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僕は悲惨なものだ。もうズタボロの雑巾の様になっている。昔はこうでは無かった。
故郷へと向かう電車に乗ってこんな風に思っていた。思えば高校を卒業して、田舎街が嫌いだからという理由だけで、取り敢えず働くところも探さないで都会へと向かったのはもう8年も前になる。
それなりに僕も頑張った。普通にバイトから始めて会社員になる事が出来て、やっと一般的に稼げるようになった。その頃はまだ故郷に錦を飾るではないが、里帰りをした時には自慢できるとさえ思っていた。
でも、道を外れ始めたのはその頃からになる。会社で仕事を頑張るとそれなりに給料は増えたけれど、それでも仕事量は減らなかった。どころか毎日増えていく一方になっていた。
そんな中では差が生まれてくる。僕より後に入った若手に成績で追い越され始めた。そうすると同僚たちは優しく無くて、僕を蹴落とそうとまでしてきた。そんな時に僕の心はもう限界を迎えていた。
体調不良で病院に向かったらそこでは心療内科を勧められてしまった。段々と仕事が手を付かなくなり、その内僕は会社のお荷物になって追われるように退職をした。
僅かな貯蓄だけでは無職の病気持ちが生活する事は叶わなかった。両親の勧めで僕は都会を離れて嫌いだった生まれ故郷の田舎街へと帰る事になってしまった。これは逃げなんだ。
僕はもう頑張れる事は無い。ただ残っている選択は一つ。それは死だけだった。
そう僕は死ぬ為だけに故郷に戻るのだった。生きた街を段々と離れて、死ぬ所へと向かっている。もう誰も僕の事なんて迎えてくれる人も居ないそんな街へ。
特急列車の終点になっているその街は、日が暮れてしまったらもう静かになっていた。駅のホームでは通勤客たちだろうか急ぎ足の人間が居て、それはまるであの頃の僕の様だと気分が悪くなって、改札を通ると列を離れた。
待合になっているベンチに手を付いて俯き、胃から込み上げてくる気分の悪さをどうにか堪えていた。
「どうかしたんですか?」
どうやら僕の事を心配してくれた人が居た様子で、そんな声が聞こえたが、迷惑をかける事も出来ないし、誰かにこんな弱い僕を見せたくも無い。
僕は口元を押さえているのと反対の手を開いてその人を制して「大丈夫」と伝えたつもりだった。
「もしかして、トウじゃないのかい?」
懐かしい呼び名と独特の話し方が聞こえて相手の顔を見ると、それは知っている人だった。
相手は夏目伊吹(なつめいぶき)だ。高校時代の同級生だった。藤堂信高(とうどうのぶたか)であるぼくの事をトウなんて言うのは伊吹くらいしか居ない。なにより少しばかり歳を取ったけれどその表情は昔の面影が有った。
伊吹は昔の仲良しグループの一員だったので、僕の会いたくない人間でも有った。そんな人に故郷に戻って直ぐに会うのだからついてないのだろう。
「なんだい? 乗り物酔いかい? 情けないね。まあ、それは置いといて、久し振りやん」
「ああ、そうだな。ちょっと悪いが気分が悪いから、話はまた今度にしてくれ」
今度なんて無いだろう。僕はもう死ぬ事を考えていたのだから。取り敢えずはこの街に帰ったが、何日かしたら自殺をしようと思っていた。それまでに伊吹ともう一度会う事なんて無いだろう。
しかし、伊吹にとっても今度なんて無かった。
「そんな事言うんでないよ。酒に酔えば乗り物酔いなんて忘れるって!」
そうだった。伊吹はかなりの楽天家、そして人の言う事なんて聞かない人間だった。
伊吹は僕の腕を掴むとドンドンと歩いていた。これじゃあ人さらいだ。しかし、それは懐かしい事でも有って、どうしてかその時には気分の悪さも多少良くなっていた。
「もしもし、ダーリン? 今仕事終わって駅に着いたところなんだけど、旧友に会ってしまったからいつもの店に寄って帰るねー。愛してるよー」
人さらいは腕を引っ張りながら反対の片手でスマホを器用に操作して、どこかに電話を掛けていたが、その相手の予想は簡単だった。こんなズボラな人間でも結婚が出来たのかと感心しながらも、甘々な伊吹の会話にはちょっと笑けてしまう。
