたか?」 と、聞かれた。 最近の自分を思い返してみる。 確かにそうかもしれないと思えた。 誰とも話さず、貯金を切り崩し、ゆらゆらと生きていた。貯金が底を尽きたら、どうするつもりだったんだろう。 彼は、静かに続けた。 「恐らく、夜を生きる人で、生きる力が弱まっている人に声をかけているのではないかと思います。きっと、自分と同じ境遇の人を放っておけないのではないかと。」 生きる力が弱まっていた? でも、そうかもしれない。 人とは違う生活。きっと誰も理解できない。 病気ではない。ただ、夜寝ないだけ。 でも、それだけのことが、私を生きづらくしていた。 「僕も、昔は母を理解出来なかったんです。なんで、僕の母親は昼間に寝ているんだろうって。母を責めてしまった事もありました。母も苦しんだと思います。」 昔を思い出すように遠くを見ながら言った。 そして、次に私の方を見て、 「結局、夜、眠れないのに理由なんてなかったんですよね。別に、心理的な理由とか、病気とか、そんなんじゃないって。」 と、キッパリと言った。 「えっ?」 私も病気だと思い、通院していたが、そうじゃないと気づき、通院を止めた。 その事をわかってくれる人がいた事に驚く。 彼は、私の表情を確認しながら、 「それって、夜行性の動物がいるのと一緒で、夜行性の人間ってだけなんじゃないかって。母には、昼より夜の方が生きやすかったってだけの話なんだって、今はそう理解してます。」 「夜行性の人間…。」 と、つぶやく私に 「そう。夜行性の人間。一般的にはそんな事はあり得ないと言われると思うけど、そうとしか考えられないし、そう考えると合点がいく。あなたもそうじゃないですか?」 そう言われて、心に引っかかっていたものが、スッと溶けていくように感じた。 夜行性の人間。 夜を生きることが自然。 そう思えれば、自分自身を肯定することができるかもしれない。 彼と話をしているうちに、私は、いつの間にか、暗く重い気持ちに支配されそうになっていた事に気づいた。 そう。私は私自身に疲れていた。 自然にポロポロと涙が溢れた。 「あなたも大変だったんですね」 彼が優しく言った。 大変だとは、自分では思っていなかった。でも、孤独だった。 ここには、理解してくれる人も、同じ境遇の人もこんなに沢山いる。 ホッとした。 1人じゃないことに。 私は、何かを洗い流すかのように泣き続けた。 そして、少し心が軽くなった。 私の涙が途切れたのを見計らい、彼がコーヒーを淹れ直してくれた。 やはり、ここのコーヒーは、とてもいい香りだった。 コーヒーを飲み、一息つく。 「また、来てもいいですか?」 と、彼に聞いた。 すると、彼は、私の反応を伺うように 「母から何か言われてませんか?」 と言った。 私は、霧の濃い日の事を思い起こしてみた。 あっ! 「私のお店で働かない?って!」 少し声が大きくなってしまい、慌てて口に手を当てる。 彼は、そんな私の姿に微笑み、 「やっぱり、あなただったんですね。」 と優しく言った。 「どうして?なぜ、わかったんですか?」 彼は、慌てる私に言った。 「珍しく母が夢に出てきて、お店を手伝ってくれる子をスカウトしたからよろしくねって。楽しそうに言ってたから、なんだか嬉しくて、夢なのに、何故か本当にその子が来るような気がして待ってました。そうしたら、あなたが来たというわけです。」 そして、 「どうですか?働きませんか?母が眠った時から、父と交代でこのお店をやってきましたが、僕も父も、母とは真逆で、夜起きている事が苦手で、それにもう一軒お店をやってるので、あなたに手伝って貰えるなら有難いのですが。」 と言った。 私は、話の展開が早すぎて、とまどいながら聞いた。 「面接とかいいんですか?」 思わず出た言葉は、少し場違いな質問だった。 彼は微笑み、 「面接は、母がしたでしょ?このお店は、母のお店だから。」 そう言って、写真の中の母親を見た。 私は、この不思議な出会いに感謝した。 こうして、私は、生きる力と仕事を手に入れた。 もしかしたら、これは全部夢なのかもしれないと思う時もある。 でも、毎日、電車で通勤し、オーナーの家族やお客様と時々話をする、そんな繋がりが、これを現実と思わせてくれた。 そして…。 1年が過ぎた。 最近では、コーヒーも少しはマシに淹れられるようになり、安定した生活を送っていた。 今日も、オーナーは、カウンターの棚の写真の中で、素敵な笑顔で微笑んでいる。 今もオーナーは眠ったままだ。 私は、この1年、何度か濃い霧の夜に、オーナーに会った公園に行ってみた。 でも、オーナーには会えなかった。 私は、もう、生きる力が弱まっていないから会えないのかもしれない。 私は信じている。 いつか、目覚めたオーナーに会える事を。 その日を楽しみに、私は夜を生き、今日も夜眠れない人たちにコーヒーを淹れよう。
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