僕の好きな作家はいつも芥川賞を逃す。

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 体育館の近くまで再びやってくると、そこにはぼろぼろの、耐震がまずそうな木造の建物がひっそりと建っていた。始業式が終わったあとだからあたりはしんとしていて、遠くからは下校する生徒たちの喧騒が聞こえる。たくさんの木に覆われて隠れるように建っているその建物に、僕は近づいた。  観音開きのドアの前に立って中の気配をそっと伺うと、何も物音がしない。人がいる気配はない。おまけに、ドアノブが少しドアの板から浮いていて、もしかしたら引っ張れば外れるんじゃないかと思うほど老朽化している。  そっとドアノブを握って、回す。ぎい、と嫌な音を立ててドアが片方だけ開いた。中は暗く、窓から差し込む光以外には光源がない。埃っぽい中に足を踏み入れると、床の木も悲鳴を上げた。 「誰?」  中から唐突に声がした。僕の足音で侵入者に気づいたのだろう。  人はいないのかと思っていたから僕は飛び上がりそうになってしまった。 「似奈?」  僕は暗がりに向かって声をかけてみた。こんなところに来る人間は自分しかいないと、似奈と約束したときに言っていたからだ。声の主が似奈であると、八割くらいの確信があった。 「あ、颯太くん?」  奥から制服を着た女の子が歩いてきた。 「やっぱり似奈だった。よかった」  僕は少し胸をなでおろす。 「ちゃんと来てくれたんだね」  似奈は言った。嬉しそうな声色だ。表情は暗くてよく見えない。 「二階に座れるところがあるの。ちょっと来て」  似奈は歩き出した。よく見えなかったが、入り口のすぐ隣に二階へと続く階段があった。  彼女に続いて階段を登る。ここも相当老朽化していて、床の悲鳴は鳴り止まない。  二階まで登ってしまうと、そこは意外と明るかった。 「ここでいつも本を読んでるの」  洋風の、クラシカルで大きな机が二階のど真ん中に置かれていて、その周りには六つの椅子があった。椅子もデザインが机と似ている。ここは洋館をイメージして建てられたのかもしれない。 「一階は埃だらけだけど、二階はいつも私が掃除してるから。いつ来ても大丈夫だよ。鍵は私か現代文の小堂先生のどっちかが持ってるはず」  彼女は椅子の一つを引いて座った。  読書するにはこれ以上ない良い環境だ。たくさんの本、椅子と机、それから文学少女。 「そういえば、ここは図書館倉庫って言ってたけど、図書館の一部ではないの?」  僕は気になっていたことを訊いた。貸出できない本なのだろうか。 「ここは結構コアな本が置いてあるのと、古すぎて貸し出せないんだって。結構価値のある本ばかりだから大事に保管しているんだけど、そのせいで日の目を見ることがなくなっちゃったって、小堂先生が言ってたよ」  彼女はあたりを見回しながら言った。 「あと、君の敬愛する太宰治の全集だってあるよ。もちろん芥川龍之介の全集も」  得意げに似奈は笑った。 「ほんとに?」  僕は食いついた。全集は高校生には高くて手が出せない。なかなか手に取れる機会がないのだ。こんなところで読めるとは知らなかった。 「うん。二階に上がってもらったところ悪いけど、ちょっと来て」  彼女は階段のほうへ向かって歩き、また床を軋ませながら階段を下った。僕もそれについていく。  下にはやはり、カーテン越しに差し込むやんわりとした光しか光源がない。  似奈は一階まで降り切ってしまうと、入り口の左側にあるスイッチをぱちりと押した。  すると、ばちばちっと瞬いて古い電球が点灯した。初めて姿を現したそれは、古いシャンデリアのような形をしていた。 「ずいぶんおしゃれなんだね」 「うん。しっかり洋風だよね」  似奈は「ついてきて」と言って、書架の間をずんずんと進んでいく。迷いない足取りだ。太宰治全集の位置を覚えているらしい。  電気が点くと、余計に館内の埃っぽさが分かった。足元には僕らの足跡がうっすらと浮かび上がっている。 「これ、掃除したほうがいいんじゃないの。本にも悪影響でしょ」  前を歩く似奈の背中に言った。 「そうだよねぇ。二階は一人で掃除したんだけど、一階まで手が回らなくて。