「人の事を笑うんでないよ。あたしのダーリン。良い人なんだー」
そう言うと彼女はスマホを見せて来た。そこにはあまりカッコイイとは言えないが、人のよさそうな人間が写っている。しかし、僕が人の事を批判できる人間では無い事は解っていた。
「それは良かったな」
「だーかーらー。今からキッチリあたしの恋愛だったりトウの知らない昔話をするのだ!」
もうコイツに反論する気は無くなっていて、従うしかないのでこの人さらいの腕を引くのは辞めてもらいたい。しかし、伊吹はそんな事はお構いなしに歩測も速く僕を引っ張って進んでいた。
駅からちょっと歩いた繁華街の外れに有る店の前になって、やっと腕が開放された。
「懐かしいだろ。この店」
本当に懐かしい。高校の頃は毎日の様に通っていたお好み焼きの店で、僕たちグループのたまり場でも有った。
「懐かしいな」
伊吹に言われたからでは無くて、その店の外観が時が止まった様に昔と全く変わってない様子だったので、つい呟いていた。
そんな姿を見て、伊吹がニッカと笑うと、ガラガラと店の戸を開く。
「オッス! 今日は懐かしい生物を捕まえたぞ!」
昔の店主は老夫婦で、誰もがおじちゃん、おばちゃんと慣れ親しんでいたが、こんな風な言葉遣いをした事はコイツでも無かった。
それはそうだった様で、店にあの頃のおじちゃん達は居なくて、バイトの女の子が居るようだったが、伊吹もその子に言った訳じゃ無かったみたいで、女の子は明らかにはてなマークを浮かべていた。
しかし、未だに常連の様子の伊吹は「ホラよ」っと座敷席の方へ僕を押して座らせた。
「なんだよ。誰かと思ったらノブタカじゃないか。久し振りだな!」
ゴトっと頼んでもないビールを置いた店主のその顔はおじちゃんじゃなくて、こちらもまた知っている顔だった。
名前は丸穂文章(まるおふみあき)と言う。コイツも僕たちのグループの面子で、特徴と言えば馬鹿だった。
「お前がこの店を継いだのか?」
「オウ! 店を閉めるって聞いたから脱サラして今じゃ繁盛店だ」
「その割にはいっつも空いてるけどけんどな」
話の途中に伊吹が笑いを挟むのは昔からの事でこんな事も懐かしいし、それに対して怒って文句を言っているが、勝てない丸穂ですらも懐かしい事柄にしかなってない。
馬鹿の丸穂でも今は店の主になっていて、それに比べると自分なんてどうしてこんなに情けないんだと、スーッとその笑いに入り込めない僕が居る。
「ユートは注文はどうする? 取り敢えずビールか? 今日は俺の奢りだから気にすんな」
「んじゃ、あたしはミックスモダンととんペイ焼きに、ビールはプレミアム!」
「ホノカの分はちゃんとお代をいただきます」
「ケチー!」
この二人の事を見て居たら昔なら大笑いをしていたところだろう。確かに今だって楽しいのだけど、それが表に出ない。こんなに楽しいのにつまらないと思ってしまう僕はやはり救えない。
「なんだよ。そんな顔してんじゃねーよ。俺様のお好み焼きを食ったら上手くて驚くからな」
「いや、俺は別に腹も減ってないし」
最近はずっとそうで空腹という概念が欠如しているみたいで、ただ時間に合わせて栄養を摂るようにしているだけの毎日になって、味なんてものも忘れてしまっていた。
その筈だったのにその時にタイミングも良く「ぐぅー」と僕のお腹が鳴った。それで二人は大笑い。
「解ったって、ユートは豚玉モダンで良かったな。急いで作るから待ってろ」
お腹が鳴ったなんていつ振りだろう。それはまだ忙しく働いていた頃、イヤ、それよりも前、バイトしても貧乏で食うものにも困っていた頃の様な気がしていた。それなのに今はちょっとあの頃のお好み焼きの味が思い出されて、お腹が減っている様な気がする。
丸穂がカウンターの方に戻って調理を始めたが、向かい側では伊吹がビールを片手に難しそうな顔をして、また片手でスマホを操作していた。
「おっかっしーなー。連絡が帰ってこないぞい。電話してみれ」
独り言をしながら伊吹がまだビールを離さないで電話をし始めた。誰に電話をしているのかはこの順番だともう解っていたが、そんな事はどうでも良い事だ。
暫く彼女は電話を耳に当て待っていたが、眉間に皺を寄せると「出ないや」と言ってため息と一緒にスマホを置くと、ずっと持っていたビールを飲み干してお代わりを頼んでいた。
黙って僕は水を飲んでいると、素早い事で丸穂の方が席に戻って来た。
「お待ち! 焼き方くらいは憶えてんだろうな?」
このくらいの事ならどうにか忙しい仕事で消されてしまっていた記憶に残されていたので、普通に焼き始めるが丸穂が横に座ってずっと見ている。そんなに僕が焼き方すらも忘れていると思っているのだろうか。
「ちょいと、マル? 仕事しないかい」
「今日はお休み。バイトの子も帰しちゃったし暖簾もちゃんとしまっている!」
堂々と丸穂は自分の店をサボタージュするのでちょっと呆れていたが、それに文句を言いそうな伊吹は普通にしている。恐らくこんな事は良く有るのだろう。そして丸穂は普通に自分の分のお好み焼きも焼き始めた。その時の配席は昔と全く変わってない。僕が通路側で丸穂が壁側に並んで、迎えに伊吹、そして僕の迎えには友野媛南(とものひめな)が昔なら居た。
媛南は残されたこのグループの人間で、伊吹が連絡を取ろうとしていた者。だけど、今日は来ないだろう。彼女は僕に良い思い出がないだろうから。
昔ほんの少しの間だけ媛南とは付き合っていた。とは言えそれは手を繋ぐ程仲良くなる前に別れてしまったのだ。その理由は僕が都会へ出ると言う事だった。彼女は地元へ残る事を望んでいたのでそこで仲違いをして、喧嘩からの別れでそのまま僕はこの街を出たので会ってない。
こんな風に思うと友達だったままの方が良かった様な気もする。付き合っても別に恋人の様な事は無くて数度デートはしたが、基本的に四人で会っている時と一緒だった。それが友達から恋人にランクアップしたのでそんな喧嘩になってしまったのだ。ただ幸せを望んだだけなのに馬鹿らしい。
「しかし、ヒメナちゃんは呼ばないのかよ」
勝手に思い出していると丸穂が急にその事を話題にした。伊吹に対して言っている様だが、その時に僕はせき込んでいた。あまりのタイミングの良さだったからでも有る。
「もちろん連絡は取ってるよ。でも、返事がないのさ。独身の女の子の週末は忙しいんかなぁ?」
「その割にいつもは店にイブキと一緒に来るじゃネーか」
不思議そうな顔をしながら伊吹が「だよねー」っと言っていた。やはり媛南は僕に会いたくないのだろう。その事は過信から確信になっていた。
彼女の事はまだ伊吹が連絡を取ろうとしながらも暫くお好み焼きを焼きながら、丸穂と伊吹と昔話をしていた。それはどれも懐かしく、こうして二人と話しているだけでも懐かしい。言うなれば死を考えている僕の走馬灯になるのかもしれない。
ずっと楽しそうに二人は話して居るが、その空間で僕だけが違う次元に居るようで、笑っている二人もその事には気付いている様子。でも、今の僕にはそんな事を気にして愛想笑いも出来やしない。
お好み焼きが焼けた頃になって、閉店になっている店の扉が開いた。もちろん対応するのは店主の丸穂で立ち上がって臨時休業を告げるのかと思いきや「やっとかよ」とそんな声が聞こえたので僕は振り返った。信じられない事を想像しながら。
そこには媛南が居た。走ったのだろうか息を切らして、こちらを見ると細やかな笑顔が見えた。その笑顔でさえ昔の面影が残っていて、心が痛くなってしまった。
取り敢えず丸穂が注文も無かったが媛南の分のビールを用意して、四人集まった事から「乾杯をしよう」と言い出した。するとそんな時に音頭を取るのは、リーダー的な役目を勝手に担っている伊吹だった。
「それでは、トウの故郷への帰還によって、また四人が集まれた事を祝いまして!」
『カンパーイ!』
三人が声を合わせてとても楽しそうにジョッキを合わせていた。それに一応ジンジャエールで僕も付き合ったが、みんなの様に楽しくなっている訳では無い。笑う事も忘れていた。
その事にもう伊吹と丸穂は気付き始めているのだろうが、媛南はそうでは無いだろうと思っていた。それなのに彼女は僕の向かい側からちょっと睨んでいる。