創太くんがいたらきれいにできちゃうかもね」  似奈はいいことを思いついた、という風に少し後ろを向いて顔を輝かせた。 「いいよ。こんど掃除する?」 「うん。私もずっと掃除したいなとは思ってたんだよね」  前を歩く似奈は僕よりもそれなりに背が低い。初めて意識したが、似奈と僕は身長差がけっこうあるようだ。彼女のつむじがよく見えている。  似奈のほうが年上ではあるが、やはり女子はそういうものなのだろう。中学三年生で身長が止まってしまう子もいると聞いたことがある。 「じゃあ明日にでもする? 似奈の時間があれば、だけど」  似奈は上級生だ。僕らより勉強が忙しいかもしれないし、進路に悩むことがあるかもしれない。二年生のスケジュールは全くわからない。とりあえず訊いてみることにした。 「空いてるよ。てか基本、私そんなに用事ないから」  少し自嘲気味に似奈は笑った。 「友達と遊ぶとかさ、ないの」  僕はその言い方が少し気になって訊いた。似奈は容姿端麗だと思うし(同性からどう見られるのかは知らないが)、話し方もはきはきとしている。頭も良さそうだし、友達が多そうに見えるのに、どうしてそう自嘲気味に「予定がない」と言うんだろう。それが少し引っかかった。 「んー……。ないかな。私、恥の多い生涯を送ってるからね」  似奈が口にしたのは、太宰治の書いた「人間失格」の一節だった。 『恥の多い生涯を送ってきました。』で始まる、「人間失格」の「第二の手記」という、いわば第二章のような部分。その冒頭の一文を彼女は口にしたのだ。僕にはすぐにわかった。 「そんなこと言ったら僕もだけどさ。高校に入ってようやく友達が少しずつできたけど。でも似奈は友達が多そうに見えるけどな」  僕は何気なくそう言った。  実際は、学校での彼女のことなんて全く知らない。何組かさえ知らないし、名前と性別、そして文学が好きなことくらしか僕に知っていることなんてないのだ。会ったのも今日で二回目なんだから。  しかし彼女は黙り込んで、立ち止まってしまった。  彼女は書架に向き合う。そこには、壁にきれいに並べられた「太宰治全集」が何冊もあった。 「ここか。ありがとう」  僕がそう言っても、彼女は何も言わなかった。僕の角度からは彼女の表情が伺えない。 「あの……気に障ったならごめん」  さっきの「友達多そうに見える」が気に障ったのだろうか。もしかすると、彼女の地雷だったのだろうか。僕は少し不安になってきて、謝った。 「あ、いや、別に気に障ったとかじゃないんだ。私って友達多そうに見えるのかな、ってちょっと考えただけ。ねぇ君は、太宰治って友達が多かったと思う?」  似奈はその話をしたくなさそうに、話題を切り替えた。  僕はその話題に少し興味をそそられ、さっきの似奈の表情は気を悪くしたからではないといいのだが、と、気に留めないことにした。 「太宰先生は、友達は多かったかもしれないけど、本当の心のうちを話せる友達が何人いたんだろう、っていうのは僕も気になるな」  少し考えて自分の見解を口にした。  すると彼女は少し考え込むようにして、 「……そっか。そうだね」 と、ぽつりと言った。  僕たちは部活終了時間まで二階で本を読みながらだらだらと雑談をし、さあ帰ろうかという頃にはあたりは暗くなっていた。 「じゃあ明日、掃除しようか。掃除用具は小堂先生に借りておくから、また放課後ここにきて」  似奈が倉庫の鍵を締めながら言った。外はまだ少し暑いけれど、半袖の中に入り込んでくる風は夕方になると少し涼しくなる。 「わかった。明日は六限だから、そのあとに来る」 「私も六限。じゃあね。私近所だから、ここでお別れだね」  似奈は駐輪所のほうを指差して言った。俊たちと同様、自転車できている近所の生徒なんだ。初めて知った。 「僕は電車だから。じゃあまた明日」  そう言って僕たちは図書館倉庫の前で別れた。駐輪所と駅は真逆の方向にある。  図書館倉庫で会って、図書館倉庫で別れる。図書館倉庫で会うだけの友達。  不思議な友達ができたものだ。
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