「藤堂? 折角なんだから笑いなよ。そんなの藤堂らしくないよ」
ごもっともな事でも有る。この四人で一番笑顔なのは昔から媛南だが、二番手を選んだのなら昔ならこの僕だった。笑うのが好きで媛南とは冗談をいつも言い合い伊吹達を残して二人で笑っていた時も有る。
だから媛南は直ぐに気付いて乾杯のジョッキを持ったまま口を付けないで、こっちを睨んでいた。
「まあ、ノブタカも戻ったばかりなんだから」
「イヤそれにしても、トウはちょっと暗いよ。悩みでも有るんかいな? あたしが聞くよ?」
二人共心配してくれている。そして媛南も。普通ならこんな時はカラ元気をするのだろうが、今の僕にそんな余裕は無い。俯いて黙り込んでしまった。
「黙ってちゃ解らないって」
呆れた様にため息を吐きながら媛南がまだビールに口も付けづにジョッキを置いていた。黙り込んでいる僕と怒ってしまいそうな彼女なので、伊吹と丸穂は静かになっていた。
「誰もが能天気に暮らしてきたと思うなよな」
みんなが幸せそうな気がして僕はついグチてしまった。一言文句を言ってしまえばそれからは次々と溢れる様に黒い話を進めてしまった。
僕がこれまで苦労した事と病んでしまった黒歴史ばかり、そして死ぬとは言わないが、どうして故郷へ戻る事になったのかを延々と語っていた。
それに伊吹と丸穂は若干理解がした様に言葉が無い様な顔をしていた。
「こんな人間が生きてるなんてアホらしいだろ」
聞いている訳では無くて断言する様に語ったのだったが、それに対して媛南は同情する事も無かった。
バンッとテーブルを叩くと立ち上がって、僕の襟元を掴んだ。
「自分だけが不幸を全部背負ってるなんて思うなよ。だから死にたいって言いたいの? そんなの許さないから!」
顔を近付けて怒鳴っている彼女の瞳は潤んでいた。
「私は藤堂が死んだら悲しいよ。泣くよ。受け入れられないよ」
そんな事語りながら僕を掴んでいた手が力なく降りた。
「そうだよ。俺だってノブタカが死んだりしたらまともで居られる自信なんて無いよ。そんな事間違っても言うなよな」
一つ咳払いをした丸穂が照れている様子も無くて真っ直ぐこちを見ながら話した。
「そんなんあたしだって一緒だって。この四人が一緒に居られないなんて信じられん。有り得ない!」
次に伊吹が叫ぶように言っていた。
僕は「死ぬ」なんて言葉はみんなに使わなかったのにそれはちゃんと伝わっていた。恐らくみんな確信をもって僕が死にに帰ったのだと思っている。間違ってない。さっきまでは。
媛南の潤んだ瞳を見て、丸穂の強い言葉を聞いて、伊吹の知らない弱さを憶えて、僕はもう一度立ち直っても良い様な気がしていた。そう思うと涙が流れてしまった。テーブルに伏せてワンワンと泣いてしまった。
「俺は、死ぬ所を選んで帰った筈だった。それなのにみんなに会ったら死にたくないって思いが生まれた。こんな事になるなんて思ってなかった。さっきまでは死ぬつもりだったのに」
自分でも意味の解らない事を話しているのは解っていたが、誰もそんな事を気にしていない。丸穂が背中を優しく叩いてくれて、伊吹が手を伸ばして頭を軽く叩いて、媛南が肩に手を置いてくれる。そのどれもが勇気に分けてくれている気がしていた。
「まあ、なんだ。我ら生まれた時は違えど…」
「あたしは中国史はキライだ。そんな言葉が無くても、トウだってもう解ったろ」
場を和ます様に丸穂が話し始めたが、それを遮って伊吹が話していた。そして続く言葉を媛南から有るだろうから二人は待っている。
「取り敢えず笑いなよ。そうじゃないと藤堂らしくないよ。今は昔に戻ろうよ」
そんな彼女の笑顔が見えて僕はちょっと笑えた。もう随分と笑ってなかった事に気付き、みんなと一緒だった頃の笑顔を取り戻せた気がしていた。
それからはみんなが僕を含めて楽しい宴会になった。こんなに楽しかった事はこの店のあの頃以来だった。とても懐かしい。
僕は本当に死ぬ所を探していた筈だったのにそれは間違いでこれから居る街に帰ったのか。
おわり
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